薄暗い丈瑠の寝室。その中央に敷かれた布団。 そこで今、丈瑠は眠りについていた。その傍に座るのは、もちろん彦馬だ。 微かな灯りに浮かびあがる、丈瑠の顔。深い影に縁取られたその横顔を、彦馬は見つめ続ける。人には決して見せることのない、暗く沈んだ瞳で。 丈瑠が志葉家に入って以降の十八年間、彦馬が見守り続けてきた丈瑠の寝顔。 丈瑠が外道衆との闘いに傷ついた時はもちろん、病気で熱を出した時も、精神的に揺らいでいる時も、彦馬は今と同じように、丈瑠に寄り添い続けてきた。丈瑠が闇を異常に怖がる子供だったせいもあり、丈瑠の様子が少しでもおかしければ、夜であろうと彦馬は眠る丈瑠の傍に座り続けた。丈瑠が夜中にふと目を覚ました時、いつでも最初に、彦馬の姿が目に入るようにと。それが幾晩に及ぼうとも、丈瑠から離れることなど考えられなかった。 幼くして、影武者という立場にさせられた丈瑠は、なにもかもが不安定な子供だった。自分が支え、見つめ続けていなければ、すぐにでも儚く消えていなくなってしまうのではないか。彦馬は、幼い頃の丈瑠にそのような印象を持っていた。丈瑠の成長と共に、そのような危惧を感じる頻度は減っていったが、なくなることはなかった。 そんな危惧を感じる度に、彦馬は丈瑠の父に誓ったことを思い出す。 「今日より、命をかけて支え続ける。堕ちぬように………我が殿として………」 自分が丈瑠の傍にいさえすれば、丈瑠の身に何があっても助けられる。助けてみせる。それが外道衆の攻撃からでも。丈瑠自らの心の問題からでも。十八年前から、ずっとそう思い続けてきた。 しかし今、丈瑠の傍にいても、彦馬は丈瑠の傍にいる気がしなかった。丈瑠が呑み込まれそうになっている何かから、丈瑠を救える気がしなかった。 ほんの数十pしか離れていないのに。すぐそこに、丈瑠の顔があるというのに。丈瑠に手が届く気がしない。 思い起こせば一年前、丈瑠が志葉家を出て行ってしまった時も、同じ想いが彦馬を襲った。 丈瑠が、どこか果てしなく遠い場所へ行ってしまうのではないか。もう二度と、丈瑠をこの胸に抱きしめることができないのではないか。そのような予感が彦馬の胸に迫り、丈瑠を失ってしまうかも知れない不安に、押し潰されそうだった。 この不安は、外道衆との闘いに出て行く丈瑠を見送る時に感じる、無事に帰って来て欲しいという想いとは、全く質の異なるものだ。外道衆との闘いでも、丈瑠が死ねば、丈瑠は彦馬の手の届かない世界に行ってしまう。しかし一年前に、丈瑠が志葉家を出て行った時。そして今。彦馬が感じている不安は、そういうものではなかった。 『死』よりも遠くへ、丈瑠が行ってしまう恐怖。輪廻の輪からすらも外れて、もう二度と交わることのない世界に、丈瑠を連れて行かれてしまう絶望感。 それは、この気持ちを味わった者にしか分からない苦しみ。 一年前のあの時。 初めて、今と同じこの思いを彦馬が抱いた時は、外道衆との闘いが佳境だった。 彦馬が面倒をみなくてはならない侍たちは、丈瑠の影武者問題で激しく動揺をしていた。それなのに、ドウコクとの最終決戦に向かおうとしていた。志葉家の家臣・日下部彦馬としてならば、あの時すべきだったのは、侍たちの心の支えになることであり、薫や丹波の補佐だったはずだ。 彦馬は、それら任務を放棄した訳ではない。最低限の指示は黒子頭に出していた。黒子たちは、自分たちも丈瑠が心配でならないのに、彦馬の指示に辛抱強く従ってくれた。だから表向きは、彦馬は志葉家のために働いているようにみえただろう。しかし彦馬の心は、あの時もはや、志葉の正当な後継ぎである薫や、丈瑠の後見役という役目を彦馬に与えた丹波には、なかった。彼らを尊重することはできても、それ以上の気持ちはどこにもなくなっていた。 不吉な予感ばかりが胸を去来した、一年前。 丈瑠が出て行ってしまったあの時の彦馬の、唯一の頼りが源太だった。 志葉家と対立する立場になった時、最期まで丈瑠の傍にいてあげられるのは、侍たちではなく源太だったのだ。 最終的には、流ノ介や千明たち侍も、丈瑠が志葉家当主でなくとも、丈瑠の家臣として従うと誓った。丈瑠は、志葉家当主という肩書きなどなくとも、流ノ介たちの「殿」なのだ。流ノ介たちの「主」なのだ。 彦馬が長い間望んでいた形に落ち付いたのだと、ほんの少し前まで、彦馬は信じていた。 そして、ドウコクを倒した後もたゆまぬ精進を重ね、力を増していく丈瑠。ドウコクを倒した今くらいは、ゆったりと普通の若者らしい生活を味わってみて欲しいと思う彦馬の願いとは裏腹に、何かに追われるかのように、前よりもさらに激しく、悲愴なまでに強さを求め続ける丈瑠。それと共に、丈瑠の考えていることが、彦馬には理解できなくなってくる。 幼い丈瑠を育てていた時とは、また異なる不安が、彦馬の胸を去来し始める。いや、それともこれは………ずっと、遥かな昔から、丈瑠の父が危惧していたことなのだろうか。自分の手を離れ、どこか知らぬ世界に行こうとしている丈瑠。それを見つめているしかない、彦馬。彦馬にとっては、言葉にできぬ不安に揺れた、この一年間だった。 それでも、未だ丈瑠を殿と慕ってくれる侍たちに、彦馬はどこか安心していた。 「侍たちなら、わしの手に負えないほどの力を手にした殿でも、頼むことができる。もし殿がどこかに行こうとしていたとしても、最後は侍たちが、殿を引き留めてくれる」 そう信じきっていた。 「これも、まやかしだったのかも知れないな」 彦馬は今、そう思う。 「わしは、自分を騙していたのだ。ただ、そうあって欲しいと願っていただけなのだ」 悲願であったドウコクを倒した一年前。 丈瑠も志葉家当主に返り咲き、志葉家としても、丈瑠自身としても、大団円に思えたその結末。 侍たちは、源太と同じような想いを、丈瑠に抱いてくれたのだろうか。 そうではないことは、彦馬にも判っていた。 侍たちと源太は根本的に違う。それでも、根本が違っても、表に出る行為としては、同じだと思っていた。 だが今、彦馬は痛感していた。 侍は、侍なのだ。そしてシンケンジャーなのだ。殿さまへの忠義に命をかけても。いや、命をかけるからこそ、譲れないものがある。その譲れないところに、もう丈瑠は来てしまっているのかも知れない。 「よもや、こんな続きが、ドウコクを倒した後にあろうとは………」 彦馬はため息ともつかぬ、息を吐いた。 よくある童話の終わりのように、ドウコクの死と共に、 『このあと、人々は幸せにくらして行きました』 で終われるならば、それこそ何の憂いもない。 しかし志葉家の闘いは、これで終わるはずがない。そうでなければ、三百年も志葉家が続いているわけがない。 三途の川も、この世につながる隙間も、未だに存在し続けている。ナナシも昔と変わらず、三途の河原で生まれている。アヤカシだとて、隙間を通って出てくることは激減しようとも、三途の川の中では今でも存在し続けている。 ドウコクを倒しただけの今の平和は、ほんのかりそめのものでしかない。いつか再び、ドウコク並みのアヤカシが生まれたならば、シンケンジャーと外道衆もまた、死闘を繰り返さねばならない。それが何年、何十年先のことになるのかは、わからないが。 そんな、かりそめの大団円。 『侍たちは、志葉家当主という器ではなく、志葉家当主に相応しい中身を持った人物に、従うことにしました』 まるで道徳の教科書にでも書かれているような、この、言葉にすれば美しい結末には、実は『冷酷な条件』が付いていることを、侍たちはどこまで気付いているのだろうか。 丈瑠が志葉家当主に返り咲いてしまったために、有耶無耶になってしまったこと。 有耶無耶でも、良かったのだ。同じことが繰り返されず、また、何ごとも起こらなかったのならば……… しかし、ことは起きてしまった。 「だが、仕方がない」 彦馬は一人呟く。 「それが、シンケンジャーというものであり、志葉家家臣の正しい在り方なのだ」 ただそこから外れた者のみが、シンケンジャーや志葉家家臣の冷酷さに、唇を噛む。 「それだけの強い心がなければ、闇に巣食う外道衆と闘い続けることはできん」 幼い丈瑠にも、何度もそう教え込んできた。 それと同じことを今、彦馬は、自分を納得させるために何度も口にする。しかし頭では納得できても、行動に移せるかと言われたら、できなかった。 そんな彦馬の脳裏にふと蘇る、まだドウコクと闘っていた頃の、源太の姿。 奥座敷での作戦会議の席で、いきなり謝ってきた源太。 「甘ぇんだよ!俺は!!」 十臓を倒せるかも知れないと判っていたのに、見逃したのだと源太は告白した。 「俺は、生まれついての侍じゃねぇから!」 土下座して謝る源太に、流ノ介は言い放った。 「侍としての覚悟がない」 敢えてきつい言葉を使う流ノ介。 生まれついての侍であり、侍として純粋培養されて来た流ノ介の中では、侍としてのあるべき姿が、とても明確なのだ。 だから彦馬には判る。 いつか。 丈瑠が、流ノ介の考える『殿』としての条件から外れた時。 流ノ介が最後に、どんな決断をするのか、が。 そしてそれは、茉子も、ことはも同じだろう。多分、千明すらも。何故ならば、彼らは志葉家の家臣、侍なのだから。この世を守るシンケンジャーなのだから。 さらに誰よりも、丈瑠自身がそうなのだ。丈瑠自身こそが、流ノ介よりも誰よりも明確に、侍、シンケンレッド、志葉家当主としてどうあるべきなのか、という理想像を持っている。そして、自らがそうあるべきだと、そうでなければならないと、信じている。 だからこそ、それから自らが外れた時に、何をすべきなのかも判っているのだ。日下部彦馬自身が、十八年の長きにわたり、常にそう在るようにと教え込んできたのだから。 志葉家の論理で彦馬が創り上げた、哀しいほどに理想的な志葉家当主・志葉丈瑠。 丈瑠がその志葉家の論理に従ってしようとしていることを、彦馬は否定できない。それは志葉家当主としては、正しい選択だから。 目の前にいるはずの丈瑠が遠くに感じるのは、このせいだ。どんなに丈瑠が苦しんでいるのだとしても、もう志葉家家臣の彦馬では、丈瑠を救うことができないのだ。丈瑠は、そんな場所まで来てしまったのだ。 もし今、丈瑠のために彦馬にできることがあるとすれば………それは……… 「殿」 彦馬は、丈瑠の寝顔を見ながら呟く。 「もしもの時は、爺もどこまでも………」 ぎしっ。 畳廊下ではなく、縁側の方から音がした。 彦馬が後ろを振り返ると、障子に影が映っていた。その影の形から、そこに立つのが誰なのか彦馬には想像がついた。本来の出入り口からは入りにくかったのか、畳廊下を奥まで進み、縁側を回って、ここに来たのだろう。 障子をそっと開けて入ってきたのは、千明だった。 「なんだ。殿のお部屋は立ち入り禁止だと、お前は、何度言ったらわかるのだ?」 彦馬がいつもと変わらぬ声音で、いつもの台詞を吐く。それに千明は神妙そうな顔をした。千明は後ろ手に障子を閉め、静かに畳の上を進むと、彦馬の横に音を立てないように座る。 「どうした」 丈瑠の顔を覗き込もうとする千明の襟首を掴んで引き戻すと、彦馬は重ねて尋ねた。それに、千明は肩を竦める。 「そろそろ寝ようかなって剣道場から戻ってきたら、黒子ちゃんたちが夜中だってのにバタバタしてて………何か………あった…んだよな?丈瑠に?」 彦馬はため息をついた。 「丈瑠が外道衆と闘ってた………とか、ホントなの?黒子ちゃんたちが、そんなこと言ってたような……」 自分で言いつつも、半信半疑なのだろう。彦馬の顔色を窺う千明に、彦馬は首を振った。 「殿は、湯殿で少し具合が悪くなられてな。それだけだ」 しかしその説明では、千明は納得しなかった。探るような瞳で彦馬を見つめる千明。仕方なく彦馬は、真実を語る。 「悪い夢を見られたのだ」 今更隠してどうにかなる話でもないだろう。 「………夢?」 「ああ。外道衆の夢………多分、十臓の………」 千明の顔が歪む。 「十臓………」 十臓の出てくる悪い夢。 それだけで、千明には十分に、その意味するところが伝わった。 一年前に、千明も見たから。 漆黒の闇の中に立ち上る赤い火柱。 その下に拡がる十臓と丈瑠、二人だけの修羅の世界。 今思い返しても、夢とも現実ともつかぬ、あの晩のできごと。 しかしあの光景を見た瞬間、千明たち三人は直感した。丈瑠が、自分たちが踏み入ることのできないどこかへと、連れ去られてしまうと。 何故ならば、その時の丈瑠は、自分の周囲にほの暗いオーラを纏わりつかせていたのだ。そしてその顔には、自分たち侍にはただの一度も見せたことのない表情が刻まれており、瞳は血の色に揺らめいていた。 「まるで外道のような………」 彦馬が見たならば、確実にそう表現しただろう、その姿、雰囲気。 あれは、丈瑠なのか? いや、あれこそが、本当の丈瑠なのか?丈瑠の本性なのか!? 千明にはそう思えた。 思った瞬間、それを全身全霊で否定した。 「たけるーーー!!」 気がつけば、千明は叫んでいた。喉が破れるかと思うほどに、心の底から叫んでいた。 その声に振り返った丈瑠は、もう千明の知っている丈瑠だった。 ドウコクを倒した後でも千明は、あの血の色に染まって行く丈瑠を、何度も夢に見た。 自分の叫び声に目が覚めた時、いつも寝汗をびっしょりとかいて、目からは何故か、涙が流れていた。現実では、丈瑠はどこにも連れて行かれなかったのに、いつまで経っても、不安が消えない。目が覚めるたびに、もう二度と見たくないと思う悪夢。 しかしそれは、つい先日、現実となって千明たちの前に立ちはだかった。 それと似たような夢を、丈瑠も見たのだろうか。 丈瑠が、誰かに連れて行かれてしまう夢? それは、何を意味するのだろう。 虚空を睨んでいた千明が、何を思いついたのか、はっとした顔になる。 「それって、本当に夢なのか?本当の本当は、ホンモノの十臓だったんじゃねぇの?」 彦馬の方を向き直り、小声で訊いてくる千明。それにも彦馬は、首を振った。 「志葉の屋敷は、モヂカラで守られておる。こんな屋敷の奥深く、殿のお部屋にまで外道衆が入りこめる訳がない」 「でも!………でも十臓は半分人間だったし。それに前になんか、あったじゃん。丈瑠が騒いだ時。えっと………イサギツネ?」 諦めきれない千明が、一生懸命、十臓が本物である理由を考える。 「殿の髪の毛を使った『鏡映しの術』か。あれは本体が来たのではなく、殿を覗き見していただけだ」 「今回もそういうのだったんじゃねぇの?丈瑠、そういうのには敏感じゃない?覗き見だけかどうかは、あの時もわかんなかったんだし。十臓が三途の川だか、あの世からだか、呼びかけたとか………」 千明の必死さが伝わってくる。 千明は、丈瑠に十臓の夢など見て欲しくないのだ。 どうせならば、本物の十臓と闘ってくれた方がましだと思っているのだろう。それならば、十臓が丈瑠の前に現れるのは十臓の意志であり、丈瑠の意志ではない。 「そうだな。だが先ほどのは………」 そんな千明の想いも判るが、先ほどの湯殿での出来事が何なのか、彦馬には判っていた。 あれは、殿が作りだした幻。 殿の心が生み出した闇。 それが十臓の形になって、出てきた。 殿にとって、闇への入口に相応しい形で、見えただけ。 「まあいい」 だが言えない。いくら千明相手でも、こんな真相は。 もし黒子たちが、丈瑠が本当に外道衆と闘ったと思っているのならば、その誤解は解くまいと、彦馬は思った。 黒子でも、判る者には判っただろう。丈瑠の視線の先にあるものが。何もないそこに、丈瑠が見ているものが、何であるのか。それでも黒子は、そうとは言わないだろう。特に侍たちに対しては。 黒子たち、特に古くから志葉家に仕えている黒子たちにとって、丈瑠は特別な存在なのだ。自分たちの「主」というだけではない。自分たちが命をかけて守り育んできた、大切な、なによりも愛おしい、かけがえのない宝なのだ。 千明は、自分の質問がはぐらかされたにも関わらず、それ以上の追及はして来なかった。千明にも、何が真相かは判っているのだろう。 「それで丈瑠、大丈夫………なんだよな」 千明が再び、丈瑠の寝顔を覗き込む。 「………うなされてもいないし」 そう胸をなでおろす千明に、彦馬は敢えて説明しなかった。丈瑠が、志葉家特製の薬湯で、強制的に眠らせている状態にあるとは。そうでもしなければ、神経が焼き切れてしまうのではないかと思うほど、先ほどの丈瑠は憔悴しきっていたのだ。 薄闇の中、黙って座る彦馬と千明。 暫くして、千明が丈瑠の方を見たまま、ぼそりと呟いた。 「丈瑠、誤解してるんだ」 唐突な言葉に、彦馬が怪訝な眼差しを千明に向ける。 「お姫さまが………なんか、舞台のことで思うところあったらしくて、さっき、変な嘘を丈瑠に吹き込んだんだよ」 丈瑠から視線を外さずに、千明は続ける。 「爺さん…彦馬の爺さんを丈瑠から引き離して、お姫さまの屋敷に連れて行っちゃう………って」 彦馬は思わず、目を瞬いた。 「それで、爺さんもそれを承知している。もうかなり前から………みたいな話を、お姫さまがしたんだ。丈瑠、何にも言えないくらい動揺してた」 彦馬の目元がふっと、緩んだ。 ふたつ、謎が解けた。 彦馬はそう思った。 ひとつは、千明がこのような深夜に、立ち入り禁止と判っている丈瑠の私室に、訪ねてきた理由。 黒子が騒いでいたのも事実だろうが、それよりも何よりも、千明はこのことを彦馬に言いに来たのだ。丈瑠が自ら彦馬に問い質すことなどないため、丈瑠の誤解が解けないままであることを、千明は心配したのだろう。 丈瑠を想う千明の心遣いに、頬が緩む。 そして、もうひとつ。 丈瑠が、深夜の冷たい雨の中に立ち尽くしていた理由もまた、これなのだろう。 志葉家に入って以来、何一つ変わらぬ毎日を繰り返すだけだった丈瑠は、変化にひどく弱い。子供の頃の丈瑠は、家庭教師が変わっただけでも、熱を出して寝込むありさまだった。彦馬の年に一回の墓参りでさえ、そのまま彦馬がいなくなりはしないかと、その時期になると精神が不安定になり、結構な頻度で熱を出した。 そんな丈瑠が、彦馬が自分の下を離れると聞いて、普通でいられるはずがない。 「そうか」 しかし気になるのは、薫がそんな嘘をついた理由の方だ。 舞台のことで、思うところがあって?薫はそんなことで、嘘をつくだろうか。薫は、もしかしたら、彦馬がかつて考えていたのと同じことを考えたのではないか。 丈瑠が今までの志葉家当主の枠に納まりきらないような当主になろうとする時、日下部彦馬は丈瑠の成長の邪魔になる。いや、彦馬がいる限り、丈瑠は次の段階に進めない、進もうとしない。 だから、丈瑠がこれ以上の丈瑠になるためには、日下部彦馬を丈瑠の傍に置いておくのは得策ではない。 いつか、丈瑠から彦馬を引き離すために。その時、丈瑠はどのような反応をするのか。薫はそれを、事前に確認しようとしたのではないだろうか。聡明ではあるが、人の心の機微にまで神経がまわるほど大人ではない薫なら、やりそうなことだ。 しかし、これも志葉家の論理から行けば、正しいのだろう。 丈瑠が突然、十臓の幻を創りだしたのも、彦馬を失う恐怖が引き金になっているからかも知れない。そうだとすれば、彦馬は今や、丈瑠の弱点でしかないのだ。丈瑠の存在を支え続けた彦馬だった。だからこそ丈瑠は、彦馬がいなければ存在できないほどになってしまったのか。 これから成長していく丈瑠にとっては、彦馬はいない方が良い。 本当の意味での、無敵で、理想の志葉家当主として丈瑠が生きて行くためには、それが最良の道なのだろう。 ドウコクを倒して以来、彦馬自身も、同じことを何度も思った。丈瑠のために、丈瑠の傍を離れることを、真剣に考えた。 しかし今の彦馬は異なる考えを持っていた。 丈瑠に輝かしい未来をもたらすには、丈瑠は生き続ける必要がある。そのために、彦馬は必要なのだ。そして、まさしく今。彦馬が見るところ、丈瑠は先のことなど考えてはいられない状態に陥っている。 今丈瑠にしてあげられることは、丈瑠の未来を考えることではない。今。たった今。丈瑠の心を少しでも凪ぐために。それこそ、かりそめでもいいから平穏な時間を、丈瑠に与えるために。彦馬は丈瑠の傍を離れられないのだ。 それに、薫に引き離されなくとも、丈瑠と彦馬の別れの日は、そんなに遠いこととは思えなかった。 もちろん、そんな日は来て欲しくはない。阻止できる限りにおいては、阻止する。全身全霊を込めて、自らの命を投げ打ってでも。彦馬はそう思いながらも、最期は止めきれないのではないか、と感じていた。 それならば、最期のその瞬間まで。 遥かな昔に、影武者の策がたてられたその時の、丹波の予定通りに。 彦馬は、志葉家当主としての丈瑠の全てを、見届けようと思った。 そして、その後。 彦馬はもう、志葉家とは縁を切るだろう。 そして、闇が怖くて仕方ない丈瑠をどこまでも支え続けよう。闇の果ての、果てまで行ってでも。 ふうっ 千明が横にいることも忘れて、大きなため息をついてしまった彦馬。 それに、千明が目を見張った。 「………爺さん」 彦馬がはっとする。そして闇の中で薄笑いをした。 「千明、もう遅い。戻って寝るが良い」 それに千明も頷く。千明は立ち上がり、今度は畳廊下との間にある襖の方へと歩いて行った。その背中に、彦馬が声をかける。 「そう言えば、明日の舞台だがな」 千明が振り返る。 「………延期する?雨も本降りになってきてるし、止みそうもないもんな。でも延ばすにしても、一晩くらいしかできないと思うけど」 アメリカから帰国中の茉子。 京都から来ていることは。 フランスから駆け付けた源太。 ゴセイジャーを招待している手前もある。 何時までも、引き延ばせるようなものでもなかった。 そうは思うものの、千明もどうしようもない不安を抱えていた。 舞台など、演っている場合なのだろうか。 ダイゴヨウとデータスの状況を考えても。 なにより丈瑠を元気づけるための舞台であるはずだったが、今やキャストは予定とは全く違うものになり、脚本は散々改訂され、挙句に丈瑠はこんな状態だ。もしかしたら、元気づけるどころか、丈瑠に引導を渡してしまう結果になりはしないか。 そういう恐怖もあった。 「もしかしたら、全部止めた方がいい……のかな?こんなバカバカしい舞台………」 不安そうな千明に、彦馬は優しく笑いかける。 「そのバカバカしい舞台を演りたかったのだろう、お前は。一晩の延期で構わん。殿もそれまでにはお元気になる。もともと丈夫な方なのだからな」 先ほどの話からしても、丈瑠がそんなに軽い状態とは思えない千明だった。それでも彦馬は言う。 「歴代の志葉家当主と同じように、殿とお前たち家臣との交流を、あの能楽堂で演るのはな………このわしの」 「………えっ?」 どこかで同じ話を聞いたような気がした。 「あ、ああ。そう言えば、流ノ介もそんなこと言ってた。あの能楽堂は『代々の志葉家の殿と家臣の交流の場。志葉家家臣の殿への忠義の証の場所』だって。だから『古来の風習に則って、私の踊り』を披露したいんだと」 それを聞いた彦馬の目尻が下がる。 「そうか、流ノ介が、な」 豪快な彦馬には珍しい、切なげな笑み。 「流ノ介の言う通りだ。しかし一年前までは、したくてもできなかった」 様々な想いが込められているのだろう、その言葉に、千明の目頭が何故か熱くなる。 「でも今ならできる。今の殿には、そういうことも必要だろう。お前もそう考えたから、計画をしたのではないのか?みながいる今なら。いや、今しかできないから」 「うん………そう、だよな。こんな時だからこそ、やってもいいんだよな」 自ら頷く千明に、彦馬も頷く。 「わしも、夢見ていたことだ。だからやりたいのだ」 「えっ?」 彦馬の意外な言葉に驚く千明。 常に千明の上に、指導者としていたはずの彦馬。その彦馬が今、千明に、自らのことを語っている。 「殿が名実ともに志葉家当主となり、お前たちと主従の交わりをする日が来ることを………ずっと……ずっと夢見ていた」 彦馬の視線が、はるか彼方を見つめる。 「思えばわしは………殿をお預かりしたその時から、こんな日が来るのを夢見ていたのかも知れない」 そういう彦馬の目には、小さかった丈瑠の姿でも映っているのだろうか。知らずと彦馬の顔が、優しさと慈しみに満ちた顔になっている。 「お前のおかげで、永年の夢が叶う。礼を言うぞ、千明」 嬉しそうな声だった。 実際に、千明に向けられた顔も、笑顔だった。 しかし千秋は、彦馬のその笑顔を見た瞬間、胸に突き刺さるようなものを感じた。笑っているのに、嬉しそうなのに。千明の目には、彦馬がとてつもなく哀しそうに見えたからだ。 千明は自分の部屋に戻ると、布団を敷いて、その中に潜り込む。 しかし目の前に、彦馬の哀しそうな顔がちらついて、なかなか眠ることはできなかった。 何かが起きる。起きない訳がない。 そんな予感が、千明を不安にさせる。 千明が寝がえりを何度も打っている部屋の、ひとつおいた隣の部屋では、煌々とした灯りの下、流ノ介が難しい顔で台本を読んでいた。その手には鉛筆が握られ、何度も台本に書き込みをする。台本はもう、真っ黒だった。流ノ介は、まだまだ寝る気はないようだった。 剣道場では、脇目もふらずに工作に励む源太と、その横にはすでに寝息を立てているアラタがいた。アラタは剣道場にいるにも関わらず、布団で寝ていた。黒子が持ってきてくれたものなのだろう。寝てはいたが、陽気なアラタですら、何とも言えぬ重いものを感じ取っていた。千明と同じように、何度も寝がえりを打っては、掛け布団を引き上げる。それの繰り返しだった。 その向こうでは、薫が難しい顔をして、やはり台本を読んでいた。その後ろに控える裃黒子は、今にも船を漕ぎそうな様子だ。しかし険しい表情の薫は、流ノ介と同じように、寝る気はさらさらないようだった。 母屋にいる黒子たちも、不寝番の者以外は床についていた。しかし彦馬と同じように、何とも言えぬ不安を抱えたままだった。 志葉の屋敷全体に、重い空気が拡がっていた。それはまるで、十八年前のドウコクとの決戦前夜のようだった。 そんな中、この晩、志葉屋敷で安らかな眠りを貪っていたのは、ただ一人。 丹波歳三、その人だけだった。 小説 次話 2011.10.10 |