丈瑠は、志葉家の庭園の奥深くを歩いていた。 やがて目の前に、ピンク色に煙る園が現れる。重い気持ちを抱えながら歩いていても、そこに足を踏み入れれば、悩みも忘れてしまうほどの、麗らかな景色。どこを向いても景色の全てが桜に覆い尽くされていた。 自分の住んでいる屋敷の庭ではあったが、丈瑠がここを前に訪れたのは、何時だったろうか。それは、多分二年も前になるのだろう。 昨年の桜の季節は、侍たちを招集した少し後だ。丈瑠が始めて得た、同年代の仲間。いや、あの頃はまだ仲間ではなく、ただ共にある同士でしかなかった。その者たちが、少しずつ気持ちを通じ合わせ始め、闘い方も様になりかけていた頃だ。それでも、新しい環境、新しいメンバー、それぞれの思惑や軋轢が渦巻いていて、桜を愛でるような余裕は、丈瑠にも侍たちにもなかった。 だから、前に丈瑠がここを訪れたのは、それより遡ることさらに一年。侍たちの影も形もない頃。彦馬と黒子たちと共に、丈瑠が一人で闘い続けていた、一昨年だ。 その頃の丈瑠の心境は、今と同じようにとても複雑だった。 丈瑠が外道衆と一人闘い続ける。それは構わなかった。そのために、丈瑠は存在しているのだから。それは、もう納得するとか、そういう以前の問題だ。世間から隔絶されたところで生き、闘い続けて、闘い続けて、闘い続ける………だけならまだ良かったのだが、その結末が丈瑠に見え始めた頃だったのだ。 つまり、ほんの少しずつだが、外道衆の勢いが増し始めていた。それまでは、外道衆の勢いには波があって、強くなったり弱くなったりの繰り返しだった。しかしその頃から、勢いは強くなる一方になり始めていた。 闘っている丈瑠は、それを自身の身体で感じていたが、彦馬や黒子がその時どこまでそれに気付いていたかは分からない。丈瑠は、自分が感じたその不安を、誰にも言えなかった。 外道衆の勢いが増す一方と言うことは、ドウコクの復活が近いということ。復活したドウコクを自分が倒せるのかはわからない。それが不安なのだろうか?だから、気持ちが不安定なのだろうか。その頃、丈瑠はよく考えていた。しかし、どうもそれが不安の原因ではないようだった。 自分はただ闘うだけだ。最期の最後まで。命の最後の一滴までも、相手にダメージを与えて………それで、死んでもかまわない。何故なら、それこそが、自分に課せられた使命だから。ただ、なるべく相手にダメージを負わせなければならないから、強くならねばならなかった。そのために日夜、稽古に励んでいた。 しかし、その稽古の先にあるものは………『死』だった。今なら、そうはっきりと言える。あの頃の自分は、死ぬために、死ぬ前にドウコクにより多くのダメージを与えるために、稽古をしていたのだ。ドウコクに勝つために、生き残るために、強くなろうと思っていたのでは、決してなかった。 それでは、死までも覚悟して、死を見つめて生きていた丈瑠が、何を不安に思っていたのか。それは、丈瑠が倒された後、残された者はどうなるのか、ということだった。 自分が倒された後、爺や黒子は無事でいられるのだろうか?志葉の本流の方は、それをどう考えているのだろう。自分というドウコクに対する盾がなくなった時、爺や黒子は、誰が守ってくれるのだろうか。もっと言えば、志葉家の本流は、彼らを守る手立てを持っているのか? それとも、自分が強ければ、いいのか?ドウコクを倒せないまでも、十七代目と同様に、爺や黒子たちに手出しができないほどのダメージをドウコクに与えられれば、自分が死んだ後も、爺たちは無事にくらして行けるのか? それでは、もっと?もっと?もっと、もっと?………自分は、どこまで強くなれば、爺や黒子は、自分が死んだ後も無事でいられるのか? そのような不安が現実味を帯びて、丈瑠を襲い始めた頃に行われたのが、一昨年の花見だった。 闘いとは無縁のような麗らかな桜の園で、舞い散るはかない桜を見つめる丈瑠の目には何が映っていたのか。その時、丈瑠がどんな切ない想いで、彦馬や自分を世話をする黒子を見つめていたのか。それを知る者は、誰もいないだろう。 自分の強さ如何で、自分亡き後の彼らの命運が決まるかも知れない。 それは、深く、重く、その頃の丈瑠に圧し掛かっていた。 「今も、同じことか」 丈瑠は呟いた。 後ろに付き従う黒子が、顔を上げたが、丈瑠はそれに何でもないと首を振る。 一昨年から変わることのない志葉屋敷の桜の園を歩いて、丈瑠は、一昨年の自分の想いが、胸の内に甦って来るのを感じた。 「同じ………」 抱える悩みも。想いも。そして、それを誰にも言えないことも……… 悩みの質も内容も完全に同じとは言えないが、これは、丈瑠が抱えて行かねばならないもの。一昨年の『仮の当主』であった自分あろうと、今の『真の当主』であろうと、志葉家の当主である限りは、きっとただ一人で抱えて行かねばならない問題。 そして、それを抱えきれなくなった時。手放した時に、今度こそ本当に、自分は闇に堕ちるのだろうか………真の志葉家当主の資格を持たない自分は……… 丈瑠が深いため息をついた時に、桜の木々の彼方から、それは聞こえてきた。 「だからあ、そういう意味で言ったんじゃないって、言ってるだろう!?」 千明が、二か月前と変わらない調子で叫んでいた。 「そういう意味ではなくて、どういう意味になると言うんだ!!!」 流ノ介も相変わらずのテンションで、千明の頬をつまんで横に引き伸ばしている。 「成績の悪かったお前に、そのようなことを言われる覚えはない!!失礼だろーが!!」 「しずれいって、おはえのほーが………」 流ノ介の髪の毛を引っ張る千明。結局、取っ組み合いになっている二人だった。 きつい表情をしていた丈瑠の頬が、少し緩む。 「あいつら………相変わらずだな」 それは独り言というよりは、横にいる黒子に話しかけたように聞こえた。このため、黒子は一瞬とまどった後に、頷いた。黒子は、丈瑠がこの席に来たくないのではないのかと、ずっと思っていた。しかし、丈瑠がこのような表情で、流ノ介や千明を見るのであれば、それは杞憂だったのだろうか。そうだとすれば、今日の丈瑠の挙動不審は、何によるものなのかと、首を傾げる。 考えながら丈瑠に付いていた黒子が気付くと、目の前に丈瑠がいない。焦って周りを見回すと、自分より後ろに丈瑠がいた。丈瑠が立ち止まっていたのだ。 「!?」 黒子が驚いたのは、丈瑠の表情が先ほどまでとは異なっていたからだ。丈瑠は、呆然としているように見えた。丈瑠の視線の先は、当然、花見の宴だ。何があるのかと黒子が振り返ると、そこにあったのは、流ノ介、千明そして彦馬の談笑する姿だった。訳がわからず、丈瑠と花見の席を交互に見つめる黒子に気付いた丈瑠が、苦笑いをする。 「忘れてた」 黒子がそれでもわからずに、丈瑠の傍に控えながら、丈瑠を見上げる。それに丈瑠は応えた。 「爺は、あんな風に声を出して笑えるんだ。俺がいなければ………」 丈瑠は花見の席を眩しそうに見ながら言った。そこには、彦馬が腹を抱えて笑っている姿があった。 「………戻る」 丈瑠は、踵を返して、屋敷の方に戻りはじめる。驚いて止めようとする黒子に、丈瑠は僅かに微笑んだ。 「大声で笑うと免疫力が上がって、癌とか病気になりにくいらしい。前に……千明が言ってた」 黒子は必死に首を振る。しかし丈瑠は再び、歩き出した。 「爺も俺とにらめっこばかりしているより、たまにはあいつらと大笑いして、免疫力高めた方がいいだろう」 確かに彦馬は、丈瑠と居る時に大笑いはしないだろう。それは、丈瑠を志葉家当主として育て上げる後見人=爺としての役目上、自分を厳しく律しているからだ。しかし、侍たちと暮らしての一年間で、彦馬の大笑いを………たいていは、千明か流ノ介が何かをやらかしてのことだが………生まれて初めて見た丈瑠には、そうは思えなかったのだろうか。そして、今も……… 「俺が行ったら、爺はあんな風には笑わない」 それは確かにそうなのだが、その意味は、きっと丈瑠が思っているのとあまりに違う。黒子は、必死で屋敷に戻ろうとする丈瑠を止めた。 小説 次話 2010.04.30 |