花 影  13














 ぼんやりと視界に入ったのは、見慣れた木目の天井。そして、千明の顔と、黒子の姿。

「流ノ介!気付いたか!?」
 千明の叫びが、流ノ介の耳に響く。
「うるさい!!」
 心配して発した言葉を即座に否定された千明が、膨れっ面をした。
「くそっ!何だよ、流ノ介も!!丈瑠も〜〜!!」
 憤懣やるかたないと言った顔で、叫ぶ千明。それに耳を塞ぐゼスチャーをしながら、流ノ介が布団から起き上がった。そして部屋の中を見回す。どこかで見覚えがあると思ったのは、そこが志葉家に居た時の流ノ介の私室だったからだ。
「大丈夫か、流ノ介」
 少し離れて座っていた彦馬が、声をかける。流ノ介がそれに頷いた。
「みっともないところをお見せしてしまって………殿にも………申し訳ありません」
 流ノ介が頭を下げる。しかし、その部屋にもちろん丈瑠はいない。彦馬は腕組みをしたまま、ふうと息を吐いた。それに千明が納得できないと喚く。
「どうして流ノ介が謝るんだよ。だいたい寸止めって言ったのに、丈瑠は流ノ介を………」
「殿は寸止めされていた」
「………えっ?」
 流ノ介が瞬時に訂正を入れる。千明が目を見開いた。
「マジかよ………」
 千明は腕を組んで、唇を噛む。
「俺、なんか………あの時、もやが掛かったみたいになって、お前らの勝負よく見えなかったんだ………」
 千明は悔しそうに呟く。
「丈瑠は寸止めしてたのか。確かに、流ノ介を叩きのめしたようには見えなかったんだけど、流ノ介が倒れたから、俺てっきり………」
 千明がふと気付いて、流ノ介を睨んだ。
「でもじゃあ、なんで流ノ介は倒れたんだよ!?変身だって解除されちゃってるし!?どーなってるんだよ!」
「それは、殿の気だ。殿の発する気に………」
 流ノ介が真っ直ぐ前を向いたまま、唇を噛みしめた。布団の上に出ている手をきつく握りしめる。
「私は完敗したのだ」
 流ノ介は俯いた。
「………えっ。そんなこと、あるのかよ」
 流ノ介は顔を上げる。
「ある。初めてみたが、目の前で見たのだから確かだ」
 そして宙を見つめて、先ほどの闘いを思い出す。
「殿の気で空気の流れまでもが変わっていた。それでお前は、もやが掛かったようにみえたのだろう。凄かった。あれはモヂカラ………なのか?いや、モヂカラとはまた異なる力なのだろうな」
 千明が驚いて彦馬を振り返る。それに気付いた彦馬が、腕を組んで目を瞑った。
「確かに殿が流ノ介を倒されたのは、モヂカラではない。剣道でよく言われる所の気攻め。侍としての気迫。剣の気位………」
 千明が呆然と彦馬を見つめる。
「じょ、冗談はやめてくれよ。それで流ノ介………つうかシンケンブルーをやっちまうのかよ!?あり得ねえだろ!!」
 千明のもっともな疑問に、彦馬が目を開けた。その顔は何か深く思い悩んでいるように見えた。彦馬は首を小さく振る。
「気攻めで流ノ介を負かしたということなら、流ノ介がシンケンブルーであったことは関係ない。しかし、殿の気が尋常でなかったのも事実。殿があそこまでとは………実はわしも初めて知った」
 彦馬はため息をつく。
「わしの知らないところで殿は多分………」
 そう言って彦馬は唇を固く引き結んだ。

 一方、布団の上の流ノ介が彦馬の説明に深く頷く。そんな彦馬と流ノ介を見た千明が、彦馬の傍に来て肩を揺さぶった。
「爺さんも知らなかった………って、それ、何だよ!?丈瑠、どうなってんだよ?」
 流ノ介が千明を見た。
「千明。殿はドウコクとの闘いの後も一人で精進されておられたということだろう。彦馬さんすら知らない間に」
 千明が振り返り流ノ介と目を合わす。流ノ介が頷いた。
「私の驕りだった。今でも殿と手合わせが可能などと勘違いし、ましてやシンケンブルーと生身の殿なら、負けるはずがないとまで………」
 流ノ介は大げさに首を振る。
「殿はこの二ヶ月で私たちとよりずっと先に行かれてしまったのだ。ドウコクの時とは、違う。明らかに違う。本当に凄かった。いや、素晴らしかった………この目であのようなものを見られるとは」
「だからあ、俺にはもやってて見えなかったんだよ。丈瑠のどこがどう素晴らしいんだよ!」
 いくら流ノ介でも、ここまで丈瑠を手放しで褒めるのは、久しぶりだ。この褒め方は、一年前、初めて丈瑠と出会った時に近い。つまり、あの時ほどに、また丈瑠と流ノ介たちの実力差は開いてしまったということなのか。千明が苛立ちを抑え込むように膝の上で両拳を握りしめた。
 流ノ介は改めて、彦馬に顔を向けた。
「彦馬さん。あんなことが………有り得るなんて。殿は凄いです。本当に凄いです。私には殿が上段に構えられた時、殿が不動明王に見えました。上段の究極の位、そのものに。そして殿の周囲から噴き出す炎。熱くてなにもかもを焼き尽くす炎。とても人間業とは思えません」
 流ノ介を見る彦馬の顔が、ひくりと動いた。しかし流ノ介は気付かない。
「あのような時、あのような人とは思えぬほどの剣の極みを体現されている時、殿はどのような境地に立っておられるんでしょう。本当に素晴らし………」
 そこまで言って流ノ介がはっとした顔をした。流ノ介も自分の言っていることの重大さに気付いたのだ。

 丈瑠の境地。
 丈瑠がどんな境地に立って、あんな人間離れした気迫をみせたのか。
 それは、もしかしたら………
 不動明王のような、神仏の境地ではなくて。
 いや、境地というのは、何かの位置、場所ではあるが、例えば意味としては違うが、なにかの境の地であるとしたら?
 それなら、丈瑠が立っている境目というのは………もしかしたら人と………

 流ノ介の背筋を寒いものが走る。
「まさか、殿………」
 眉を寄せて呟く流ノ介に、千明が不審そうな眼をした。
「何だよ、流ノ介」
「ああ。いや、何でもない」
 流ノ介は即座にその考えを頭から消し、首を振った。
「ただ………殿は凄い。本当に凄い方なんだ。それが、身に沁みてよく判った」
 一人頷く流ノ介に、千明は不満そうだった。
「ちぇっ、何かひとりで納得しちゃってるけどね。判ってんのかよ、流ノ介。丈瑠は俺たちを認めなかったんだぜ。一緒に闘えないって、ことになっちまったんだからな、お前のせいで!!」
「あっ。そうか」
 呑気な声を出す流ノ介の頭を、千明が小突いた。
「あのなああ!!俺なんか、また言われちまったぜ。役に立たない奴はいらねえって………ああ!もう!くそっ!!」
 それだけ言うと、千明はがっくりと頭を垂れた。それに流ノ介も、深いため息で応えた。

 彦馬は暗い表情のまま、そんな二人の様子を、少し離れた場所からじっと見ていた。






 流ノ介の無事を確かめた後、彦馬は丈瑠の部屋に来ていた。
 障子が開け放たれた丈瑠の部屋は、奥まで陽射しが届き、明るい。丈瑠は風呂からまだ戻っていないようで、そこにはいなかった。彦馬は丈瑠の部屋の外の廊下に正座して、丈瑠を待った。
 まだ朝の七時台で空気は冷たかったが、彦馬の背中に当たる陽射しは十分に暖かかった。時々吹いてくるそよ風に、さくらの花びらが混じる。それが丈瑠の部屋の前の廊下にも、ひとつふたつと落ちてくる。それをひとひらつまみ上げて、彦馬は考え込んだ。

 先ほどの流ノ介と丈瑠の手合わせ。そして、流ノ介たちとの会話。それが彦馬を、言い様のない不安に陥れる。
「あの気迫。殿は確かに人間離れしていた」
 モヂカラを操るシンケンジャーというだけでも、十分人間離れしているし、常人では想像もつかない域にいる。しかしそういうものを見慣れた彦馬ですら、先ほどの丈瑠から噴き出す気迫には、度肝を抜かれた。そればかりではなく、怖れすら感じてしまったのだ。
 大切に大切に手の中の珠のように育ててきた丈瑠を、誇らしく思ったり、心配することはあっても、まさか怖れを感じる日が来ようとは。それに彦馬が愕然とするとともに、だからこそ、もう一度厳しく丈瑠を見つめなおさねば、と思ったのだ。そのため、あの闘いの後、今までにない厳しい態度で丈瑠に臨んだ。
 丈瑠は平然とした顔をしていたが、何かは感じたはずなのだ。彦馬の態度に。
「それにしても、何故、こんなことに………」
 彦馬は、次から次へと出てくるため息を止められない。
「流ノ介も千明も、殿のために、殿のお傍にこれからもお仕えしたいと………望んでおるのに。殿は………」
 またも大きなため息をひとつついたところで、彦馬はいきなり肩を回した。
「いかん、いかん。こんなことばかり考えていては。どれ、殿が戻られる前に、殿のお部屋の片付けでもするか」
 そう呟くと彦馬は、丈瑠の部屋を改めて眺めた。そして気付いた。先ほどの桜の花びらが一枚、丈瑠の部屋の畳の上にぽつんと落ちていた。しかし、それくらいしかないのだ。丈瑠の部屋の片付けるものなど。

 もちろん丈瑠の部屋は、志葉家当主の部屋として、地味ではあるがそこここに贅を尽くされた部屋だった。歴代の当主が時の為政者から授けられた国宝級の掛け軸や、花瓶などもある。床柱もそれ相応のものだ。そして丈瑠が書の稽古をするための漆塗りの文机もある。その引き出しには、これはこれでまた、芸術作品と言ってもよい墨や硯が入っている。でも、それだけなのだ。後は外道衆の情報が記された古文書が数冊。部屋の隅に積まれているくらいしかないのだ。

 彦馬は衝撃を受ける。彦馬の部屋でさえ、何かしらの趣味のもの、雑誌などが置いてあるというのに、この部屋は何なのだ。ここは人が生活をする場所とは思えない。毎日、見慣れ過ぎていて、気付けなかった。
 丈瑠の全てがあるはずの部屋なのに、ここに何もないと言うことは。
「殿個人の物が部屋にないということは、つまり、殿には何もない………ということなのか」

 丈瑠が志葉家を飛び出した時、自分には何もないと言ったと聞いた。その言葉に彦馬はとても胸を痛めたものだ。しかし、志葉家当主であったとしても、丈瑠には何もないのではないか?闘い以外に、何もない。丈瑠の興味がそもそも、そこ以外のどこにも向いていない。
「これでは………」
 駄目だ。これでは、どうにもならない。
 彦馬は遠い目をして、いつか、自分が茉子に諭した言葉を思い出した。茉子が自分の夢である「普通のお嫁さん」に近づくための料理本とエプロンを捨てようとした時、彦馬はそれを止めた。
『少しくらいの余裕がなくては、外道衆と同じだ』
 何故、茉子には言えて、同じことが丈瑠には言えなかったのか。言ったことがなかったのか。
 それは茉子には、捨てようとしたにしろ、捨てるものがあったからだ。夢があったからだ。丈瑠には、そもそも初めから、そういうものがないのだ。つまり丈瑠には、志葉家十八代目当主を担うということ以外には『夢』がなく、『余裕』もなく、捨てるも何も、初めから何ひとつ持っていなくて。
 そうすると彦馬の考えでは、丈瑠は外道衆と同じ………ということになる。
 ここまではっきり感じていた訳ではないが、同じようなことを薄々感じた彦馬が、侍たちが屋敷を去った後、丈瑠に何かをやり始めてみないかと持ちかけたことがあった。しかし丈瑠はそれを断った。そして、それきりその話題には一切の関心を示さない。だから最近は、彦馬も言うのを止めてしまっていた。

 彦馬は首を振って俯いた。膝においた拳を、たまらず握りしめる。
「殿………」
 これが報いか。
 丈瑠の本来の人生を、丈瑠という個人そのものを潰してしまった報いなのか。






 彦馬が俯いているところに、丈瑠が戻って来た。まだ髪が僅かに濡れていたが、既に服は先ほどの稽古着から着替えていた。それは、白い剣道着に紺の袴だった。出陣の際のいでたちだ。
 戻って来た丈瑠を見上げる彦馬の様子に何かを感じたのか、丈瑠は眉をしかめる。
「なんだ。爺、こんなところで」
 丈瑠は部屋に入り、机の横の古文書を手に取ると、床の間を背にして座布団に座った。
「また、説教か」
 丈瑠は古文書を開きながら呟く。そこに黒子がお茶を持ってやってきた。それを受け取り、一口飲む。それから彦馬に目をやった。彦馬が、それでも口を開かないのに、丈瑠は眉を寄せる。
「爺、何か言いたいことがあるんだろう、俺に」
 それでも黙って丈瑠を見るだけの彦馬。その瞳に、先ほどの縁側で見た光とは別のものを感じた丈瑠は、古文書をパタンと閉じた。
「朝食の後、出かける。話をするなら今しかない」
 急かす丈瑠に、彦馬は小さく頷いた。
「先ほどのことですが………」
「流ノ介は、五月に舞台があるんだろう」
 彦馬が全てを言う前に、丈瑠が予想していたらしく、先を取って話し始めた。彦馬が口を閉じ、丈瑠を見つめる。
「千明は来年の受験に向けて、勉強を進めなくてはならない」
 丈瑠は古文書を脇において、茶碗に手を伸ばした。
「そんな奴らが、怪我したらどうなる?流ノ介のこの二ヶ月の努力は?千明の将来の夢や希望は?」
 丈瑠が『将来の夢』『希望』などという言葉を使ったことに彦馬は、眉を寄せた。しかし丈瑠は彦馬の想いには気付かず、彦馬を追及する。
「だいたい爺が、花見だかなんだか知らないが、あいつらを屋敷に入れるからこんなことになるんだ。もうあいつらは、闘える状況じゃないんだ。外道衆と闘うことが人生の第一義じゃないんだ」
 彦馬は顔をしかめた。彦馬には言いたくて仕方ないことがあった。しかし、もう黙って聞いているしかない。
「一年前とは違う。二ヶ月前とも違う。俺は志葉家当主だけど、あいつらは違う。それにあいつらは、侍としての義務はもう果たしたんじゃないのか!?俺に従う必要も、もうないだろう!」
 丈瑠はそこで、彦馬から顔を背けた。そして襖を見つめながら茶を喉に流し込む。
「そんな奴らに………どれほどの怪我を負うかも知れない相手と一緒に闘えとか言えるのか?一緒に闘いたいと言われたからって、ああそうですか、と闘いに連れていけると思うのか!?」
 丈瑠は乱暴に茶碗を茶卓に戻し、彦馬を睨んだ。
「爺は二ヶ月前と今の区別がついていない!流ノ介も千明も、新しい世界で、新しい夢に向かって歩き出したんだ!俺たちとは生きる世界が変わったんだ!!」

















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2010.05.15