◆◆◆ ロケ地 探訪 ◆◆◆
■千葉県 佐倉市
旧堀田邸 3 −国指定重要文化財−
■志葉のお屋敷として使用
旧堀田邸見学の3です。
最後は、お庭の見学になります。
玄関から外に出て、湯殿の方(東側)から庭に回ります。
低い柵が見えていますが、これは志葉家敷地境界ではありません。
単にお屋敷の周囲を囲っているだけです。
古い大きな木がありました。
百日紅でしょうか。
紅い花は、志葉家当主によく似合いますからね A^^;)
さらに志葉邸の南側に廻り込むと、座敷棟が見えてきます。
丈瑠の部屋の縁側ですね。
丈瑠の部屋のためだけの庭が設えてあります。
ここには、松が多いようですが、旧堀田邸では松枯れに悩んだそうです。
もしかしたら外道衆の仕業かも知れませんね(笑)
一部、伐採されてしまった木もあり、その跡を見ることもできます。
庭園は、細かく計画されて作られたそうです。
ここにある木も、一本、一本、購入して、植えられたものです。
いよいよメインの場所ですので、少し近づいてみます。
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志葉邸の南側の柵際に立ち、見まわしてみます。
まずは、東側の座敷棟。
そして、丈瑠がよくくつろいでいた居間棟(二階建て)の縁側と
その前に拡がる侍たちの稽古の場。
縁側に続く渡り廊下から、外壁が黄色い書斎棟。
書斎棟の前のお庭は明るくて開放的です。
柵の外に出るかわいい門もあります。
第十八幕 侍襲名では
この塀の外に源太が屈みこんで、
丈瑠と茉子の会話を聞いていたことがありました。
もう一度、稽古場を正面から。
ここで打ち合いをしたり、モヂカラの稽古をしたり………
源太が志葉邸にやって来た日には、丈瑠はあの縁側でお腹を抱えて笑っていました。
そして最終幕にも、あの縁側で感慨深い顔をしていた丈瑠。
やはりここに丈瑠はいたんですね。
そして、今もいるのでしょう。
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今度は、お庭に目を転じてみると、起伏のある斜面に芝生が敷きつめてあり、
その中に、大きな雪見灯籠が目につきます。
横には、大きな庭石もあります。
第六幕 悪口王 で、千明がことはに謝った場所。
第四十一幕 贈言葉 で、やはりことはが手紙を読んでいたら、源太や茉子たちが
励ましに来てくれた場所も、この辺りでした。
ちなみに、私たちもここで、東京から買って来たおにぎりとお茶を頂きました(^^)
一応、旧堀田邸の人に断って、ですが。(公園になっているので、問題ないようです)
志葉家の人になった気分で、美味しく、楽しかったです♪
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雪見灯籠の辺りから、志葉邸を見ると、こんな感じです。
小さかった丈瑠も、お天気の良い日は、この場所に毛氈を敷いて、
爺と黒子ちゃんに従われながら、おにぎりを頬張ることもあったかもしれないですね。
あの門から、爺が小さな丈瑠の手を引いて出てくるのが
目に浮かぶほどです。(かなり、きてますね A^^;)
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さて、ここからはお庭の写真のみを連続で。
つまらないかも知れないので、志葉屋敷敷地の妄想を交えた話でも。
志葉家敷地は、三万坪ほどあります。
収集した旧堀田家&邸&庭園の資料によりますと、二万坪と三万坪の記述あり。時代によるものかと思います。
広い方がいいので、勝手に三万坪の方を採用しています。
そういう訳で、うちのサイトの志葉邸も三万坪ほどあることになったのでした。
それで、うちのサイトの志葉邸は、お話の中で何度も書いていますが、東京都心部にあります。
えっ!?あり得ない!
………と、思われるかもしれませんが、都心部は、元大名屋敷が公園になった場所も多く、
これくらいの土地は、今でも現存できると考えています。
例えば、
・浜離宮恩賜公園は将軍家の別邸で、7万坪。
・新宿御苑は、内藤家(江戸屋敷)で、約19万坪。
・有栖川記念公園は盛岡藩の下屋敷で、1.5万坪。
・旧芝離宮恩賜公園は、老中・大久保忠朝の屋敷が始まりで1.3万坪。
・清澄庭園は、関宿藩の下屋敷から岩崎弥太郎の屋敷(江戸時代は、豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷跡?)で、2.5万坪。
などなど。
他にも例を上げればきりがないほど、東京都心部には、大名屋敷跡がそのまま庭園になっている場所が多いのです。
志葉家も、そんなうちのひとつと考えて頂ければ、問題なし。
ちなみに志葉邸は、起伏が激しく昔はタヌキの住処だった麻布とか、白金。
または、もう少し海に近い三田のあたりを想定しています。
江戸城にあまり近い場所に、外道衆に襲われる可能性のある志葉邸を置くことは、許されなかったでしょう。
(東京駅、日比谷、大手町、丸の内、霞が関、永田町あたりは、将軍家縁の大名、または大大名ばかりがいた場所ですし)
時代劇でお馴染の、築地や八丁堀あたりは、主に町人町、旗本町ですから、これもちょっと違うかな。
一方、これ以上遠くになると、江戸の街中に気軽には行けないですからね………A^^;)
シンケンジャーの祖先のみなさん、江戸の街中で活躍されていたようですし。
それが可能な地域で、なおかつ町人のみの町でない場所………ということで、想定しました。
旧堀田家は、高台の上に立ち、屋敷から水田などを見下ろせるようになっていました。
農業試験場をひらき、病院や医学館、学校、幼稚園なども作りました。
堀田伯爵は、家臣や領民にとても愛された、良い殿さまだったのです。
これを良いとこどりで、志葉家に読み替えます。
(これ以下、全部、妄想です)
学校、病院などは、外道衆との闘いの関係上、建てられなかったと思いますが
医学館とそれに付属する、シンケンジャーの手当て、場合によっては手術をする診療所
(基本、志葉家家臣専用)などは、存在可能だったでしょう。
そういう訳で、志葉邸内には、田んぼも畑も、薬草園もあるんですね。
そして薬草園の隣には、昔の医学館の名残の建物(洋館ですよ♪)があり、黒子ちゃんたちが管理しています。
その洋館には、コンサバトリー(ガラス張りの部屋)と、それに続く巨大な温室があります。
温室には、屋外で育てられないハーブ、薬草、そして毒草などが、黒子ちゃんたちの厳重な管理の下、育てられています。
また東京は、土地の起伏が激しく湧水も多いので、志葉邸の崖下からも豊富な湧水が出ています。
それを利用して、回遊式庭園を作っています。飲み水なども、井戸、湧水でまかなっています。
ちなみに旧堀田邸は、建物も庭園も、全て東京で資材を集め、東京で加工し、東京の職人(人足以外全て)に
より作られましたので、うちのサイトの志葉邸が都心の真ん中にある設定でも、問題ないでしょう。
旧堀田邸庭園には、洋風庭園の技法も取り入れられています(芝生など)が、基本は和風庭園です。
お屋敷の前には、水田、対岸の大地を見渡す見降ろしを重視した、散策用遠路のある広庭があり
他には煎茶座敷、茶室、果樹園、稲荷神社、畑、水田などなどを敷地内に持っています。
このため、うちのサイトの志葉邸にも、茶室、果樹園、稲荷神社、畑、水田などなど………がある設定です。
ちなみに、佐倉の旧堀田邸の造園を任された巣鴨の植木職人(珍珠園 伊藤彦左衛門)は、
東京の堀田邸にも関係しましたし、前田侯爵家、木戸孝允邸の庭師でもあった方で、
前田家の造園の際には、京都鴨川から取り寄せた、泣き声のきれいな河鹿蛙数十匹と、蛍二万匹を、庭に放ったそうです。
庶民の想像の域で考えては、まずそうです。
………とまあ、丈瑠のお家の庭は、それだけすごいということですね♪(←ここは妄想)
もちろん、蛍も河鹿蛙もいることでしょう(^^)
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さて、庭も大方見終わり………
(本当はもっと奥まで行きたかったのですが、時間が………)
いよいよ、お別れです。
名残惜しいですが、また来ますね。
お疲れさまでした。
長くて、妄想だらけの志葉邸探訪、最後まで読んで頂きまして、
ありがとうございました。m(__)m
2011年 冬 撮影
2011.08.31 UP