花見を催した日の深夜。 彦馬は自室で考え込んでいた。 それは、夕方、丈瑠が彦馬に質問したこと。白澤家の枝垂れ桜の下で、丈瑠は花見をしたことがあるか? それは、彦馬が即座に答えたように、丈瑠が志葉家に入って以来なら、ないことだった。しかし、流ノ介が言ったように、丈瑠が志葉家に入る前ならば有り得る。丈瑠が、実の父親と花見をしたことなら、あるかも知れないのだ。しかし丈瑠は、その場に彦馬がいたと言う。 そうなると思い当たるのは、あの時しかなかった。 丈瑠が志葉家に入ったのは、五月の節句の時。その直前の四月に、丈瑠と彦馬の事前顔合わせをした。その顔合わせ後、丈瑠の父は、丈瑠と彦馬を車に乗せてある場所に連れて行った。丈瑠の父が運転する車に丈瑠を抱いて乗った彦馬は、幼い丈瑠に気を取られて、連れて行かれた場所がどこかまでは気がまわならなかった。しかし、そこに見事な枝垂れ桜があったことだけは覚えている。 「しかし、あの場所は確か………」 あの時、丈瑠の父親はこう言っていた。 『日下部殿。ここはこの子とその母親と私の………家族の思い出の場所なのです。もう二度と来ることもないでしょうから最後に………』 既に亡い丈瑠の母親も含めて、家族で花見をした場所かなにかだろうと、彦馬は思った。そうして枝垂れ桜の下で、ほんの二十分ほども過ごしただろうか。それは、花見などと銘打ったものではなかったからすっかり忘れていたのだ。 丈瑠の父親が言った、もう二度と来ることもない、という意味は、丈瑠が志葉家の当主として志葉家に入るから、という意味だったのか。それとも、丈瑠の父親自身がドウコクとの闘いで果てることを予想していたのか。………あるいは、それ以外の事情があったのか。それは、わからない。見事な桜なのに、彦馬たちがそこにいる間、誰ひとりとして通り掛からなかったのも、白澤家の私有地だったからということなのか? 「殿の言われているのは、あの志葉家に入る直前のことなのだろう。しかしそれがどうしたというのだ?」 丈瑠は、大抵のことは外に出さずに飲み込んでしまう。その丈瑠があそこまでこだわったとは、そこに何かがあるとしか思えない。彦馬は考えこんだ。 丈瑠は志葉家に入る前の記憶を持っているように見えるが、実際に覚えているのは、父親に志葉家の当主になれと諭された部分程度だと彦馬は思っている。なにしろ丈瑠は、自分のかつての名字すら覚えていないのだ。 それは丈瑠が幼すぎたということもあるだろう。または、ドウコクと十七代目との凄惨な闘いの衝撃や、その後の長い高熱で忘れてしまったのかも知れない。とにかく彦馬が見たところ、丈瑠は志葉家に入る前のことをそれほど覚えている訳ではないのだ。 それなのに、突然言い出した花見の話。同じ場所に行ったから、突然、思い出したというのか?それとも、誰かに何かを言われた?それはもしかしたら、枝垂れ桜のところで会って話をしたという白澤家の人にか? 「殿には母上の記憶もない。しかし、あの枝垂れ桜に刺激されて、母上と花見をした記憶が蘇られたのか?それで、母上のことをお知りになりたいのか?いや………殿が尋ねられたのは、その花見のことではないし」 彦馬は腕を組んで暫く考えていた。しかし彦馬も、丈瑠の父親のことは知っていたが、その妻のことまでは知らなかった。丹波からも知らされていない。だからもし、丈瑠に母親のことを問われても何も答えられないだろう。 ただ彦馬がどうにも不審に思うのは、丈瑠はそういうことを今まで訊いてきたことがない、ということだ。母親はもちろんだが、父親のことも、丈瑠から口にしたことは、殆どない。彦馬が丈瑠を叱咤激励するために、父親のことを話題にすることがあっても、丈瑠がそれに対して何か言うことはなく、ただ彦馬のいうことをじっと聞いているだけだった。 志葉家十八代目当主としてあろうとする丈瑠の中では、それは訊いてはいけないことになっていたようなのだ。もちろん軽々しく話題にできることではないのだが、口にしてはいけないなど、彦馬は言ったことはなかったのに。丈瑠は自分で、そう決めているようだった。それだからこそ、彦馬は不審に思わずにはいられないのだ。 とにかく情報が少なすぎて、何もかもがはっきりとしない。しかし、ひとつだけ確かめておいた方がいいことがあるのを、彦馬は感じた。それとも、確かめない方がいいのだろうか?そこには、何かがあるような気がする。 彦馬は逡巡の末、意を決して立ち上がった。何があろうと、丈瑠のためには、彦馬はありとあらゆることを知っておいた方がいいのだ。それを丈瑠に伝えるかどうかは、別としても。 彦馬はそっと廊下に出ると、左右を確かめる。そして誰もいないことを確認すると、土蔵へと向かった。志葉屋敷内に土蔵はいくつもあるが、その時彦馬が向かったのは、屋敷の内部から直接行ける土蔵のうちのひとつだった。火事があっても、この中のものは焼け残るようにと作られたものだ。その中には、外道衆と闘うための貴重な資料となる大量の古文書がある。 彦馬はその中でも、比較的新しい文書が仕舞われている場所へと足を向けた。その片隅に人が入れるほどの大きさの、古めかしい金庫が置かれていた。彦馬は懐から鍵を取り出すと、その金庫を開ける。そして中から、小さな文箱を取り出した。それをそっと開けると中には、数点のものが入っていた。 一つは手のひらより少し大きいサイズの手帳。自治体が母親となる女性に発行するもの、所謂、母子手帳だ。幼い子供の身体に何かがあった時に、病院に必ず持っていき、一番初めに確認するものでもある。もう一つは、手のひらに入るほどの小さな桐の箱。丈瑠が、丈瑠となる前の存在を証明するもの。彦馬は、丈瑠自身の他にはこの二つだけを、丈瑠の父親から託された。ただどちらも、名前が記されていた部分は、丁寧に削り取られていた。他には、丈瑠の全乳歯が、ねずみの形をした容器に入れて保存してあった。 彦馬は懐かしさから、思わず母子手帳を手にとってそっと開いた。志葉家に入った以降の項目については、彦馬が自ら記入した。屋敷での予防接種の度に、彦馬にしがみ付いて泣いていた幼い丈瑠の様子が思い出され、思わず彦馬の顔が緩む。しかし、それに彦馬が欲しい情報は、何も記されてはいなかった。次に彦馬は、桐の箱を手に取った。これは母子手帳と違って使う機会もなかったため、丈瑠の父親から手渡されて以降、開けたこともない。そっと蓋を開くと、きれいに畳まれた和紙がそこにあった。それを開くと、中には干からびたへその緒が入っている。それだけだ。 「何もないか」 そう呟くと、彦馬は和紙を畳もうとした。しかし、小さな箱の中の和紙を畳むのは、思いのほか面倒だった。仕方なく彦馬は、一度、和紙を箱から取り出すことにした。きれいな和紙をくしゃくしゃにしては、申し訳ないような気がしたのだ。彦馬が、近くの棚の上に箱を置いて、そっと和紙を取り出す。そこで彦馬は気付いた。へその緒が入った和紙の下に、もうひとつ、和紙があった。彦馬がそれも取り出しそっと開くと、そこから出てきたのは小さな写真だった。 今日、外道衆と闘った場所の白い枝垂れ桜を背景に、丈瑠の父親と、丈瑠に良く似た女性が赤ん坊を抱いて、そこに写っていた。 彦馬はその写真をじっと見つめた。まさかこの頃の記憶が丈瑠にあるはずもない。随分長い間みつめた後、彦馬は呟いた。 「白澤家………調べさせねばならぬか」 彦馬はすぐにそれらを金庫にしまい、再び鍵をかけた。そして、土蔵から出る。こんな深夜でも深夜番の黒子は起きている。彦馬は、黒子のもとへと急いだ。しかし、ふと何かが頭の隅を掠った。彦馬の足が止まる。 「いや。もしかすると黒子では………」 彦馬の呟きは、夜の闇に吸い込まれていった。 次の日の早朝。 丈瑠は、いつものように五時に目が覚めた。 別に目覚まし時計は必要としていない。長年のくせで、その時間になると目が覚める。まだ夜明け前だったが、丈瑠が起きると同時に黒子が着替えを持って部屋に入って来た。 朝、最初に着るのは稽古着だ。丈瑠は顔を洗った後、昨晩のものとは異なるが、同じ藍染、手差し刺子の剣道着と袴と着けた。そして、木刀を持つと、縁側から庭に下りた。 庭の真ん中に立ったところで、薄暗がりの庭先に跪いている影に、眉をひそめる。 「何だ。まだ居たのか」 丈瑠はそれだけ言うと、木刀で素振りを始めた。流ノ介が立ちあがり、丈瑠の近くまでやって来る。 「殿と手合わせを願えればと………」 そう言って頭を下げる。丈瑠が素振りの手を止めて見ると、流ノ介は、二か月前まで志葉屋敷にいた時と同じ白い剣道着と紺の袴を着けていた。 「まだ、あったんだな。それ」 丈瑠が呟くと、流ノ介が顔を上げた。 「稽古着………ですか?もちろんです!何かあれば、私たちはすぐに、殿の下に駆け付けるのですから、いつでも黒子のみなさんが用意をして下さっています」 当り前だと言う流ノ介に、丈瑠は微かな笑いを浮かべた。それを見た流ノ介が、また嬉しそうに微笑む。しかし丈瑠と流ノ介の考えていることは、全く異なっていた。 丈瑠は流ノ介のいる方向とは逆に、改めて木刀を構えなおし、正面を見据える。 「手合わせして………どうする?」 丈瑠がそのままの姿勢で、後ろの流ノ介に質問した。 「はっ?」 流ノ介が戸惑うと、丈瑠は畳みかける。 「俺と手合わせして、それでどうするんだ?」 丈瑠が木刀を、すっと建物の角に向かって指す。 「そこにいる奴も!!」 すると、その影から現れたのは、千明だった。丁度、夜が明け始めた頃で、辺りが明るくなって来る。そのため、遠くに立つ千明が流ノ介と同様に、剣道着と袴を着けていることが判った。 「千明!?お前………」 驚く流ノ介に、千明が鼻の下をこする。 「俺だって………いろいろ、考えてんだよ!」 「そうか!」 何故か千明の言葉に感動している流ノ介の頭を、丈瑠の木刀が軽く叩いた。 「お前たち二人とも何がしたいんだ。言ってみろ」 口を尖らせて、ぶらぶらと言った感じで前に歩んできた千明を押しのけて、流ノ介が丈瑠の前に跪いた。 「殿!!一緒に闘わせてください!!」 それに千明が膨れっ面になった。 「あっ!お前、抜け駆け………」 「闘うって、誰とだ?」 千明を無視して問う丈瑠に、流ノ介が顔を上げた。 「それはもちろん、昨日、出陣された先の………外道衆、アヤカシとです。殿は今日も行かれる予定なのですよね?昨日は長く、そこで捜索をされていたと………黒子さん達から聞きました。是非、それに私も同行させてください!」 「あっ!もちろん、俺も〜!!」 真摯に言う流ノ介に、軽く付け加える千明。相変わらずの二人。丈瑠はそんな二人を眩しそうに見つめた。そして、二人に背を向け言った。 「駄目だ」 「はい………えっ!?」 一度は頭を下げた流ノ介が驚いて、立ち上がる。そして丈瑠の前に廻って来た。 「何故です?」 真っ直ぐに丈瑠を見つめてくる流ノ介。丈瑠も真っ直ぐに見つめ返す。 「何故か………わからないか」 丈瑠はそう言うと、流ノ介から視線を逸らす。その丈瑠の様子に、流ノ介の顔が曇る。 「………殿?」 躊躇いがちな流ノ介の声は、丈瑠を気遣ったものに聞こえた。それが癇に障ったのか、丈瑠は手に持っていた木刀を左手で、思い切り振りおろした。木刀がひゅっという風切り音を出す。 「役に立たない奴はいらない」 それと同時に、静かに丈瑠が言った。 「えっ………」 流ノ介が目を見開く。丈瑠は流ノ介に、視線を戻した。 「一年前にも言ったよな。役に立たない奴はいらない………って」 丈瑠はそう言うと、千明の方にも視線を飛ばす。千明の睨みつけるような瞳を、丈瑠は睨み返した。 「だから………いらない。お前も千明も………いらない」 小説 次話 2010.05.05 |