花 影  30
















 丈瑠は言葉に詰まった。
「俺には!」
 そこで丈瑠は、横を向いて俯く。
「………俺には、そんなもの………」
「あるだろ?」
 千明が、やんわりと告げる。
「お前にとっちゃ、唯一の家族と言ってもいい彦馬の爺さんが、まずはその第一なのだろうけど………」
 丈瑠が、驚いて顔を上げる。

 千明に言われて今、初めて丈瑠は気付いた。
 確かにそうだった。
 丈瑠が、どんなことをしても守りたいもの。持っていたいもの。
 志葉家の当主としてでもなく、ただのひとりの人間として考えたのならば。
 それは、まさしく彦馬だった。
 これは、すとんと丈瑠の気持ちの中に納まる。
 何故なら、丈瑠にとって家族とも言えるのは、彦馬しかいないのだから。
 ただ、それを口に出して言うことはできない。仕事として、役目として、志葉家に仕えている彦馬を、縛ってしまうことになるから。そんな権利は自分にはない。丈瑠はそう思っている。

 しかし、何故、それに今まで気付けなかったのだろう。昨年の彦馬の休暇の際も、侍たちにそうはっきり言われていたではないか。彦馬は丈瑠の親同然と。だから侍たちは、丈瑠の想いを当然のこととして受け止め、丈瑠の依頼を受け入れたのだ。
 しかし丈瑠自身は、そう思っていなかった。当主として、もっと違う配慮をしているつもりだった。まさかあの時の自分が、そんな感情に従って動いていたとは。

 呆然とする丈瑠に、流ノ介が声を掛ける。
「殿。家族とはそういうものです。あまりにも近くて、当たり前すぎるから、気付けないのです。そういう気持ちは、横から見ている方が、判りやすいのです」
 それに丈瑠は、思わず頷きそうになった。
 何故か、流ノ介の言葉には、説得力がある………というより、流ノ介は千明に比べて、丈瑠の気持ちに寄り添って、言葉を選んでくれることが多いのだ。だから、流ノ介の言葉には納得してしまいたくなる。
「でも、それだけでもないだろう!?」
 千明が、ごしごしと、服の袖で涙を完全に拭う。しかし丈瑠は、何を言い出すかわからない千明には、まだ警戒心を解けない。そんな丈瑠に、目が赤いままの千明が、挑むような目付きで迫った。
「他にも、お前が持っていなくちゃならないもの、大事なもの、あるだろう?」
 丈瑠が、静かに首を振る。志葉家当主としての役割や外道衆との闘い、命を預けて共に闘ってくれた侍たち。これらを別にすれば、彦馬のほかに、丈瑠が大事にしたいものなど、ない。丈瑠はそう信じている。しかし千明は構わず続けた。
「他にもあるんだよ。きっと。お前は否定したいんだろうけど、それでも、あるんだよ。そういうものが。俺はそう思ってる。だったら、あの時のお前みたいに。そして今、俺たちの将来を守ろうとしているお前みたいに。俺たちが、お前のそういうものを守ろうとしたっていいじゃないか」
「千明………」
 流ノ介が思わず涙ぐむ。
「俺だけじゃない。爺さんだって同じだ」
 丈瑠と千明、流ノ介のやりとりを、後ろに下がって見つめていた彦馬が、驚いた表情をする。
「爺さんだって、お前を守りたいし、お前にそういう持ってなくちゃならないものを………大事にして欲しいんだよ」
 先ほどから言い返すこともできずにいた丈瑠が、そこで大きく瞳を見開いた。そして彦馬を見る。彦馬も丈瑠を見ていた。離れた場所から、見つめ合う二人。
 彦馬が千明に丈瑠の両親の話をしたと聞いた時は、彦馬に裏切られた、いや、見捨てられたとすら思った丈瑠だった。しかし、今丈瑠を見つめる彦馬の視線は、丈瑠を包み込むような、暖かくも優しいものだった。
「爺………」
 丈瑠は、どうしていいか、わからなくなりそうだった。
 千明の言葉は、丈瑠の硬い決意を揺らがす。それだけでなく、丈瑠の心の奥底深くに凍りついたものまでも、刺激する。丈瑠が頑なに守ろうとしているものを、別の、もっと違うものへと変容させて行ってしまう。
「爺………」
 それは、とても小さな声だったので誰にも聞こえなかったけれど、丈瑠は無意識に彦馬を何度も呼んだ。彦馬を見つめる、丈瑠の大きな漆黒の瞳が揺れる。



 


 いきなり千明は、丈瑠に向かい合ったまま、右足を一歩前に出した。
 はっとして、丈瑠が我に返る。

 丈瑠に闘いを挑むような、千明の構え。
 目は兎のように真っ赤、鼻も赤くなっている情けない顔だったが、千明は挑戦的な表情で丈瑠を見つめる。
 千明の次の行動が読み切れない丈瑠は、困惑の表情を浮かべた。そんな丈瑠に、千明は笑いかける。それは、とても明るい、天真爛漫な千明らしい笑みだった。

「なあ、丈瑠」
 千明がちらっと彦馬の方に、視線を飛ばす。
「さっきの毒消しは、爺さんの入れ知恵だけどさ」
 千明はショドウフォンを取り出した。
「こんどは、正真正銘、俺の考えだ!」
 千明は、ショドウフォンで大きく、空中に「木」の字を書く。
「ショドウフォン!一筆奏上!!はーっ!」
 その字を裏返して、千明はシンケングリーンに変身した。

 シンケングリーンがシンケンマルを取り出し、それに共通ディスクをセットする。そして、目を丸くしている丈瑠を見る。
「協力しろ!丈瑠!!」
「………え?協力?何を?」
 また、手合わせでもしろと言われるのか、と思っていた丈瑠は、ますます混乱する。もちろん、流ノ介も千明の唐突な行動に、首を捻っている。シンケングリーンは、そんな状況が楽しいようだった。
「思い出せよ、ここにあった枝垂れ桜。どんな桜だったよ?」
「………はっ?」
 目を瞬く丈瑠に、シンケングリーンが、嬉しそうに手を広げる。
「俺も流ノ介も、アヤカシになった後の枝垂れ桜しか知らないんだよ。ただの枝垂れ桜だった時って、どんなだったよ?」
 しかし、それに丈瑠は思わず黙り込んだ。丈瑠が、考えているものと思ったシンケングリーンが、黙って待つ。しかし、暫くして丈瑠から出てきた言葉は、
「………アヤカシになった後の印象が強すぎて………忘れた」
 と言うものだった。
「何だよ、それ!!」
 シンケングリーンが腹立たしそうに、シンケンマルを肩に担ぐ。そして、ぐるりとそこにいる人々を見回した。しかし、流ノ介は千明と同じで、アヤカシになった後の枝垂れ桜しか見ていないし、彦馬は、さらに後から来たのだから、なおさら見ている訳がない。そこで、首を竦めている黒子に、シンケングリーンの視線が止まった。
「………黒子ちゃん?」
 シンケングリーンの言葉に、黒子たちが慌てて顔を上げた。そして盛大に両手を胸の前で振って、わからないと主張する。
「そりゃ、ないでしょ?」
 シンケングリーンの声が、上擦る。

 その時、彦馬がぽんっと手を叩いた。
 シンケングリーンがうなだれていた顔を上げる。彦馬が微笑んだ。
「千明、覚えておるか?千年枝垂れ桜の清酒のびんにあったラベル。あれに、ここにあった枝垂れ桜の絵があったな」
「それです!彦馬さん!」
 流ノ介が、派手なポーズで彦馬の思いつきを讃えた。
「………ああ。あれね………」
 シンケングリーンは、その後も続けて歌舞伎のポーズを取っている流ノ介に、冷たい視線を走らせながら、
「でもあれ、小さかったし、俺、どんなだか覚えてねえよ」
 と呟く。それに彦馬が、またもにっこりと微笑んだ。
「寺に待機させている黒子が、持って来ておる。すぐに持って来させよう」
 そう言うと彦馬は、ショドウフォンを取り出した。
「………えっ?どうして、清酒などを彦馬さんは、ここに持って来られたのですか?」
 流ノ介のもっともな質問に、彦馬が頭を掻く。
「いや、なに。殿は昨日の朝食以降、まともな食事をされておられないのでな………そうなると、外道衆との闘いが終わる頃には、さぞかしお腹も空かれるに違いないと思ったのだ」
「えっ」
 丈瑠が今、改めて彦馬を見た。彦馬も、丈瑠と目を合わす。彦馬はにっこりと微笑んだ。
「殿は、昨晩もあまり眠られておられないご様子。そりゃあ、体力もモヂカラも、いつもより消耗が激しいでしょう。ですから………全てが解決しましたら、ここでお弁当でもと、思ったのです」
 丈瑠を見つめる彦馬の眼差しは、先ほどと同様に、かつて幼い丈瑠が寝込んだ時、横に付き添っていてくれた、あの時から変わることはない、優しく慈しみに満ちたものだった。
 そんな彦馬を見ていると、目頭が熱くなって来る丈瑠。
「………爺」
 それ以上、もう何も言えない丈瑠だった。そんな丈瑠の肩に手を掛けて、丈瑠の顔を覗き込もうとするシンケングリーン。
「じゃあ爺さん、弁当とか持ってきちゃった訳ね?」
 丈瑠が、シンケングリーンの腕を払い落すが、シンケングリーンの嬉しそうな様子は変わらない。
「なるほど!だから、彦馬さんと一緒に来られた黒子さんたちは、荷物が多かったのですね!?………って、かなりの量ですよね?」
 うんうんと頷く流ノ介。
「ピクニックじゃないのになあ。爺さん、丈瑠にはマジで甘いよなあ」
 文句を言いつつも、嬉しそうなシンケングリーンと流ノ介だった。






「それでは、今、黒子に清酒を持って来させましょう」
 彦馬がショドウフォンを取りだし、黒子に連絡を取ろうとする。それを見た丈瑠が、大きなため息をついた。
「もういい!」
 あまりにきっぱりとした丈瑠の言葉に、全員が丈瑠を見る。
 千明の丈瑠に対する、ひたむきな気持ち。その必死の思いを聞いて、気持ちを変えたのかと思っていた丈瑠が、またも侍たちを拒否するのか。誰もが、そう思った。
 彦馬は、眉根を寄せて丈瑠を見つめる。流ノ介は心配そうな顔で、いまにも駆け寄ってきそうだった。シンケングリーンに至っては、さきほどまでの明るい雰囲気が消えて、不安でいっぱいの様相をしていた。
 まるで丈瑠が千明を虐めているような雰囲気が、そこに漂う。
「ち、違う!!」
 思わず丈瑠が叫ぶと
「えっ?何が………違うのでしょうか?………殿?」
 流ノ介が、恐る恐るという風に聞いてくる。丈瑠は、誰もいない方向を向いて、腕を組んだ。
「そ、そんな………面倒なことはしなくてもいい!」
「………面倒なこと?って何だよ」
 不安を抱えつつも、丈瑠の言葉に首を傾げるシンケングリーンに、丈瑠が叫んだ。
「本人に聞けばいいんだ!本人に!!」
 しかし
「本人とは………誰のことですかな」
 彦馬までもが、丈瑠の言葉に首を傾げる。丈瑠は思わず彦馬を振りかえった。
「桜だ!この桜の………」
 そして窪みを指差す。
「根にでも聞け!!」

 一瞬、丘の上が静けさに包まれた。
「丈瑠の言ってること、意味わかんねーし!!」
 叫んだのは、いつでも一番に沈黙を破るシンケングリーンだった。
「な?何だと?」
 丈瑠がむっとした顔で、シンケングリーンを睨みつける。
「意味がわからないだと!?清酒の瓶のラベルを見るより、ずっと確かだろうが!!」
 頬をふくらます丈瑠に、シンケングリーンが肩を竦める。
「何が確かなんだよ!?だいたい桜にどうやって聞けってんだよ!?もうこれは、アヤカシじゃねえっつーの!!」
「アヤカシじゃなくても、聞ける!!」
 丈瑠は叫ぶと、ショドウフォンを取りだした。
「………えっ?おい!?マジなのかよ!?」
 慌てるシンケングリーンの前で、丈瑠は大きな動作で、空中に「思」の字を書く。
「はっーーー」
 丈瑠のモヂカラが込ったその字を、丈瑠は裏返すと、窪みの中の根に向かって放った。丈瑠以外の誰もが呆然と丈瑠のやることを見つめていたが、ひとつだけ誰の目にも明らかだったのは、その時、丈瑠の放ったモヂカラが相当のものだったということだ。






 窪みの中に見える枝垂れ桜の根。
 それに吸収された、丈瑠の強力なモヂカラ。
 どうなることかと、みなが見守る中、それは突然現れた。

「えっ」
「………あっ」
「ほう、これは………」
 アヤカシに取りつかれる前の、巨大で美しい姿の幻が、窪みの上に現れた。
 シンケングリーン、流ノ介、そして彦馬すら感嘆を漏らすほど、見事な枝垂れ桜だった。彦馬は昨日の闘いの際に、この枝垂れ桜を目にしていたはずなのだが、あの時は戦闘の方に神経が行っていたため、しっかりと見てはいなかったのだ。

 風になびいて、さらさらと揺れる枝。
 そこから零れる白い桜のはなびら。
 それが丘の上から、雪のように舞っていく。
 その姿は、微かに向こう側が透けて見えていなければ、本物と見紛うほどだった。

「………すっげー」
「これは………素晴らしい」
 かつての枝垂れ桜の夢のような姿に、見惚れるシンケングリーンと流ノ介。
「この樹の下で………」
 千明が、目を細めて幻を見上げる。
「丈瑠と、丈瑠の両親が、花見をしたことが………あったんだな」
 幻の上に、時を遡っての想像を重ねる千明。その呟きに、丈瑠がびくりと身体を震わせた。そして丈瑠も見上げる。自らのモヂカラで根から引き出した幻を。その向こうに透けて見える、青い空を。
「この樹の下で………俺と………俺の両親が?」
 千明の言葉に触発されたのか、丈瑠にも、ふと何かが見えてくるような気がした。そんな自分に気付いて、丈瑠は嘲笑を浮かべる。丈瑠は、首を振りながら、桜を見上げていた視線を、下の方に移した。すると、そこに。桜の樹の下に、人影が見えた。

 遥かな記憶の果ての父と、長く髪をたらした母らしき女性が寄り添っていた。そしてその女性に抱かれる幼子。
 しかし、その幼子は赤ん坊ではなかった。丈瑠が昨日、この桜に見せられた不思議な映像。それに良く似た映像だったが、あの時の子供は、完全な赤ん坊だった。
 しかし今、目の前の女性が抱く幼子は、三歳程度には見えた。その三人の上には、枝垂れた桜が垂れ下がり、舞い散る桜の花びらが、三人を包みこむ。女性に抱かれた子供は、両腕を上へ上へと伸ばして、何かをつかもうとしている。それを見守る二人。
 優しげな微笑み。暖かそうな腕。それに包まれて、何の不安もなく笑う子供。子供が空に伸ばす手のひらが、その向こうに透けて見える青い空が、いやに眩しい。
 それは、見ているだけで幸せな気持ちにさせてくれるような、そんな光景だった。

 丈瑠は息をのんで、それを見つめる。その人影は、殆ど実体と言ってもいいほどにはっきりしたものだった。しかしその人影は、丈瑠以外の誰の目にも映っていないようだった。丈瑠以外の誰もが、桜の上の方を見つめていたからだ。
 そうだとすると、これは何なのだろう。丈瑠にしか見えない、モヂカラにより引き出された、桜の根の記憶のひとつなのか。それとも、丈瑠の妄想なのか。
 丈瑠は、ただじっと、目の前の光景を凝視した。

 枝垂れ桜の幻に魂を奪われたかのようになっていた流ノ介たちだったが、すぐにシンケングリーンが我に返った。
「丈瑠!サンキュ」
 シンケングリーンはそう言うと、丈瑠のモヂカラによる幻を横目で睨みつつ、シンケンマルをウッドスピアに変化させた。それに熊ディスクを装着し、ウッドスピアを立てると、次にショドウフォンを取り出す。そして、窪みの前に立った。
 いつになく真剣な表情で、空中を睨む千明。やがて、すっくと腕を上げると、ショドウフォンで空中に文字を書きはじめる。
 戦闘の時のように、素早く書くのではなかった。一画、一画、丁寧に、慎重に。かつて彦馬に言われたように、その文字の持つ意味を、文字の持つ力を考えながら。その時のシンケングリーンの渾身の想いをモヂカラに込めて、書いた。
 そして書き上がった字を
「はっーーーーーー」
 気合いと共に裏返し、ウッドスピアに重ねると、ウッドスピアを窪みの中の根に向かって突き立てた。
















小説  次話







2010.07.07