丈瑠はシンケンマルを担いだまま、枝垂れ桜の枝が垂れている辺りを歩く。しかし、枝垂れ桜に変化はなかった。丈瑠は目を瞑り、全身の神経を集中してアヤカシの気配を探った。しかし 「何の気配もない………か」 丈瑠は枝垂れ桜を見上げた。それでは、これはただの桜の樹なのか?そんなはずはない。 「試してみるか」 丈瑠はシンケンマルを肩から下ろし、鋭い眼差しで周囲を警戒しつつ、カーテンのように枝垂れた枝を掻きわけて、その中へと入って行く。かなり奥深くまで進み、周囲を枝垂れた枝に囲まれたところで丈瑠は止まると、すっとシンケンマルを構えた。一瞬、息を整えた後、丈瑠は目にもとまらぬ速さで、シンケンマルを縦横無尽に振るった。 桜のカーテンの中で舞う丈瑠が、外で待つ黒子や女性にも見える。ピンクの桜の間に間に、白い道着と紺の袴の丈瑠の身体が舞い、その度に、白刃が光る。最後にシンケンマルを弧を描くような軌跡に振って、丈瑠は身体の左側でシンケンマルを止めた。 丈瑠の上に、枝垂れ桜の枝がはらはらと落ちてくる。枝に付いたままのピンクの桜も、枝から零れた桜も、無数に丈瑠の上に降り注ぐ。それは、何かの舞台を見ているようでもあった。数秒後、丈瑠の周囲に桜と桜の枝の絨毯が敷かれ、丈瑠の周囲だけ枝垂れた枝が消滅した。 「………見事ね」 離れた場所で、息を詰めて見ていた白澤家の女性が、息を吐くとともに呟く。女性の傍に控えている黒子が顔を上げると、女性はさらに感嘆のため息をついた。 「あの揺れている枝垂れ桜の枝を、何十本も一気に斬るなんて………全ての枝に刃筋を立てているから斬れるのでしょうけれど、そんなこと、よほどの剣の腕がないと無理でしょう。例え幾本か斬れたとしても、他は枝が剣に押されるか、削がれて終わりですものね」 上から吊り下げられた状態で固定されていない、それも枝垂れ桜のような枝を切るのは、確かに、普通の腕前では難しいかも知れない。しかし真剣の扱いに慣れている丈瑠には、何でもないことだった。 「あの年で、あの腕と技をお持ちとは。さすがは志葉のお殿さま………ということなのね」 女性は一人納得する。確かに、見慣れぬ者が丈瑠の剣を見れば、感嘆するのは判る。それでも、この女性の興味の示し方に、黒子はなんとはなしに不安を感じた。黒子が女性を見上げると、女性も黒子を振り返った。 「志葉のお殿さまは………丈瑠さまは………」 女性は頭の中で何かを考えながら話す。 「確か、お父様を………二十年近く前に外道衆との闘いで亡くされていると思うのですけれど………」 黒子はどきんとする。この女性が、丈瑠の真の父親のことを知るはずもないのだから、それは多分、志葉家十七代目当主のこと。亡くなったのは十七年前だ。しかしこういうことは、あまり世間には知られていないはず。 「お殿さまのお母様は、ご存命でいらっしゃるのかしら?お殿さまは、そのお母様にお育てになられたの?ご当主亡き後、まだ幼い志葉家の後継ぎをお育てになるなんて、きっとご苦労なさったのでしょうね」 黒子はどう答えたものかと迷う。まさか、薫を母上として存命ですとも、言い難かった。仕方なく首を振る黒子に、女性は別の解釈をしたようだった。 「お母様もお父様と一緒に、お亡くなりになったのね。それでは、お殿さまは当時、随分お小さかったと思うのですけれど、どなたがお育てに?」 ここまで言われてしまうと、黒子も何か答えずにはいられない。失礼にならない程度に、最小限の情報を黒子は伝える。 「………そう。志葉家のご家臣にお殿さまの養育係がいらっしゃっるのですか。そうですか………それは………」 女性は眩しそうに丈瑠を見つめる。 「きっとその方は、お殿さまをそれはそれは大切に、お育てされたのでしょうね」 きりっとしていた女性の表情が、柔和になる。 「ご両親もいらっしゃらないのに、あんなに立派なご当主様に育たれたのですから。家臣のみなさんにとっても丈瑠様は、さぞかしご自慢のお殿さまでしょう」 黒子はその女性の言葉に戸惑った。 丈瑠が志葉家家臣にとって自慢のお殿さまと言うくだりは、まさしくその通りだ。そこはしっかりと頷いておいたが、話全体に、どうも違和感があった。 実際、志葉家近隣では『志葉の殿さま』として、丈瑠の評判は悪くないが、殆ど外に出ることのない丈瑠のことだ。出陣の際に見かけたりする程度で、大抵はその容姿や凛々しさを褒められる。しかし、この女性はそうではなかった。それも褒める相手が丈瑠だけではなくて、丈瑠の養育係にまで及んでいることに、黒子は奇異な印象を受ける。 白澤家の女性の横顔を見上げながら、黒子は、これは彦馬に報告しなければならないだろうと思った。 枝垂れ桜の枝を全体の1/5ほども切って落とした丈瑠だったが、それでも枝垂れ桜に変化はなかった。アヤカシの気配も、同様に感じられない。昨日と同じだ。 丈瑠は真上を見上げた。枝垂れ桜の枝が天井のようになって、丈瑠の頭上に拡がっている。それを見ていると、ふと不思議な感覚が丈瑠を襲った。この見上げている桜の天井に見覚えがあったのだ。 遥かに遠い日。 色褪せた風景の向こう。 青い空を背景に、視野いっぱいに枝垂れた枝。そこに伸ばされる細い腕。もみじのような小さな手のひらが頭上に踊る。 そんな自分を抱き上げる腕。自分が望むので、より高い所へと上げてくれる腕。 「爺?」 けれどその腕は、彦馬のもののように力強くはなかった。彦馬の腕のように無防備に安心できるものではなかった。 「………爺じゃないなら」 細くて頼りなくて、どこか不安を掻き立てる。丈瑠の心の中をかき乱す。 「はっ………」 丈瑠は頭を振って、この不思議な感覚を身体から追い出そうとした。 不思議な感覚は、静かに凪いでいるはずの丈瑠の心の泉を掻き乱す。そして、もうずっとずっと遥かな昔に、その奥の奥に沈みこませ、さらにその底の泥の下へと追いやったはずの何かを、浮かび上がらせようとする。それは、丈瑠にはとてつもない恐怖だった。自分の中から、自分でない者が出てくる恐怖。それは、あの腑破十臓との時の感覚とも似ていて……… 「く………」 抑え込もうとしても、何かが出てくる。 「くぅ………」 丈瑠は、シンケンマルを握る自分の手が震えてくるのを感じる。それを抑え込もうと、腕に力を込めるが、それはむしろ逆効果だった。震えは腕から全身へと拡がって行く。 「………っ」 丈瑠はシンケンマルを両手で握りしめて、神経をシンケンマルに集中する。そして訳のわからない感覚を、身体の外に追い出そうと目を瞑った、その時だった。 地面が大きく揺れた。 丈瑠は体勢を崩す。昨日と同様の眩暈かと思ったが、それと違うことはすぐに判った。桜の根が盛り上がり、丈瑠の立つ地面が隆起していたのだ。その隆起は勢いを増し、丈瑠をどんどん高い場所へと連れて行こうとする。丈瑠はその地面から横飛びして、枝垂れた枝の外に出ようとした。しかし、空中に飛び出した所で、その丈瑠の身体に、枝垂れ桜の枝が一斉に絡まりつく。 「え?」 空中に絡めとられた格好になった丈瑠が、視線を上にあげると、僅かな間に、枝垂れ桜が大きく変形していた。桜の太い幹が自分の意志を持ったかのように、揺らぎ、悶える。そして、その幹から高く遠くへと伸ばされた何本もの太い枝は、まるで人の腕のようにくねくねと動きまわる。さらにその枝から垂れ下がる枝垂れた枝は、イソギンチャクが獲物を包み込むように、大半が丈瑠に向かって来ていた。 丈瑠の身体に既に纏わりついている枝も、もの凄い数だ。 「何故!?」 しかし、ここに至っても、丈瑠は判断できずにいた。 「何故、外道衆の気配すらない!?」 丈瑠は思わず叫んでしまう。 とりあえず枝垂れた枝から解放されるために、丈瑠は右手のシンケンマルを振るおうとするが、体側にぴったり腕を着けた状態で枝に巻きつかれているので、腕を動かすこともできない。 「これでも!?この桜はアヤカシじゃないのか!?」 全身に力を込めて、シンケンマルを動かそうとする丈瑠。その度に、枝はぐいぐいと丈瑠を縛り上げてくる。どう考えても、桜に意志があってやっているとしか思えない。それでも未だに、外道衆の気配は欠片もないのだ。 「そんなはずは!!」 叫んだ丈瑠は、その時、気付いた。今丈瑠に巻きついている枝の桜が。そこら中をはなはらと舞い散る桜が、ピンク色をしていたはずの桜が今、紅色になっていた。それを見た丈瑠は確信する。例え、外道衆やアヤカシの気配がなくても、これはアヤカシなのだ。 丈瑠はひとつ頷くと、右手のシンケンマルを放した。地面に向かって落下して行くシンケンマル。その鍔が、丈瑠の足首まできたところで、丈瑠は両足首でそれをすくい取ると、その反動でシンケンマルの剣先を上向き、刃を外向きにする。丈瑠の不審な動きを察知したかのように、周囲の枝の動きがその時、一瞬止まった。 「やはり、アヤカシか」 丈瑠はひとりごちると、桜の幹の方を確認しながら、自分の左足をガイドにしながらシンケンマルの鍔にひっかけた右足首を上げて、シンケンマルを上げて行く。そして、自分の身体と身体に纏わりつく枝垂れ桜の枝の間に、シンケンマルの剣先を割りいれた。鍔が左足の膝まで来たところで、次に右足甲でシンケンマルの柄頭を支えながら、今度は左足の膝で、シンケンマルの鍔をさらに上げて、身体と枝の間に割り込ませて行く。シンケンマルによってできた身体と枝の間の隙間に、動かなかった腕を持ってきて、シンケンマルの柄が握れるようになった瞬間、 「はーっ!!」 丈瑠は気合いとともに、シンケンマルで、自分を縛る幾重もの枝を斬り上げた。 丘の下で丈瑠を見つめていた白澤家の女性は、いきなり地面が隆起したあげくに、丈瑠が空中に縛りあげられたのを見て、愕然としていた。この枝垂れ桜がおかしいことは、何回もあったが、こんなことになったのは、もちろん初めてだった。だから女性は、丈瑠が枝垂れ桜をアヤカシと断定するよりも早く、これはアヤカシの仕業だろうと理解した。 さきほど丈瑠に告げたように、きっと外道衆に千年の霊力をつけ込まれてしまったのだろう。そうなると女性の心配は、枝垂れ桜が斬り倒されるかどうか、よりも、空中に縛りあげられている丈瑠の方になる。しかし丈瑠は、縛り上げられたままで、すぐには動かなかった。 「どうしたのかしら」 志葉家の当主が外道衆と闘うのに慣れていると知ってはいても、思わず心配が声に出てしまう。 考えてみれば、枝垂れ桜の枝を斬り落とした後の丈瑠の様子が少し変だったかも知れない。ほんの数秒だったかも知れないが、丈瑠がぼうっとしていた瞬間があったようなのだ。そんな丈瑠の隙をついて、地面が隆起したようにも見えた。だから丈瑠は、異常に気付くのが、一瞬遅れた。そしてその一瞬の遅れが、今の丈瑠の状態に結び付いている。 「大丈夫かしら?助けに行かなくていいのかしら?」 丘の上の三人の黒子は、枝垂れ桜の少し外側に控えたままだ。それに女性が少し苛立ったように横の黒子に尋ねると、黒子はこっくりと頷いた。それがあまりに自信に満ちていたので、女性は驚きを禁じ得ない。 「でも………」 動揺する女性に、黒子が手のひらで丘の上を指し示した。女性が丘の方に顔を向けた瞬間、丈瑠が縛り上げられていた空中に鋭い光が走った。 「え?」 それが何だったのか、女性には確認できなかったが、すぐにばらばらと桜の枝と花が盛大に落ちてきて、それが終わった後、地面に立っていたのは、丈瑠だった。思わず丘を駆け登ろうとする女性を黒子が止める。 丈瑠は地面に降りると、シンケンマルを握りなおし、すぐに枝垂れ桜の外まで出た。そして寄ってこようとする黒子に、来るなとアイコンタクトを取る。枝垂れ桜は、まだざわざわと枝も幹も揺らしていたが、すぐに攻撃はしてこなかった。丈瑠たちの様子を窺っているようにもみえる。 丈瑠は、丘の下にいる女性に目をやった。丈瑠と目のあった女性は、思わず息をのむ。丈瑠の表情が、先ほどまでとあまりにも違っていたからだ。初めて丈瑠を見た時から、精悍で凛々しい青年であるとは思っていたが、今の丈瑠はそういう言葉だけで言い表せるものではなかった。 女性を見下ろしてくる丈瑠。その端正な容貌からは、感情の欠片も感じられなかった。瞳はあくまでも黒く揺るがず、透徹としていたが、それが故にその視線はあまりに冷たく思えた。 丘の上に立つ丈瑠。白い道着に紺の袴。手に持つシンケンマルが、光を浴びて煌めく。絵のように整った、しかし体温の感じられないその姿は、巫女である女性から見ても、神々しく映った。しかしその姿を見て、何故か、女性の背筋には寒気が走る。丈瑠に無言のまま見降ろされて、女性は丈瑠から眼を逸らした。 高鳴る胸の音に、不安が増していく。 (これはいったい、どうしたことなのかしら?私は何に不安を感じているのだろう?) 女性には理解できない。ただ不安の原因が、丈瑠にあることだけは、判る。顔を上げると、再び丈瑠と目が合った。目が合っているのに、女性を通り抜けて、どこを見ているかわからないような丈瑠の視線。それは、女性の不安をさらに高めていく。 それでも、丈瑠がこれほどまでに見つめてくる理由については、女性は理解できていた。そして女性には、その覚悟もできていた。それでも律儀に了解を求めてくる丈瑠の気真面目さに、女性は何とも言えぬ嬉しさを感じる。しかし、そういうこととは関係なく、目の前の丈瑠のどこかに、丈瑠の存在自体に、女性は何か不吉な予感を感じてしまうのは止められなかった。 女性は丈瑠の視線をしっかり捉えて、遠い丈瑠にも見えるように、はっきりと頷いた。それを見た瞬間、丈瑠の視線が女性からついと外れ、丈瑠は身をひるがえした。 小説 次話 2010.06.12 |