流ノ介と子供のような喧嘩をした後で、千明はまたも盆に手を伸ばして、きんつばを取った。それをくわえながら、千明が何かを思いついたようだった。何杯目になるのか………という抹茶オレを飲みながら、千明の目がきらりと光る。 「ねえねえ、爺さん」 茶碗を置くと、千明が猫なで声で、彦馬に話しかける。彦馬が怪訝な顔を千明に向けた。 「流ノ介の成績が良かったのは判ったけどさ。そういう話だったら、丈瑠の学校の成績って、どうだったの?」 思いもかけない千明の質問に、彦馬は面喰う。 千明の単なる好奇心による、大した意味もない質問。そう判っていても、最近の彦馬にはちょっと辛い質問だった。とりつくろう訳ではないが、彦馬はどう答えようかと、戸惑ってしまう。 「む?うむ。そうだな………どうだったかな」 しかしその戸惑いを、千明は先の『丈瑠の学校の友人』の時と同様に早合点した。 「きゃはは。爺さんが口ごもるなんて、ちょっとそれ、やばいんじゃない?」 笑いついでに、背中からひっくり返り、手の中のきんつばを握りつぶして 「げーっ」 と叫んでいる千明に、だんだん遠慮がなくなってきた流ノ介が蹴りを入れた。 「ちーあーき!!殿のことをそういう風に言うのは止めろと、私は何度言った!?お前に初めて会った一年前から、本当に何度言った!?」 それに、腹筋を使って真っ直ぐに起き上がり、流ノ介とおでこがぶつかりそうな所まで顔を寄せる千明。 「何でだよー!丈瑠が本当の馬鹿殿かどうか、流ノ介だって確かめておきたいだろ?」 話は、花見の最初の頃に戻るらしい。そんな千明に、流ノ介は顎を上げて軽蔑のまなざしを注ぐ。 「そのような悪趣味は私にはない!!」 「どうしてよ?」 食い下がって来る千明の身体を、流ノ介は押し戻した。千明はそれに逆らわずに、またぱったりと仰向けに倒れる。 「殿は殿だ!!そういうことは、関係ないんだ。それに闘いの中で殿の頭の切れ具合など、知り尽くしているはず。いい加減にそれくらいのこと、わからないのか!?」 少しずつ本気で怒りはじめる流ノ介。それを感じながらも、千明も止まらない。 「ええ?そう?学校の成績はまた別だろ?俺は興味あるね」 千明は仰向けに転がったまま、鼻息荒く、きんつばの皮と餡でどろどろの手を握ったり開いたりする。しかし、横から濡れタオルを差し出してくれる黒子が不安そうに千明を見つめるのを見て、千明も、黒子ちゃんの大事な殿様の悪口言いすぎかな………と思った。 「だから、そういうのは悪趣味だと言うんだ。とにかく、もう止めろ!!」 しかしこういう風に流ノ介に怒鳴られると、やはり止められない千明だ。 「えー!いいじゃんかよ。ねえ爺さん、教えてよ。丈瑠って成績どうだったの?」 流ノ介と千明のやりとりを呆れて眺めていた彦馬は、今度こそは余裕を持って答えた……… 「まあ………まあ、悪くはない。良かったぞ」 ………つもりだった。 「何それ。本当のこと言えってば!」 しかし、どうにも迷いを見抜かれたか、千明が起き上がり突っ込みを入れてくる。 「成績表の評定は………全て最高点だ」 嘘ではない。そう思っていても、言葉に重みがでない。だから、千明にも判ってしまうのだろう。 「………えーっ?」 眉を寄せて不審がる千明の次の言葉を遮るように、流ノ介が千明を彦馬の前から、どんっと弾いてどかせた。 「ほら、もういいだろう、千明。殿は成績も良かったんだ」 流ノ介はかなりずれている時もあるが、学校の成績がずば抜けて良かったということから考えても本質的には頭がいいのだろう。さらに歌舞伎という伝統と格式、そして大人の世界に子供の頃からいることで、暗黙の了解、不文律というものも身を持って知っている。流ノ介は、彦馬の様子から何らかの事情を察して、千明を牽制しているのだ。こういうところは、学校の教師には、さぞかし受けが良かっただろうと、彦馬は思う。それに比べて千明は、正反対だ。疑問は疑問として、相手の状況を考えずに突き付けてくる。 しかし、千明のように、周りを上手く納めることを考えずに、真っ直ぐに突き進むことが必要な時もある。毎日、丈瑠だけを見ている彦馬は、特にそう感じるのだ。教え込まれたことを忠実に守り通すことのみを大事にして、他の何もかもを抑え込み、我慢し、やがて何を我慢しているのかすら、自分でもわからなくなってしまっているような丈瑠を見ていると、最近は、特にそう思えて仕方ない。丈瑠が忠実に守っていることを教え込んだのが彦馬自身であるにも関わらず。 だから、突っ込まれているのが自分でも。いや、だからこそ、彦馬は千明を好ましく思ってしまう。 「おい、ちょっと待てよ。本当かよ、それ。ウソだろ?」 流ノ介に一度は彦馬の前からどかされた千明だったが、流ノ介を押しのけて、再び彦馬の前に座り込む。その千明を、後ろからまた流ノ介が掴みに掛かっていた。そんな二人を見ながら、彦馬はため息をつく。 「嘘ではない。後で成績表を見せてやってもいいが………」 「え?えええ??だって………じゃあ………なんだよ、さっきの爺さんの態度は?」 「もういいから止めろ、千明。彦馬さんも呆れているだろうが!!これ以上言うと、本当に怒るぞ」 彦馬のため息は、千明に呆れたからではなかった。こんな、普通ではなんでもないことにも、嘘があるような人間を作ってしまったことへの後悔だった。 「何で流ノ介に怒られなくちゃならないんだよ」 流ノ介に身体ごと絡みとられた千明が、流ノ介の腕の中でジタバタしながら叫ぶ。 「とにかく、もういいんだ、千明。それよりも、ほら、この水羊羹が美味そうだぞ」 流ノ介に無理やり、口の中に水羊羹を押し込まれる千明。それをごくんと飲み下しながらも、千明は暴れ続ける。やっとのことで、流ノ介に解放された千明は、今度は流ノ介に向かって叫んだ。 「判ったぞ!志葉家の殿さまだってんで、本当の成績とは関係なく、最高点付けてもらったんだろ!?だから、爺さん、口ごもってんだ」 「千明!いい加減にしろ!!!」 どすの効いた流ノ介の声に、さすがの千明も、びくりと肩を震わせる。 「だって………本当のこと知りたいだろ?だったら………」 「いいから!!黙れ!!」 千明も、さすがにこれ以上言い続けるのはどうか、と思い黙り込む。しかし、その背中に声が掛かった。 「その通りだ」 断定的で、有無を言わさない声。 「えっ?」 本当は懐かしくて仕方ない声。聞くだけで嬉しくなる、背筋が伸びるような気がする声。 「お前が言ったとおりだ」 しかし今は、とてもそのような感傷的な気持ちにはなれない千明だった。振り返った千明の視界に入ったのは、見慣れた藍染の剣道着と袴を着けた丈瑠の姿だった。花見台から少し離れた場所に、お付きの黒子と共にいる。黒子が、丈瑠の袴の裾を引っ張っているのが、何か不自然だったが、ともかくも、そこに現れたのは、相変わらず立ち姿も凛々しい志葉丈瑠だった。 「丈瑠………やっべー」 思わず丈瑠に背を向けて、頭を抱える千明。それだけでは足りなくてどこかに隠れたいと、横に立つ流ノ介を見上げる。しかし、流ノ介は厳しい顔で俯いていた。これは駄目だと思った千明は、彦馬の後ろにささっと移動する。 「本当の成績とは関係なく、最高点がついているんだ」 もう結構です。すみませんでした。そう言って耳を塞ぎたい千明だったが、丈瑠は情け容赦なく続けてくる。 「殿!」 それを遮るように声を上げたのは、彦馬だった。丈瑠が彦馬を見上げる。 「そうだろう、爺」 丈瑠の顔がほんの少し笑う。 「いえ。本当の成績とか、そういうことではなくて………」 返す彦馬の声は、とても苦しそうだった。彦馬の背中に隠れている千明が、不安になるほどだ。 「なんだよ、爺さん。丈瑠が認めているのに」 千明は横から彦馬の顔を覗き込む。それに、彦馬は俯き加減に首を振った。 「そうではないのだ。千明、お前は誤解している」 「………何?どういうことだよ」 「もういい!!黙れ!!」 彦馬の横に並ぶ流ノ介が、やはり俯いたまま怒鳴った。そこまで来て、ようやく千明は、彦馬や流ノ介の不自然な態度が、丈瑠の成績が本当は悪かったから………ではないことに気付く。 「おいおい!ちょっと待てよ!!何みんなで隠しているだよ」 しかし、彦馬も流ノ介も黙ったままだった。 彦馬の後ろで、流ノ介と彦馬の顔色を窺う千明。何も言わない彦馬と流ノ介。それを確認して、丈瑠が一歩前に踏み出た。 「千明」 丈瑠の呼びかけに、千明がびくりと身体を震わせた。千明は仕方なく、そろりと彦馬の身体の横から出て、丈瑠に顔を向ける。丈瑠は怒った顔はしていなかった。いたって普通の顔だ。それに千明は一瞬、ほっとする。 しかし、そんな時ほど、丈瑠が心の中で何を考えているのかはわからない。この一年間、ずっとそうだった。千明がどんなに本音でぶつかっていっても、丈瑠はすっとかわす。あるいは、かわしていることにすら気付かせずに、かわしている。丈瑠が影武者と判った後に、初めてまともに言葉を交わした時もそうだった。千明の渾身の一撃を、丈瑠は余裕でかわしてしまったのだ。千明にとって、あれほど情けなかったことはない。 そんなことを回想しながら、千明が丈瑠の顔を眺めていると、丈瑠が答えた。 「俺は学校には殆ど行ったことがない。それだけだ」 「………えっ?」 それは千明にとって予想外の言葉だったので、頭にすんなりと入って来なかった。 「モヂカラや剣の稽古に忙しかったし、外道衆の勢力が大きい時は、俺も危険だが、俺が通ったら学校も危険にさらされるかも知れない」 丈瑠が淡々と語る。語るうちに、千明にも丈瑠の言っていることが、少しずつ入って来る。頭にも、心にも、じんわりと。確かに似たようなことを千明も言われた覚えがある。外道衆との闘いに巻き込まないように、一般人とは関わってはいけない………とか? 「………でも、それはそうかも知れないけど………学校は行く……もんだろ」 丈瑠の言葉を消化しきれない千明に、丈瑠は続ける。 「俺が強ければ、行けたのかもしれない。しかし、俺はその頃、まだ外道衆を倒せるほど強くなかった。だから、行けなかった」 行けなかったのは、自分のせい。自分が弱かったせい。 そう、当然のように言う丈瑠。丈瑠が言うと、本当にそれが当然のように聞こえる。志葉家の論理で言えば、そうなのかも知れない。当然のこととして、それを受け入れ、平然としている丈瑠。 「………そんな」 千明が言葉を漏らす。そして、千明の中に、むらむらと怒りが湧き上がって来る。 酷い………どうして、そんなことになるんだ!?いくら丈瑠だって、学校くらい、行かせてやれよ!!その頃はまだ、外道衆の勢いだって、激しくなかったんじゃないのか!? そう思って思わず彦馬を振り返った千明だが、彦馬の悲痛な顔を見て、責める相手が違うことに気付く。それでは、誰を責めたらいいのか?酷いじゃないか!と言う相手は誰か?もしかしたら丹波か!?しかし、千明は考えた揚句、そんな相手がいないことに気付く。 しかし、そこでまた、新たな怒りが千明に湧いてくる。どうして丈瑠は、そういうことを、平然と受け入れているのか?反抗しないのか?丈瑠が弱かったから、行けなかっただって!?原因はそこじゃあないだろう!? 「それに………義務教育は受けなきゃいけないだろ。それは………どうしたんだよ」 怒りの向け先がわからないまま、聞いても無駄と知りつつ、でも言わずにはいられない千明。それを口にした途端、流ノ介が横から小さく蹴りを入れてきたことを考えると、やはり聞くのは酷なことだったのだろうか。それは、丈瑠というよりはむしろ、彦馬にとって。 「義務…教育?」 しかし、千明の言葉に丈瑠があまりに素直に疑問を発してくるに至っては、千明だけでなく流ノ介までもが思わず丈瑠を見返してしまった。二人に見つめられて不審そうにしている丈瑠の様子は、千明と流ノ介の心にある想いを突き付ける。それは、千明流に言えば、やはり丈瑠は『馬鹿殿』だったと言うことだ。多分丈瑠は、非常に偏った教育しか受けてきていないのだ。その考えを裏付けるように、彦馬が言い訳した。 「志葉家の者が通うのは、昔から志葉家が理事をしている私立の学校でな。小学校でも中学校でも………殆ど通うことはなかったが………行ったことにはなっている。高校や大学は少しは通って頂けたのだが………まあ、同じだ。勉強は必要な科目については家庭教師に来てもらっていたし、学校と同じ定期テストを屋敷で受けて頂いて、その結果で成績はついていたのだから………全てが嘘………ではないのだ、千明」 ここまで言われて、それ以上は、さすがの千明でも詰め寄る気にはなれない。 「そう………なんだ。」 でも、納得もできなかった。だから、腹立ちまぎれに流ノ介を睨んでみる。 「流ノ介は知っていたんだ」 「………別に聞かされた訳ではないが、想像はついた」 流ノ介もぽつんと答えた。 「そっか………」 時代錯誤の志葉家。影武者までたてていた志葉家。志葉家だったら、それくらい当然なのかもしれない。丈瑠が影武者だからという訳ではなく、きっと志葉薫も同じだろう。外道衆の動きが殆どない時は別として、三百年の昔から当り前にしてきたことで、それが世間の在りようとずれてきたのが、ここ百年ばかり………そういうことなのかも知れない。 志葉家の家臣なら、丈瑠がそのような育ち方をしてきたであろうことは、当然、想像できて当り前だったのだろうか。一般人のような感覚で、それはおかしい!と異議を唱える方がおかしいのか。 大前提に立って言えば、そうなのかも知れないが。 「じゃ………さ。友達って、丈瑠には………」 千明にとっては、なによりも大事に思えることを、聞いてみる。 「そういう付き合いは、源太くらいか」 丈瑠が躊躇なく答えた。隣で、流ノ介が怖い顔をして千明を睨んでいたが、千明はそれを無視する。千明だとて、ここまでくれば、丈瑠の答えくらい想像がついた。けれど、丈瑠の口から聞きたかった。こういう背景があったからこそ、丈瑠にとって源太は唯一無二の存在だったのだ。むしろこんな育てられ方をした丈瑠に、源太と言う幼馴染が存在したことの方が奇跡的だ。これも、源太の型破りな性格のお陰なのだろう。 「そうだよ………な。学校行ってないんだもんな。それでずっと………闘ってたんだもんな」 千明が友達と遊んでいた時。道端でふざけていた時。ゲームセンターで大笑いしていた時。マックやミスドでお喋りをしていた時。 丈瑠は、もしかしたら、たった一人で外道衆と闘っていたのか。想いを分かち合う相手もなく、ただ一人、闘いだけを見つめていたのか。 そう思うと、先ほどの怒りをぶつける先が、ますますわからなくなって来る。 千明は、侍、シンケンジャーとして闘った一年で、いろいろなことを考えさせられた。そして、自分の未来についても、前とは異なる想いで、見つめるようになった。それは、自分が侍であることと切り離せないことだし、もちろん、丈瑠とも繋がっている。だから、丈瑠にそれを伝えたくて、今日ここに来たはずなのに、それよりも、もっと重い丈瑠の在り方を見せつけられて、千明は戸惑ってしまう。 小説 次話 2010.05.02 |