「殿!」 廊下をひとりで進んで行く丈瑠の後を、彦馬が追った。 「殿!!」 彦馬が再度呼びかけると、丈瑠が歩きながら 「爺はあいつらを見張っていろと言っただろ!」 と振りむきもせずに言い捨てる。 「いや、しかし………」 その時、突然、彦馬は胸が苦しくなった。心臓ではない。普段食べ慣れない量の食事の最中に、急に席を立って丈瑠を追ってきたせいだろう。単に喉の奥が詰まったと言うか、食道に何かが引っ掛かったと言うか。しかし苦しいのに変わりはない。思わず柱に手をつき、胸元に手をやった。あまりの苦しさに、俯いて目を瞑る。これでは殿に行かれてしまうな、と思いながらほんの数秒休んで目を開くと、俯いた視界に入る廊下の板目、自分の足のすぐ先に、紺の袴が見えた。彦馬が顔を上げると、そこには真っ青な顔をした丈瑠がいた。 「と………」 「大丈夫か!?」 殿と言おうとしたよりも早く、丈瑠が叫んだ。彦馬はむしろ丈瑠の顔色に驚く。 「えっ。あ、いや爺は大丈夫です。それより殿の方が………」 という間もなく、丈瑠が彦馬の身体に自分の身体をぶつけてくる。そして彦馬の頭の上に、自分の頭を俯かせた。 「少しは年のことも考えろ!もしものことがあったら、どうする気だ」 そう言って丈瑠は彦馬を抱きしめる。 「は?いや、爺はただ、久々に食べた大量の朝食が、喉に引っ掛かりまして」 彦馬を抱きしめる丈瑠の腕が、硬直した。それでも丈瑠は彦馬を放さない。 「………だったら、そんなの食べるな」 泣きそうな声でそう言うと、丈瑠は彦馬に顔が見られないように俯いたまま身体を離し、再び彦馬に背を向けた。一、二歩足を進めて、しかしそこで立ち止まる。立ち去る気配はない。見れば、握る拳が震えていた。 「殿」 丈瑠の背中に、彦馬は優しく声を掛ける。 「殿、ご心配かけたのですな。爺は大丈夫ですから」 「もういい!!」 丈瑠が叫ぶ。 「殿」 「何だ!また説教か!俺は………」 重ねて優しく呼びかける彦馬に、丈瑠が振り返った。その顔は、今にも泣き出しそうな顔だった。彦馬はそれに微笑み返す。丈瑠が気まずそうに、横を向いた。 「俺は出掛けるから………」 「あの枝垂れ桜のところ、また外道衆の探索、でございますか」 丈瑠の消えて行く語尾に、彦馬が被せる。丈瑠が彦馬を睨んだ。 「悪いか。俺はあの枝垂れ桜が、どうしても気になるんだ」 そこまで言って気持ちが切り替わったのか。丈瑠の表情が、普段のものに戻って来る。 「殿。どのように気になるのです?昨日は、殿から詳しい説明がなかったので、爺も対応が………」 彦馬が尋ねると、丈瑠の表情が戸惑いに変わる。 「俺にもよくわからない………初めは、おかしいのは俺の方かとも思った………のだが、多分そうではない。一晩考えてそう思った」 丈瑠が視線を遠くに飛ばす。 「あの枝垂れ桜が………俺に見せたんだ」 丈瑠の不思議な言葉に、彦馬の眉がよる。 「見せた?桜………がと仰るか?桜が殿に、何を見せたのです?」 丈瑠は、彦馬の疑いの言葉に唇を尖らす。 「嘘じゃない!!あの枝垂れ桜の下での爺との花見や………他にも、あの桜の下での、よくわからないものを、見せられたんだ。昨日、爺に聞いただろう。俺はあの桜が俺に見せたものが何なのかを知りたかった。実際にあったことなのか、そうでないのかを確かめたかった」 彦馬は丈瑠の様子を観察した。丈瑠が嘘を言うとは思ってないが、桜が見せた………とは、少しばかり奇想天外な話だった。そうしてみると、丈瑠が昨日の戦闘の後に、何を気にしていたのかが少しずつ分かって来る。それを彦馬に言えなかった理由も。 「俺は、ナナシと闘った後、どうにもあの周辺に怪しい気配と違和感を感じた。でも、どことも言えなくて、そこら中全てがおかしいような気がした。だから爺にも上手く説明できなかったし、いろいろ考えながら探索していて、でも何も見つからなくて………それで、遅くなった」 丈瑠の言葉に、彦馬はいちいち頷いた。それを見た丈瑠は、やっと安心して、さらに話し続ける。 「やはりあの枝垂れ桜が怪しい………と俺は思う」 もう一度、彦馬は頷く。 昨日丈瑠が、戦闘後も桜の園を彷徨っていた理由は、流ノ介たちと顔を合わせたくなかったため、ではなかったのだ。そうすると、やはり枝垂れ桜には何かがあるのだろう。丈瑠がおかしな気配を感じるというのなら、それは確かなのだ。今までにもこういうことはあった。丈瑠だけが、異常な気配を感じることが。そして、それが周囲の理解を得られない時、丈瑠は周囲に説明をするよりも、独りで行動に移してしまう。イサギツネの時もそうだった。今回もそれだったのか、と彦馬は少しだけ安心した。 「殿が枝垂れ桜の下で倒れられた、と報告を受けております。それは、枝垂れ桜が殿に何かを見せたから………なのでございますか。それとも、何か攻撃を受けたとか?」 「わからない」 丈瑠が首を振る。 「殿は昨日の戦闘の時、最初からアヤカシがどこかにいると思われていたようでした。枝垂れ桜がアヤカシだと?」 それにも、丈瑠はため息と共に、首を振った。 「それも、わからない。だから調べなくてはならない。アヤカシとも………違う気がするんだが、アヤカシかも知れない」 何一つ確信を持って言うことができなかったので、丈瑠は何も言えなかった。そういうことらしい。 「枝垂れ桜が殿に見せたもので、殿が判別できたものは、爺との花見だけなのでございますか?」 彦馬も、共に考えるために、丈瑠からいろいろ話を聞こうとする。昨日、こうしていれば良かったのだろうが、昨日は昨日で、彦馬はそれどころではなかった。丈瑠も一晩経ったからこそ、こうして彦馬に話せるところまで、頭の整理がついたのだろう。 「いや………」 「それでは、他にはどのようなものが?」 「………父上と………」 突然、丈瑠の歯切れが悪くなる。 「父上と殿、そして爺の三人の花見でございますね?」 丈瑠が言い難いのかと思い、代わりに彦馬が続けると、それに丈瑠は目を見開いた。 「え?それは違う。爺と俺の花見は………爺と俺だけだ。それとは別に、父上が女の人と………赤ん坊といる、そういうものだ」 彦馬が眉を寄せた。それはまさしく、昨夜、へその緒の入った桐の箱の底から出てきた写真の情景なのではないだろうか。これが丈瑠の歯切れが悪い理由かと思っていると、さらに丈瑠は付け足す。 「それと、その女の人の………小さい時から、大きくなるまで………もあった」 「はっ?」 「よくはわからないのだが、そういう風に思えた。それ以外には、大昔の出来事もあったと思う。でも、俺には理解できなかった」 確かに丈瑠の話は、判りにくい。人に説明したくなくなる気持ちも判る。 「大昔………とは?その女性の子供のころという意味でございますか?」 「いや、そういう意味じゃない。本当の大昔だ。江戸時代とか、それよりもっと前、平安時代とかも………あったようなんだが、俺には………」 丈瑠が目を瞑り、見せられたものを思い出そうとする。それでも言葉にはし難くて、丈瑠は頭を振ってそれを諦めた。日本史に関しては、家庭教師にびっちり叩きこまれたはずの丈瑠が、これだけ曖昧な言い方しかできないのだから、それだけ丈瑠が見たものが判然としないものだったのだろう。 「これは………どういうことなのでしょう」 彦馬の質問に、丈瑠は一旦、口を引き結ぶ。それから、改めて彦馬を見た。 「昨晩、ずっと考えていたんだが………俺が見た映像は全て、視点が高いんだ。人よりずっと高いんだ。何もかもを見下ろしているんだ」 「視点が高い?しかしそれは………どういうことを意味するのか………?」 丈瑠の言わんとするところはわからなかったが、彦馬は先ほどに引き続き、胸をなでおろした。昨晩、早々に寝室に入ったきり、出てこなかった丈瑠。何か思い悩んでいるのかと思っていたが、悩んでいたのはこれだったのだ。 「俺は、あの枝垂れ桜が見てきたものを………見せられた気がした。千年の間、あの桜が見てきたものを」 丈瑠は昨晩、自分が出した結論を、彦馬に伝える。彦馬は丈瑠の言葉がすぐに飲み込めず、目を瞬いているばかりだったが、一方の丈瑠の表情が急に明るくなった。 「だから俺は、とにかくあの枝垂れ桜をもう一度調べてみる」 昨晩からずっと考えていたこと。それを彦馬に言うことで、頭の整理と共に、気持ちの整理もできたのだろうか。そこには、いつもの丈瑠がいた。 丈瑠の言うことを全ては理解できなかったものの、丈瑠の明るい表情は、それだけで彦馬の心を軽くする。彦馬が眩しそうに丈瑠を見ていると、丈瑠が気まずそうな顔をした。 「それで、爺」 「はっ?」 「爺の用事は何だったんだ?説教の続きか?それなら無駄だ。あいつらを闘いに連れて行くことは絶対にしない」 丈瑠の硬い決意はかわらない。それは彦馬にもわかっていた。彦馬が丈瑠を慌てて呼び止めたのは、そういうことではなかった。丈瑠が昨日の場所へもう一度行くのならば、伝えておかねばならないことがあったのだ。但し、もう伝えてしまったようなものだと思いながら。 「いえ。昨日の花見の席での、殿のご質問にお答えを………と思いまして」 「爺との花見か。やっていたか?」 「花見ではなく、ただ立ち寄っただけでございましたが、確かにあの枝垂れ桜の下であったかと思われます。ちなみに、戦闘では訪れたことはありません」 彦馬の回答に、丈瑠は頷いた。 「それと」 丈瑠が歩き出そうとしたところで、彦馬が付け足す。 「爺と殿だけで、あの枝垂れ桜を見た訳ではありません。あの時、殿の父上も一緒におられたのです」 それに丈瑠は驚いたようだった。 「そう………か。それは………知らなかったな」 丈瑠の様子から、丈瑠は本当にそれを覚えていなかったのだろうことが彦馬にも判った。実の父との最後の花見なのに、覚えていたのは彦馬に抱かれて桜を見たことだけ。それが彦馬には不思議だったが、丈瑠の中では不思議でも何でもないらしく、 「判った。とりあえず、それでいい」 とだけ言うと、さっさと歩きはじめた。 それを見た彦馬は、一瞬迷う。 本当はこれを言う気はなかった。しかし、今の丈瑠の様子、全てを隠さず彦馬に話してくれる丈瑠に対して、彦馬もこれを伝えても良いのではないかと思ったのだ。もちろん、これを聞いた丈瑠が、どのような反応をするかは、確信が持てない彦馬ではあったのだが。 「あ、お待ちを。殿!!」 振り返る丈瑠に、それでも一瞬、迷いを見せる彦馬。呼び止めておきながら、何も言わない彦馬に、丈瑠も妙な顔をした。 「なんだ、爺」 不審そうに聞かれて、彦馬も観念する。ここまで来たのだから、言うしかない。彦馬は大きく息を吸った。 「殿が枝垂れ桜に見せられたもの。先ほど言われたお父上と女の人、赤ん坊………でございますが」 彦馬のなにやら神妙な様子に、少しばかり構えていた丈瑠が、拍子抜けしたような顔をした。 「赤ん坊が俺で、女の人が母上か」 もったいぶっている彦馬に、丈瑠は呆れたように、自分で答えを告げる。それに彦馬が絶句した。 「ご、ご存じでしたか?」 「いや。父上が一緒だし、そんなものかなと想像しただけだ」 丈瑠の頭の中を駆け抜けた映像。その映像の、父親の容貌は自分の記憶と変わりなかったし、女の人はどこか自分に似ていると思えた。だから、本当に素直に、そんなものだろうな、と推測しただけだった。むしろ、それを大層なことのように伝えてくる彦馬に、丈瑠は違和感を感じる。 「懐かしかった………でございますか」 だから、彦馬がこう続けてきたことに、丈瑠の違和感はますます膨れ上がった。 「爺?懐かしい訳がないだろう?俺はまだ赤ん坊だぞ?記憶にもないことだ」 丈瑠は彦馬の真意を測りかねて、彦馬を見つめる。何か彦馬に、試されてでもいるのだろうかという気にすらなった。しかし彦馬は、丈瑠の言葉に、心底驚いたようだった。 「そうでございますか。爺はまた、殿が懐かしくて、あの枝垂れ桜にこだわられているのかと」 そう言われた時には、さすがに丈瑠もかちんと来た。今しがた、あの枝垂れ桜にこだわる理由を述べたばかりだ。それを彦馬は信用していなかったということなのか。 「そういうことはない」 言いきった後で、ひとつだけ思いだしたことがあった。 「ああでも………そうだな」 丈瑠はそれも、彦馬に伝えておこうと思った。彦馬は闘いを詳細に記録している。もしかしたら、こんなことも役に立つのかもしれないのだから。 「あの枝垂れ桜が、あの女の人にとっての思い出の木なのだろうと思った。あの女の人………母上の幼い時から成長するまでの映像を見せられた時に………とても懐かしい気がしたんだ」 丈瑠がそう言うと、彦馬の目がなにやら潤む。丈瑠が怪訝な顔で、彦馬を見つめていると、彦馬が丈瑠の手を取った。 「そうでございますか。それはやはり、殿と血が繋がっているから」 「いや、そうじゃない」 丈瑠は即座に否定する。 「あの懐かしさは、俺の感情ではない。あれは多分………」 どうして、このような誤解をするのかが丈瑠にはわからないが、とにかく訂正をしなくてはならない。 「枝垂れ桜の………感情だと思う」 しかし彦馬は、それにぽかんとするばかりだった。 「えっ?枝垂れ桜の………感情?でございますか?」 「そうだ。枝垂れ桜にとっても思い出だったんだろう」 「枝垂れ桜の………思い出?」 疑問符をいくつも付けて聞いてくる彦馬。こんな風に言われると、そもそも言っていることが、常識では考えられないことなので、丈瑠としても言い難くなってしまう。 「俺には………そんな風に思えたってことだ。俺には記憶のない人なのだから、俺が懐かしいと思う訳はないしな」 丈瑠が重ねて言うが、彦馬にはよく理解できないようだった。 「その女性が母上と判ったうえで、殿はそう思われたのですか?」 「ああ。何故だ?おかしいか?」 どう考えても、丈瑠の言葉を疑っているとしか思えない彦馬の顔。それに丈瑠は傷つく。丈瑠が不愉快そうな表情をするに至って、彦馬はやっと丈瑠の言葉を信じたのだろうか。 「いえ。とても冷静なご判断と思います。しかし、木が感情を持つとは………そういうこともあるのでしょうか?」 そう言ってくる彦馬に、丈瑠は憤然として答えた。 「モヂカラや折神なんてものがあるくらいなんだから、何でもありだろう。それに、俺の言ったことが真実とは限らないぞ。単に俺がそう感じた、というだけだ」 丈瑠はそれだけ言うと、 「じゃあ、出かける」 と言って歩き出した。 丈瑠のあまりに不愉快そうな顔に、一瞬怯んだ彦馬だったが、もうひとつ、どうしても言わねばならないことを思い出す。 「ああ、殿!お待ちを!」 「まだあるのか!何だ!!」 丈瑠が顔を歪めて振り返る。それに彦馬は仕方なく笑いかけた。 「申し訳ありません。しかし、これだけは殿をお育てしてきた爺としては、お伝えしませんと」 またも、もったいぶって話す彦馬を、丈瑠は不愉快そうに睨んだ。 「何なんだ!」 それに彦馬は、不気味な笑いを返す。 「殿。ご出陣………ではないのかも知れませぬが、お願いでございます。お召しかえなされてから、外出されますよう」 その瞬間、丈瑠の表情が固まった。そして、ゆっくりと視線を下げて、自分の着ている物を見つめる。真っ白な道着には、焼のりのしょうゆの染みが点々とついていた。紺の袴には、潰してこぼれた出汁巻き卵の染みと、焼き魚のカス、黒子が取りきれなかったご飯粒までもが付いている。 「いや、さすがにそのいでたちで、志葉家のご当主ともあろう方が外出されては、爺としても何とも………」 いやみたらしくそう言って頭を掻く彦馬に、丈瑠は何か投げつけてやりたかった。しかし手には、残念なことに何もない。 「………判っ…た」 感情を必死に抑えながら、丈瑠は答える。俯いて唇を噛みしめていると、黒子が丈瑠を着替えさせるために飛んでやって来た。慌てる黒子に手を引かれながら、丈瑠は自室に戻る廊下の先に消えた。 小説 次話 2010.05.22 |