花 影  3












 一方、丈瑠のいる場所と同様に、桜が満開の志葉家。

 彦馬と一緒にやって来た黒子たちが、宴の準備を始めていた。
「待ちくたびれたっての!」
 叫ぶ千明の前に、桜を描いた漆塗りの重箱や、小川と小鳥の透かしが入った白木の小箱、古九谷の大鉢や盆盛り、笹の葉が敷かれた手籠、椀などが次々と並べられていく。皿の上に見える馳走はどれも美味しそうだったが、蓋つき器についても、器がこれだけのものなら、中身はどれほどだろうと、見る者の想像をかき立てる豪華さだった。
「すっげー!!やっぱ朝飯食べないで来て、正解!?!」
 志葉家で一年間暮らすうちに和食も大好きになった千明は、それらに目をきらきらさせながら、もう待ちきれないと言った様子で、運んでいる黒子の手から食べ物の入った器を奪おうとしていた。そんな千明の襟首を右手で掴みながら
「お久しぶりです、彦馬さん」
 と深々と頭を下げる流ノ介。
「おお。お前たちも元気そうで何よりだ」
 彦馬はそう応えながらも、視線はあやしい動きをする千明に向いている。
「はい。お陰さまで」
 そう言いながら、流ノ介の手から逃れようとする千明を、流ノ介はぐいっと腕に抱え込む。
「そうか。歌舞伎の方はどうだ。調子は戻ったか?稽古は順調か?」
 流ノ介と、流ノ介の腕の中でジタバタしている千明を見ながら、彦馬の顔が綻ぶ。
 丈瑠が何よりも大事な彦馬ではあったが、丈瑠だけを相手にしていると、丈瑠が心配なあまり、息が詰まりそうになることも少なくない。そんな時に、素直に、伸びやかに育った流ノ介や千明を見ると、心が軽くなるのは事実だ。丈瑠がいないからこそ、できる顔だったかも知れない。
「はい。今度、五月に舞台がありまして、私、それに役を頂き………」
 そこまで言った時に、遂に千明が流ノ介の腕を潜り抜けて、彦馬と流ノ介の前に立ちはだかった。
「てかさー、そんな挨拶よりも早く始めよーぜ。俺、ほんとーに腹ペコなんだってば」
 そんな三人の後ろでも、黒子はもくもくと働き、気がつけば、宴の準備は終わっていた。






「ああ、ああ。そうだな。悪かったな千明」
 彦馬は笑顔でそう言うと、黒子に合図して、千明や流ノ介の前に膳、皿と杯、箸などを配らせる。そして、
「まずは、これからだろう」
 と、彦馬自ら流ノ介の杯に冷酒を注いだ。それを恭しく受け取り、口をつける流ノ介。
「これは………」
 一口飲んだ流ノ介が、感嘆の声を漏らす。それに彦馬が微笑んだ。
「花見であるからな。桜の香りが封じ込められているという珍しい酒を用意してみた」
「なんと!殆ど出回っていない幻の銘酒と言われるものですね!?」
 流ノ介は感動して涙を流し始めた。
「うっ、うっ、うっ。私たちのために、こんな銘酒までご用意して頂いて………ありがとうございます!」
 相変わらずの反応に、彦馬は千明と顔を見合わせる。そして二人で微笑みあった。
「さて、次はお前だ、千明」
 彦馬にそう言われて、千明が目を見開く。
「えっ?俺も飲んでいいの!?やったー!!俺にも銘酒、銘酒!!」
 満面の笑みの千明に、彦馬がにやりと笑って、黒子から別のガラスの酒器を受け取る。
「お前にはこれだ」
 と言って千明の杯に注がれたのは、どう見ても冷茶だった。
「ちぇっ」
 そう言って一気に冷茶を飲み干す千明。それを諌める流ノ介。
「未成年が飲めないのは、当り前だろう!!」
「判ってるよ!!」
 千明はそう叫ぶと、飲み干した杯を、彦馬の前に差し出す。彦馬が笑って、それに再び冷茶を注ごうとすると、千明が杯を引っ込めた。
「ちげーよ!爺さんも飲みねえ………って」
 それに彦馬は苦笑いをする。
「わしは、いいのだ」
 それを聞いた千明の口が曲がる。
「どーしてよ。花見なんだよ!?俺たちだけ飲んでる訳にはいかないでしょ」
 そう言って、千明は彦馬の手に杯を握らせようとする。
「千明!!」
 それを正座したままの流ノ介が、冷たい目で制止した。
「彦馬さんには、彦馬さんのご事情があるのだ。酒の無理強いは見苦しいぞ」
「えっ………」
 思いもかけないことを言われたという顔で、千明が彦馬を心配そうに見つめる。
「爺さん………どっか悪いの?腰は関係ねえよな。肝臓とか………か?」
「え?ああ、いや、それは………まあ、な」
「やっぱ、あの丈瑠の爺やってるんだもんな。心労すごいよな。そのせいなんだろ」
「千明!!」
 流ノ介がまたも千明の頭を叩いた。
「彦馬さんに心労かけていたのは、殿じゃなくてお前の方だろうが!!」
「え〜!?そんなこと、ねえよ」
 流ノ介に抗議する千明。
「そりゃ俺だって、この一年間、爺さんにはいろいろと世話かけたけどさ!それは認めるけど、俺が爺さんにかけたのは世話だよ、世話!心労じゃねえっての。爺さんの心労つったら、誰が何と言おうと丈瑠でしょう!」
 千明は叫ぶと、彦馬から杯を戻し、彦馬の持っているガラスの酒器を奪い取ると、手酌で冷茶を注いだ。
「考えてもみろよ。最後に丈瑠が屋敷出て行った時なんか………俺だって、何が何だか訳わからないし、納得できないし、丈瑠のやつが何しでかすかと思うと心配で心配で、もう頭おかしくなりそうだった。心臓だって潰れそうなくらいだったんだからな!!」
 冷茶をあおりながら叫ぶ千明を、彦馬が苦しそうに見つめた。
「だから爺さんなんか、俺の比じゃないだろ!あの一晩で胃に穴くらい開いたろうし、肝臓も悪くなるよな、そりゃ」
「千明!!」
 流ノ介がもう何度目かわからない制止をする。しかし、その声は今までのものとは比較にならないほど鋭く、宴の席に響いた。
「………な、んだよ。流ノ介」
 驚いて振り返った千明は、流ノ介の顔を見た瞬間に、自分の犯した失敗に気付く。
「二度と、その話は口にするな」
 叫ぶでもなく大声でもなく、しかしきっぱりと流ノ介は告げる。その流ノ介の顔は、まさに、あの時。丈瑠を十臓との闘いの火の海から救い出した時の、流ノ介の表情だった。正座のまま千明を見据える流ノ介。その背後からまっすぐな気迫が立ち上り、千明に有無を言わせない。
「あ、ああ………御免。俺………」
 千明は、それだけ言うので精いっぱいだった。
 あの時の、あの晩の思いが千明を襲う。浮かれていたとは言え、確かに軽々しく蒸し返せるような話ではなかった。例え、ここに丈瑠がいないのだとしても。千明は唇をかみしめて、俯いた。






 丈瑠は目を覚ました。
 最初に目に入ったのは、見慣れぬ天井。そして、その横から心配そうに自分を覗き込む黒子の姿だった。
 丈瑠はすぐさま、布団に右手をついて起き上がる。黒子が止めようとするが、丈瑠はそれを遮った。起き上がっても、眩暈はもうない。周囲を見回すと、そこは志葉屋敷ではなさそうだった。
 志葉屋敷はとても広く、住み込みで働いている黒子も多い。だから黒子たちの私室などは、丈瑠でもどんな風になっているのかを知らない。丈瑠が足を踏み入れたことのない部屋が、志葉屋敷にはたくさんあるのだ。そういう意味で言えば、見慣れぬ部屋であっても、志葉屋敷である可能性もある。しかし普通は、丈瑠が志葉屋敷で寝かされるなら、それは丈瑠の寝室だ。今までにも、戦闘で気絶したままでの帰宅は何度もあったから、情けないことだが、そういう状況には慣れている。しかし、このように、見知らぬ場所で目覚めたことは、丈瑠には殆どなかった。だからだろうか、落ち着かない。
 丈瑠が寝ていた部屋は、古いがそれなりの造りをした、広い和室だった。そしてどこかから漂ってくる線香の香り。開け放たれた障子の向こうには、縁側と全開になった窓。その反対側には、板間の廊下が続いている。あまりに開放的なので、閉じ込められたとか、そういうことはなさそうだった。
「ここは………さっき見えた寺か」
 丈瑠が見当をつけたのは、先ほど自分が倒れたのであろう枝垂れ桜のある丘から見えた、桜に囲まれた寺院だ。それに黒子が深く頷いた。
「どうして、屋敷に帰らなかったんだ」
 責めたつもりはないが、丈瑠がそう聞くと、黒子たちは一瞬顔を見合わせた後、慌てて胸の前で手を振った。
「何だ?」
 重ねて聞く丈瑠に、黒子は困っている。

 その時、襖を開けて入って来たのは、この寺の住職らしき人物だった。
「お気がつかれましたか」
 まだ若い住職は、そう言うと丈瑠の布団の横に座った。丈瑠も会釈をする。
「白澤さまが、あなた方をお連れになった時は驚きましたよ。枝垂れ桜の下で倒れられたとか」
 住職の言葉に、丈瑠は眉を寄せた。
「白澤………?」
 住職は微笑む。
「この天澄寺を菩提寺にされていらっしゃる方です。この一帯の地主さんで、枝垂れ桜も白澤さまのところの木なんですよ。あの枝垂れ桜は千年の樹齢と言われているものなのです。今日は丁度、お墓参りにいらしていて、あなた方をその枝垂れ桜のところで、みつけられたそうです」
 丈瑠が、黒子の方を向く。黒子がそれに頷いた。どうやら住職の話は、嘘ではないらしい。
 実際のところ、黒子たちは悩んだのだ。本来ならばすぐにでも志葉屋敷に帰りたかった。彦馬からも丈瑠をなるべく早く帰宅させるように、きつく言われていた。しかし丈瑠の様子を考えるに、侍たちが待っている屋敷にこんな状態で帰宅するのを丈瑠は嫌がるのではないかと思い、見知らぬ人の親切に便乗したのだ。
 そんな黒子たちの気遣いまで気が回らない丈瑠は、多少の疑問を感じつつも、納得する。それと、これだけの桜があるのに、花見客がいない理由もはっきりした。あの桜の園は、私有地だったのだ。丈瑠たちは闘いをしている内に、私有地に入り込んでしまったのだろう。
「そうですか」
 丈瑠はそう応えると、布団から出ようとする。それを住職が止めた。
「まだ、お休みになっていてください」
「いえ」
 丈瑠は首を振ると、布団の横に正座し、僅かに頭を下げた。
「ご迷惑をお掛けしたようで、申し訳ない。あとで家の者を使いに来させます。御礼を………」
「とんでもない!私たちは別になにもしていませんし、倒れている方をお助けするのは、寺としては当り前のことです」
 住職が恐縮する。しかし丈瑠はそれに構わず、立ちあがった。
 丈瑠にとって不本意であったとしても、自分を助けてくれた相手に対して無愛想が過ぎる。しかし丈瑠の胸の内には、別の思いがあった。

 こんな場所で、一般人の世話になったと知れたら、後で彦馬に何と言われることか。志葉家は、なるべく世間から隔絶していなくてはならないのに。それが、一般人を外道衆との闘いに巻き込まない最善の方法なのだ。ドウコクを倒した今でも、そのことに変わりはない。ドウコクも最期に言っていたが、『三途の川の隙間は開いている』のだ。ドウコクとの闘いは終わったが、外道衆との闘いに終わりはない。そうだとすれば、やはり一般人と軽々しく交わってはいけないのだ。

「それでは、失礼します」
 そう言って歩き出す丈瑠。黒子は、困ったように丈瑠と住職を見比べる。住職も慌てた。
「お待ちください」
 住職の言葉が丁寧なのは、お付きを二人も連れている丈瑠を、それなりの人物と見たのか。一方、丈瑠も、世話になったのに無視して立ち去る訳にもいかず、仕方なく振り返る。すると、住職は胸をなでおろしたようだった。
「白澤さまが、もうすぐお戻りになりますから、それまでここでお待ちください。白澤さまがあなたのことをとてもご心配されていましたので、ご挨拶だけでも。今、お茶の用意などもさせますので」
 しかし、それにも丈瑠は首を振る。
「世話になったところを申し訳ないが、遠慮させて頂きます」

 これは、丈瑠の人見知り、無愛想からくるものだけではなかった。
 一般人との接触を避けたいという理由以外にも、丈瑠は、志葉家以外での飲食を厳しく制限されていたのだ。幼い頃より、外出中に食事をとる必要がある時は、どこに行くにも黒子が作った弁当と水筒持参だった。和菓子やケーキなどの嗜好品も、黒子が作ってくれていた。
 侍たちが招集された後は、彦馬のいない戦闘の帰りにケーキ屋に寄ったり、千明が買い食いの帰りに市販の菓子を志葉屋敷に持ち込んだりもした。誕生日ケーキを買いに行かされたことまである。細心の注意を払って丈瑠を育ててきた彦馬も、その頃は、侍たちとの交流を優先してくれていたのだろう。あの最初の半年だけ、丈瑠は外食を許されていた。しかしシタリの丈瑠に対する毒殺未遂事件以降、丈瑠の外食禁止は前より一層厳しくなった。それ以降での外食と言えば、それこそ源太の作る寿司くらいしか、食べたことがない。
 もしかしたらドウコク亡き今となっては、この件に関しては解禁になったのかも知れない。しかし、彦馬からそうと言われた覚えもなかった。

 住職は引きとめる口実を失って、困り果てた顔をする。黒子もどうしたらいいかと、態度を決めかねていた。暫く考えた末に、住職は立ち上がった。
「それでは、私もみなさまを寺の門までお送りします。途中に白澤さまのお墓もありますので、きっとそこで白澤さまにお会いできるかと………」
 丈瑠は思わずむっとした表情をしてしまったが、仕方なく頷いた。丈瑠としては一刻も早くここを去りたかったのだ。そして、彦馬に確かめねばならぬことがあった。

 丈瑠と黒子たち、そして住職は寺を出て、白澤家の墓があるという寺の門の方へと歩き出した。






 









小説  次話







2010.04.17