朝日が射す志葉家の庭。小鳥がそこここで、さえずりを始める。爽やかな早朝の風景。 しかし丈瑠と流ノ介は、かつて侍たちが稽古をしていた場所に、真剣な面持ちで立った。そして、そこを望む縁側に、彦馬、千明、黒子が控える。 丈瑠とシンケンブルーは、それぞれ右手に木刀とシンケンマルを提げたまま九歩離れた。それから互いに振り返って相対した。二人はそこで互いに立礼を行い、刀を持ちかえて左手の親指を鍔にかけた。互いに目を合わせ互いを見ているが、それだけを見ている訳でもなかった。二人ともに細く長く息を吐く。そして互いの気をゆっくりと合わせて行く。 シンケンブルーが一つ息を吐いたところで、右手でシンケンマルを上から抜くと、そのまま流れるように中段にぴたりと構えた。基本に忠実な流ノ介らしい美しい所作だった。それに呼応するように丈瑠も木刀を抜くと、そのまますうっと両手を上げて行く。それと共に、丈瑠の全身が燃えるように熱くなっていく。丈瑠の木刀が上段にぴたっと止まった時、丈瑠がぎらっと流ノ介を睨んだ。その時、それは起きた。圧倒的な気が猛烈な勢いで、丈瑠から発せられた。それは丈瑠の周りを渦巻き、巨大な炎を揺らめかせる。 相対する流ノ介には、その炎がはっきりと実体として見えた。流ノ介とて剣の道を究めるべく稽古を積んできた者。だから流ノ介には、すぐに理解できた。 『これは、殿の!!』 シンケンブルーの肉体にすら圧迫感を感じさせる、丈瑠の気。それはシンケンブルーの肉体だけでなく流ノ介の芯の部分にまで入り込んでくる。 『う、動けない?』 それは流ノ介の意思すらも縛る力。丈瑠は上段に構えた時点で、その圧倒的な気攻めで、流ノ介の打ち気を抑え込んでしまったのだ。それが今、炎としてもシンケンブルーを襲おうとしている。だからシンケンブルーは一歩も動けない。 『くっ。これでは………』 動けない。動けないが、それでも無理やり、この気の縛りを超えて動くことは、流ノ介ならば可能だ。しかし流ノ介が丈瑠の気を嫌ってがむしゃらに打ち込めば、それは即ち、流ノ介が丈瑠の気に負けて攻め込んだことになる。丈瑠にそんな流ノ介の動きは見え透いたものとなるだろうから、丈瑠はその先々の先を取って、流ノ介が動いた瞬間に、いや、動こうとした瞬間に流ノ介を打ち負かすだろう。だから、動けるとしても、むしろ下手に動くことはできない。 しかし、じわじわと迫り来る丈瑠の炎。それは流ノ介の神経の先を、ちりちりと焦がしていく。それは幻想なのだが、でも一方では実際の感覚でもあった。いつまで、このままじっとしていることができるのか。 流ノ介はかつて父親と剣道の稽古をしている時に、剣道は気迫の攻め合いこそが大事、そして負けると言うのは、剣や技で負ける前に気迫で負けることだと………つまり「負けて打たれる」のだということを習った。しかし剣の才能に富んでいた流ノ介は、自分で「勝って打つ」ことはあっても、ここまで完璧に自分の気を封じられたことはなかった。そういう意味では、才能があった故に、流ノ介には己の胆力、気迫を鍛える機会が少なかったとも言える。 だから今、流ノ介は丈瑠の気迫に完全にのまれていた。流ノ介は歯を食いしばり、息を細く吐きながら、丈瑠に負けじと丈瑠を見つめ続ける。もう丈瑠に勝てるか、ではなく、どこまで丈瑠の気攻めに耐えられるか………負けをどこまで引き延ばし、みっともない負けをしないか、それが流ノ介の最後の望みになる。 しかし、こうして数分立ち合っただけで、今までの自分の修行の足りなさを存分に思い知らしてくれる丈瑠の凄さ。 『ああ、そして殿のこの構え』 迫り来る丈瑠の気攻めではあったが、一方で流ノ介は丈瑠の上段に圧倒されながら見惚れてもいた。 上段構えは、天の位、火の構えとも言われ、究極の気迫、気位を表す構えだ。だから、有段者の中でも上段者が取ることの多い構えであるが、丈瑠のはそんなものではなかった。丈瑠が『火』の文字を受け継いできたことと関係があるのだろうか。まさしく丈瑠の後ろに、気迫の炎が見える。その炎の逆巻く渦が、少しずつ大きくなって、これほどの遠間にいるというのに流ノ介のもとにまで迫って来る。 『これこそが炎の構え。不動明王の気迫。そして侍の究極の気位………なのか!』 それは、ただ単に剣の道を究めようと努力するだけで身に付くようなものではない。今の流ノ介がどれほど精進したとしても、この丈瑠の気迫を真似ることはできない。今の丈瑠はまさしく不動明王のように、いかなる場合でも泰然自若として、心を動かすことのない状態にあるのだろう。 『それでは殿は、どのようにしてこの気迫を身につけられたのか………』 流ノ介の心中に邪念が宿る。その時、丈瑠の炎が大きく揺れた。揺れるたびに、シンケンブルーは思わずシンケンマルを動かしてしまいそうになる。そうすれば、それだけで丈瑠に打ち込まれるだろう。流ノ介の心の揺れに従って剣先が震えるのを、シンケンブルーは必死に抑え込む。それでも丈瑠の炎に引きずられる。 『違う、これは………』 実体の炎ではない。丈瑠の気迫だ。だから、シンケンマルをそのまま丈瑠に向け続けないと………せめて、そのくらいは。例え、このまま身動きがならなくとも。せめて、その程度には、丈瑠に相対して行かないと……… そう思っても、まさしく丈瑠の気迫に捉えられてしまった流ノ介は、どんどん追い詰められていく。ついに、シンケンブルーは丈瑠の炎に煽られて、にじりながら後退を始めてしまった。しかし、それを流ノ介は気付かない。あまりの気迫に、流ノ介の視界には丈瑠しかなくなり、その丈瑠がどんどん大きくなってくるのを、間合いが近づいていると勘違いしているからだ。 しかし、後ろ脚が庭石に引っかかったところで、さすがにシンケンブルーも自分が後退していることに気付いた。自分が完全に丈瑠の術中に落ちていることを認識した流ノ介は、丈瑠から一度視線を外そうとした。しかし、そのために再度丈瑠を見つめた所で、丈瑠の瞳に吸い込まれるように、視線が固定されてしまう。そうなるともう遠山の目付どころではない。ただ、丈瑠の炎のような瞳に吸い込まれていくだけだ。まさしく居ついてしまった状態だった。 そして、こうやって改めて見てみると、丈瑠の瞳は怖かった。黒い、黒い、とても深い、底なしの闇のようで。その闇の中で、不気味な赤い炎が燃えているようで。それこそ見ているだけで、底なしの闇に吸い込まれていきそうな気がしてくる。 それは流ノ介に、いつかの夜を思い起こさせた。 『と……の!?』 流ノ介は喘ぐように呟いた。 真っ暗な闇が世界を包んでいた。 その闇の中、天を焦がすような炎が燃え盛る。しかし、その炎の色は、普通ではなかった。赤黒い炎。闇の炎。地獄の炎。 その炎の中に丈瑠がいた。しかし丈瑠はその炎に焼かれそうになっていたのではない。丈瑠が、丈瑠自らが、その炎をまとわりつかせていたのだ。 流ノ介が立っていたのは、丈瑠からかなり離れた場所だった。しかし流ノ介には、まるで間近に丈瑠がいるかのように、はっきりと見えた。丈瑠の全身が赤黒い炎に染まって行く。丈瑠の腕も、その手にあるシンケンマルも………。そして丈瑠の瞳が………黒い瞳が………吸い込まれるようなきれいな瞳が………同じように赤く染まって行く。 そうだ。同じように………。何と?何と、同じように染まって行くのか……… 流ノ介の心臓が高鳴る。耳鳴りがする。 殿が!! 腑破十臓と……… 腑破十臓という外道衆と同じように……… その瞬間。 流ノ介の脳裏を、縦一直線の閃光が天から地まで斬り裂くように走った。 『はっ!?』 流ノ介の息が止まる。次の瞬間、激しい衝撃が流ノ介の脳天に走った。そのまま気絶しそうになるところを、流ノ介は耐える。何故なら、多分、丈瑠の木刀は、シンケンブルーのマスクに触れていないから。 『くっ………』 シンケンブルーは膝から崩れ落ちながらも、顔を上げた。そしていつの間にか、あの遠間から飛び込んできた目の前の丈瑠を見上げる。ブルーのマスクに軽く剣先を触れた後、丈瑠は圧倒する気位で、上段残心を示した。それをかすむ目で流ノ介は見つめる。いつの間にか、シンケンブルーの変身が解除されていた。丈瑠の気攻めは、物理的衝撃がなくてもそれほどの攻撃力を持っていたと言うことなのだ。 それでも流ノ介は、最後に言わねばならぬことを言う。寸止めであっても、侍の真剣勝負なのだから、せめてこれだけは……… 「参りました………殿………」 それだけ言って、流ノ介はそこに倒れ伏した。これで、手合わせは完全に終わりだった。 朝の冷たい一陣の風が、丈瑠と流ノ介の間を吹き抜ける。それが火照る丈瑠の身体を一気に冷やして行く。丈瑠は唇を噛んで、じっと流ノ介を見下ろした。 すぐそこの縁側から、千明と黒子が飛んで降りてくるのを、視界の端で捉えながら、丈瑠は呟く。 「流ノ介………お前は………」 その時、丈瑠の前に桜の花びらがいくつも舞った。思わず丈瑠は顔を上げる。丈瑠の気が巻き起こした上昇気流。気圧が薄くなったそこに吹き込む風が、奥庭の桜の花びらを、ここまで届けたのだろうか。青い空から丈瑠の上に、倒れた流ノ介の上に舞い散るさくらの花びら。それを丈瑠は、虚しさが増していく心の片隅に縫いとめる。 「流ノ介!!」 千明が叫びながら、倒れた流ノ介を抱き起こす。 「流ノ介!どうしたんだよ!!しっかりしろ!!」 必死に呼びかけるが、流ノ介は完全に気を失っていた。黒子がすぐに流ノ介を千明から抱きとり、部屋の中へと運んで行く。黒子が流ノ介を運ぶのを、眉を寄せて見つめる千明の横を、丈瑠が無言で通り過ぎた。 「あっ!おい、待てよ!!」 千明がその丈瑠の腕に、自分の腕を絡ませる。丈瑠が表情のない顔で、千明を振り返った。その冷たい視線に、思わず千明は言葉を失う。黙って丈瑠の手を取ったままの千明に、丈瑠が顎を上げる。 「なんだ。もう用は終わったはずだ」 平坦なもの言い。千明も負けずと丈瑠を睨み返す。 「丈瑠、お前………」 「離せ」 しかし丈瑠は、まったく千明を相手にしていなかった。 「だから!!お前、流ノ介に何をしたんだ!?」 千明が叫んでも、丈瑠の表情は動かない。 「言っただろう」 丈瑠は高い身長から、ことさら嫌味に千明を見下ろす。 「役に立たない奴はいらない、と」 それに、千明が目を見開いた。まさかもう一度、こんな言葉を投げつけられるとは思ってもいなかったのだ。 「な、何を………!りゅ、流ノ介だって………」 「あの様でか。あの様で、お前は役に立つと言えるのか!?」 丈瑠が怒鳴った。それに思わず千明が後ろに引く。 「流ノ介も、ましてや千明、お前もだ!役に立たない奴はいらない!!」 丈瑠のあまりの言葉に呆然とした千明が、そのまま、よろよろと後ずさった。それで離れかけた千明の腕を、丈瑠は振って解く。そのまま丈瑠は、ぷいと縁側に向かって歩き出した。千明は何一つ言うことができずに、そこに立ちつくしているだけだった。 丈瑠は縁側の前で、心配そうに見上げてくる黒子に木刀を渡すと、草履を脱いで縁側に上がろうとした。そこで、丈瑠の上がろうとする場所を塞ぐように立つ彦馬と目が合う。彦馬が、何時になく険しい顔で丈瑠を見下ろしてくる。しかし丈瑠はそんな彦馬から顔を逸らし、彦馬の横の縁側に斜めに上がる。そして無言のまま、彦馬の横を通り過ぎようとした。 「殿」 彦馬が庭を向いたまま、低い声を出した。丈瑠が足を止める。いつもの彦馬と丈瑠の間の空気ではないと感じた黒子が、恐ろしいものでも見るように、二人を見上げた。 「殿」 彦馬がもう一度言って、縁側から丈瑠の背に顔を向けた。 「爺は、殿に言われたとおりに、黙って見ておりましたが」 彦馬の声は、いつもより遥かに低く、明らかに怒気を含んでいた。丈瑠がため息をついて、彦馬を振り返った。 「なんだ」 振り返りはしたが、丈瑠の視線は彦馬に向かない。丈瑠は唇を微かに尖らせて、悔しそうな表情をする。 「今のはいったい、何なのですかな」 彦馬のどすの利いた声。 「見てわからなかったのか」 丈瑠が今度は唇を噛みしめた。 「それでは、今の千明に向けたお言葉はなんです?」 彦馬が丈瑠を睨みつけた。そこでやっと丈瑠は彦馬を見た。丈瑠も睨み返す。 「爺が!!」 丈瑠の叫びに、彦馬が眉をピクリと動かした。 「爺が泊めたりするから、こうなった!!俺はさっきもそう言ったはずだ!!」 丈瑠は怒鳴ると、もう振り返ることなく風呂に向かってその場から消えた。彦馬はそんな丈瑠の背中を、表情を曇らせながら見ているしかなかった。 小説 次話 2010.05.12 |