丘を下るために、彦馬の横まで来た丈瑠は、彦馬にも目を向けなかった。 「殿!」 彦馬が声を掛けても、丈瑠はそっぽを向く。そして彦馬の横をすり抜けようとした。 「殿!!こちらをお向きなされ!」 彦馬は突然そう言うと、丈瑠の腕をとり、自分の前に向かい合わせた。常にない彦馬の態度に、丈瑠が目を見張る。 「殿。流ノ介の策を、どう見られましたか」 彦馬が自分の前に立たせた丈瑠に尋ねた。彦馬の厳しい声に身構えた丈瑠だったが、彦馬のこの言葉は、柔らかかった。彦馬は怒っている訳ではないようだった。 一瞬、不貞腐れた顔をした丈瑠だったが、すぐにその表情を消す。 「………見事だった」 いつまでも横を向いていられないことを悟った丈瑠の、精いっぱいの態度だった。 その背中に 「殿!違います!!」 流ノ介が叫ぶ。流ノ介は、彦馬と丈瑠の横に飛んでくると、そこにまたも跪いた。 「この策は、千明が考えたものです。私はついさっき、こんな方法もあるかと気付いたばかりです」 流ノ介のこの言葉は、もちろん真実でもあり、謙遜でもあった。しかし何より、彦馬の前に立たされた丈瑠を庇う意味も含んでいた。流ノ介にとっては、丈瑠が叱責される姿は、その相手が彦馬であったとしても、見ていられなかったのだ。 彦馬にとって丈瑠は、家臣として仕える『殿』、というだけではなく、教え育てる相手かも知れない。けれど流ノ介にとっては、いろいろ悩んではいても、丈瑠はあくまで『殿』なのだ。仰ぎ見ていたい『殿』なのだ。 「………そうか」 流ノ介の言葉に、本当に仕方なく、丈瑠は千明を振りかえる。 「千明も、見事だった………」 もう家臣でも殿でもない。そう思っているのに、どうして偉そうに、こんな言葉を掛けなくてはいけないのか。丈瑠はどうにも納得がいかないが、そうするしかない雰囲気が漂っているので、仕方なかった。それでも、これでこいつらと関わるのも終わりだ。そう丈瑠は思う。 如何にもしぶしぶと言う丈瑠に、千明が舌打ちをした。 「だから!それも違うんだよ!!」 千明が丈瑠の傍にやって来る。 「俺が思いついたんじゃない。教えてもらったんだよ」 千明はそう言うと、彦馬に目をやった。 「爺さんに、な」 それに彦馬が慌てた顔で 「え?あ、いやいや」 と両手を振って、否定した。 「別に教えた訳ではない。誰かが舵木ディスクで毒を消したことがあったな………と言っただけで………」 「もろに教えてるんじゃんか」 千明が唇を尖らす。 「爺さん、丈瑠が心配すぎて、屋敷で待っていられなかったんだぜ」 判っているんだろう?と、千明が丈瑠に目配せするが、丈瑠は顔を横に向けて、無視した。 かつて、侍たちと共に闘っている時の丈瑠だったら、ここまでされたら、諦めて苦笑いをし、千明や流ノ介の気持ちを受け入れただろう。しかし、今の丈瑠にそれはできなかった。なにしろ、千明や流ノ介を退ける気持ちは、今も変わりはないのだ。誰に何と言われようとも、これだけは、千明、流ノ介の夢や未来がかかっているのだから、曲げられない。 それで、千明や流ノ介に呆れられても、彦馬に失望されても、それでいいのだ。誰に理解してもらえなくとも、自分が納得できることを貫きとおさなければ、志葉家当主というものを背負っていくことはできない。何故なら、志葉家当主が外道衆と闘うのは、国家の要請を受けた訳でもなく、誰かから命令された訳でもない。徹頭徹尾、自分の意志と責任で闘っているのだから。それが、志葉家当主というものなのだから。 丈瑠は何度も、そう自分に言い聞かせる。そして、小突きあう千明と彦馬を一瞥することもせずに、帰ろうとする。それに気付いた千明と彦馬の顔が、そして後ろに控える流ノ介の顔が、また曇った。 丘の降り口に控えていた黒子が、丈瑠を心配そうに見上げてくる。それすらも、無視する丈瑠。 そんな丈瑠の姿に、千明は、これみよがしのため息をついた。 「おい!丈瑠!!」 千明がその背中に呼びかけても、丈瑠は歩みを止めない。それに千明は、またも舌打ちをした。 「ったく!おい!!本当は、お前も気付いてただろ」 この千明の言葉に、丘を下りようとしていた丈瑠の足が止まった。 「てか、最初から判ってたんだよな、お前は」 丈瑠が静かに振り返る。そして千明を睨んだ。それを千明がからかうような表情で見つめる。 「舵木折神の力で毒消しができるってこと。それが必要になるかも知れないってこと。お前は、ここに来る前から気付いていただろ?黒子ちゃんに、舵木ディスクを持って来させてたのも、お前だし?気付かない訳がないよな!?俺たちの中で、一番、ディスクの使い方にも、モヂカラにも詳しいお前が、さ!」 丈瑠は眉を上げて、千明を睨み続けるが、何も言おうとはしなかった。 「だから、さ。やっぱ………」 千明はそう言うと、丈瑠に近づいて行った。 「お前ってば、記憶のない親には、何の感情もない!って言ったけど、違うんだろ!?思うところ、何かあるだろう!?」 丈瑠の周囲をゆっくりと歩みながら、丈瑠を上目遣いに見る千明。それを丈瑠は、冷ややかな瞳で見下ろす。 「何か感じて、何か思ったからだろ?舵木ディスクをわざわざ持ってきて、それで毒消しができるのに、やろうとしなかったのは。お前の中に何か揺れているものがあるんだろ!?」 「違う」 丈瑠が唐突に答えた。千明が驚いたように、丈瑠を見つめる。 「………じゃあ、何だよ」 「舵木ディスクで毒を消すことは、俺にはできないからだ。やろうとしなかったのではなく、できなかったのだ」 丈瑠が淡々と答えた。しかし千明は顎に手を当てて、首を傾げる。 「………どういう意味だよ。丈瑠に使えないディスクなんかあるのか?」 言ってから、千明はしまったという顔をした。 志葉家の血を持たない丈瑠には、使えない文字がある。それと同じように使えないディスクもあるのだろうか。そう思った千明だったが、それは思い過ごしだったようだ。 「舵木ディスクは使えても、俺には、流ノ介のように、広範囲の毒を消す技はない。あれは、『水』の文字を受け継ぎ、ウォーターアローを操ることができる流ノ介にしかできない技だ」 丈瑠は、またも教科書を読むように、答えた。それでも千明には、丈瑠の言うことが理解できない。 「………お前にできなけりゃ、流ノ介にやらせればいいだろう!?」 「もうお前たちとは、一緒には闘わないと決めた」 そこで、きっぱりと丈瑠は言い切った。 千明が一度俯いた。そこで目を瞑り、息を吐く。 ここまで頑なな丈瑠には、何をどう言ったら通じるのだろう。 千明は考える。 千明が顔を上げた。 「闘わないって、そんなの、もうさっきも一緒に闘っちまったじゃないか。これからも、俺たちはお前と一緒に闘うぜ?お前が何と言おうとも!」 「そんなことは、させない」 丈瑠が瞬時に応える。千明が、がっくりと肩を落とした。本当に、どこまで丈瑠は強情なのだろうか。 「ああ、もう!!それじゃ、聞くけどな!?毒消しや浄化は闘いじゃないだろう!?白澤のあの婆さんも、願ってたことなんだろう?世の中のためとも言えるじゃないか!!それでも何故、お前は流ノ介にやらせなかったんだよ!?」 千明の言葉に、一瞬、丈瑠の表情が動いた。 「その理由が、お前の中にあるんだろう?枝垂れ桜を、できれば跡形もなく消滅させてしまいたかった理由が!?それを考えてみろ!って………言ってんだよ!!」 丈瑠が眉を寄せる。丈瑠なりに、何か考えていたようだったが、やがて首を振る。 「そんな理由はない。流ノ介にやらせなかったのは、お前たちが、もう家臣でないからだ。流ノ介に頼む筋合いはない」 「えっ………」 これには、千明と丈瑠の会話を黙って聞いていた流ノ介も、思わず声を上げた。 「私が家臣じゃないって………殿………」 彦馬も深い苦悩の表情で、丈瑠を見つめる。 「くそっ!」 ただ千明だけが、腹立たしそうに、地面の石をけり飛ばした。 「家臣じゃなけりゃ、やらせられないのかよ?俺たちに、何も言えないのかよ!頼めないのかよ!?」 千明は丈瑠の前に、ずいっと進み出た。 「何なんだよ、それ!!」 間近で睨みあう丈瑠と千明。千明の瞳には、もう零れんばかりの涙が溜まっている。 そんな千明を、感情のない目で見下ろす丈瑠。丈瑠は、前言を翻す気は全くないようだった。 殿と家臣。 そのような関係だったら、家臣は、殿の命令に従わねばならない。 しかし、かつて丈瑠は、殿とも家臣とも、思わなくていいと言った。ただ共に闘うことを、覚悟しろと。 同じ闘う想いを胸にしていれば、やはり戦闘リーダーである丈瑠の命令に従うだろう。 そして今。 殿と家臣でも、共に闘う仲間でもなくなった。 だから、千明や流ノ介に、何かを頼むこともできないのだと、真顔で言う丈瑠。 丈瑠と、侍たち。 どこまで気持ちは、すれ違うのだろう。 重い空気が、辺りを包んだ。 黒子は跪いて、地面を見つめたままだ。彦馬も、先ほどから何も言わずに、じっと丈瑠を、そして千明や流ノ介を見つめている。 流ノ介は、千明の丈瑠に向かう気持ちを大事にしたいと考えて、敢えて前に出るのを控えていた。本当は、流ノ介にも、丈瑠に言いたいことが山のようにあった。しかし、それを今言っても無駄なことを、流ノ介は悟っていた。 それにしても………と流ノ介は思う。ここまで事態に介入して来ない彦馬は、初めてではないのか。彦馬も、千明の丈瑠に向かうひたむきな気持ちに、何かを期待しているのだろうか。 流ノ介は、丈瑠を見た。千明と向かい合い、千明を冷たい表情で見つめる丈瑠。 冷たくて、取っ付き難くい。 初めから丈瑠を殿と敬っていた流ノ介ですら、初めは、丈瑠をそう思っていた。しかし、共に一年間闘い、その中で、丈瑠がずっと抱えてきたものを見せつけられた今の流ノ介は、知っている。あのような顔の下で、丈瑠が全然別の感情を持っていることを。むしろ、全然、別の感情が強いからこそ、あのような表情しかできないことも。 「………そうか………」 流ノ介は、独り呟く。 丈瑠と、自分たち。考えようによっては、その気持ちは、すれ違ってなどいないのではないか? 自分たちは丈瑠を想い、丈瑠は自分たちを想っている。だからこその、この事態なのだから、根っこの気持ちにすれ違いはない。ただ互いに、方法論が違うだけで。 そう考えれば、丈瑠の気持ちを翻す突破口は、どこかにある。流ノ介がそう思った時、丈瑠が顔を上げて、流ノ介の方を見た。 「流ノ介」 丈瑠はしっかり流ノ介と視線を合わす。それからすぐに、丈瑠は千明に視線を戻した。 「そして千明も。今も言ったように、もう、お前たちと俺は関係ない。殿とか家臣とか、もう考える必要はないから………」 「うっせえよ!!」 千明が大声を出して、丈瑠の言葉を遮った。 「それ以上、言うな!!」 千明は、拳で涙を拭う。 「なあ、丈瑠。お前、去年言わなかったか?俺たちに協力してくれって!」 涙でくしゃくしゃになった千明の顔を、丈瑠は複雑な表情で、見返した。 「覚えているだろう?爺さんの一年に一回きりの休暇の時のことだよ!!」 丈瑠は、はっとする。 そう言えば、確かにあの時、丈瑠は侍たちに協力を要請した。 「お前、あの時は俺たちに言えたじゃないかよ!あれは、家臣としての俺たちに命令したのか!?違うだろ?戦闘だったか!?違うだろ!!」 千明の言うとおりだった。 あの時のことなら、丈瑠もはっきり覚えている。何故なら、丈瑠は、あれを言うまでにかなり悩んだのだ。どう言ったらいいのか。どう頼んだらいいのか。まさしく、殿と家臣の関係では言えず、戦闘でもないから、命令もできず。それでも、どうしても、依頼しなくてはならなくて。いや、そうしたくて。 そのためには………と、丈瑠は普段の自分を振り捨てて、意を決して侍たちに臨んだ。そして侍たちは、その丈瑠の思いをしっかりと受け止めてくれた。その時の気持ちを、丈瑠が忘れるはずもない。 「それから。お前、どうしてあの時、あんなこと言ったか………まさか忘れたとは言わせないからな」 千明を見下ろす丈瑠の瞳が、揺れる。 「爺さんにも、俺たちにも、闘い以外に、持っていなければならないものがある。お前が俺たちにそう言ったんだぜ?覚えてっかよ!?」 その言葉に、苦しそうな表情で、ずっと黙っていた彦馬が、目を見開いた。 「侍だから。外道衆と闘っているから。だから仕方ない。我慢するしかない。それだけじゃないものがあるって、お前言ったじゃないか!?」 必死に叫ぶ千明に、丈瑠は何も言えなくなる。 確かにそう言った。 いつも苦労を掛けているばかりの彦馬に、少しでも喜んでもらいたかったからだ。 本当は、彦馬が休暇を取るのが、丈瑠はずっと好きではなかった。それでも、積極的にそれを止めることなどできない丈瑠だったが、不可抗力で彦馬が休暇を取れない時は、むしろ嬉しいくらいだったのだ。 ちょうど彦馬の休暇の時に、幼い丈瑠が体調を崩したりして寝込むと、彦馬は休暇をあっさり止めにして、丈瑠の枕元に付いていてくれた。そんな時、丈瑠は彦馬の手を握って放さなかった。丈瑠が寝ている間に、彦馬がどこかに行ってしまうような気がして仕方がなかったのだ。しかし彦馬は、そういう時、決して丈瑠を置いて出掛けることはしなかった。 熱に浮かされながら、ふと目覚めた時に、彦馬と繋がれたままの手と、丈瑠を見つめる彦馬の優しい眼差しに気付く。それに、どうしようもない幸福感と、心の奥に重く沈んでいく後ろ暗いものを感じる、幼い丈瑠だった。 しかし、侍たちと共に暮らすようになり、侍たちと、その親や兄弟などとの関わりをみている内に、丈瑠は初めて、彦馬とその家族にまで、想いを巡らすことができるようになった。志葉家という閉鎖世界しか知らない丈瑠が、外との繋がりに目を向けた瞬間だった。 そういうものがあるからこそ、彦馬も、厳しい役目を担い続けることができるのだろう。彦馬を大好きならば、彦馬を何よりも大事に思うならば、ただ彦馬に傍にいて欲しいと願うばかりではなく、自分がするべきことは、何なのか? 確かに、あの時の丈瑠は、殿と家臣、共に闘う仲間、そういうものを超えて、侍たちに『お願い』をした。千明の言うとおりだ。だから、丈瑠は黙り込むしかない。 千明は、だったら何故、今回も同じことを言えないのか、と言ってくるのだろうか。そう考えて身構えた丈瑠だった。しかし、千明が次に叫んだことは、丈瑠の予想とは、違っていた。 「侍だって、闘い以外に、持っていなければならないものがある!彦馬の爺さんも、同じだ。お前、確かにそう言ったよな!?」 丈瑠はそれを認める代わりに、千明から眼を逸らす。 「そう言ったこと、認めるよな!?」 千明が何度も繰り返すその言葉に、今一番、胸を衝かれているのは彦馬だった。 彦馬の知らない場所で、丈瑠がそのようなことを言って、侍たちに協力を要請していたとは。それが自分のためを思ってのこと、というところも嬉しかった。しかし彦馬が本当に胸を衝かれたのは、あの頃の丈瑠が、彦馬が当時思っていたよりもずっと、変化しつつあったのだということだった。 しかし今、また昔へと逆戻りしようとする丈瑠。それが彦馬にも、侍たちにも、歯がゆくて仕方ない。 そんな彦馬と想いを同じくするのであろう千明が、その思いのたけを丈瑠にぶつける。 「なあ。だったらさ。何で、お前もそうであっちゃいけないんだ?」 単純な論理展開。しかし、一瞬、その場が沈黙に包まれる。 「お前にだって、侍として以外に。志葉家当主として以外に。持っていなくちゃならないものがあるんじゃないのか!?」 小説 次話 2010.07.03 |