花 影  9














 日が傾いてきて、薄暗さが増す花見の席に、重苦しい空気が流れる。しかし丈瑠はそれを感じていないのか。
「爺」
 本当に、何気なく彦馬に声をかけてきた。彦馬は、眉を寄せたまま顔を上げる。
「爺、聞きたいことがある」
 彦馬は返事の代わりに、ただ黙って丈瑠を見返した。
「今日訪ねた場所だが。見事な枝垂れ桜があっただろう。あれは樹齢千年にもなるそうなのだが、あそこ………前に行ったことがある場所か?」
 彦馬の表情が戸惑いに変わる。
「いや、言い変える。あそこで俺は、花見をしたことがあるか?」
 彦馬は何を問われているのかすら、わからないといった顔をしていた。

 流ノ介と千明も、先ほどまで話題の気まずさに俯いたままだった。しかし、せっかくの花見の宴。丈瑠との久々の再開。それを、こんな雰囲気のまま締めにしたくない。なんとしても、この気まずい雰囲気を払拭したいと、丈瑠の話に聞き耳を立てる。

「殿。………先ほどの場所で………ですか?」
 彦馬がやっと口に出す。
「そうだ」
 丈瑠が彦馬の反応の悪さに、少し苛立った声で応えながらも、じっと彦馬の顔を見ていた。彦馬は顎に手を当てて、考え込む。
「あの場所に行ったのは………多分、初めてだと思います。後で記録を調べてみますが………」
「俺が花見に行ったことは!?あるのか!?ないのか!?」
 彦馬のはっきりしない答えに、丈瑠が鋭い声を出した。それに、思わず彦馬も、流ノ介も千明も、目を見開く。それを見た丈瑠がまた、唇を噛んで、横を向いた。
「花見でしたら………」
 彦馬が息をのみながら答える。
「殿は毎年、志葉家のこの園でしか、されたことはないはず………」
 丈瑠はその答えに、忌々しそうに頭を振った。いつもの丈瑠らしくない態度に、誰もが驚く。
「じゃあ!!」
 丈瑠は花見台の方に踏み出す。そして花見台の淵に設置してある低い欄干に手を置いて、彦馬を見上げた。
「爺は、『白澤』という家を知っているか?」
 彦馬は丈瑠に見上げられるのを避けるために、欄干に手を置いてそこに屈みこんだ。
「『白澤』ですか?」
「あの枝垂れ桜の持ち主だそうだ」
 丈瑠は、探るように彦馬の表情を見つめる。彦馬は、眉を寄せて何かを考えていた。
「白澤………と言われて爺が思い出しますのは、白澤財閥くらいしか………」
 その時だった。
「これですね!!」
 彦馬と丈瑠の間に、いきなり杯が差し出された。面喰う丈瑠に、流ノ介がその杯を突き付ける。
「これです!!殿!!」
 得意げに言い切る流ノ介は、その一言で、すっかりそれまでの空気を破壊してしまった。
「はああ??」
 丈瑠も先ほどまでの深刻さの欠片もなく、顔を歪める。
「白澤家の幻の銘酒!!桜の香りを封じ込めたと言われる、『千年枝垂れ桜』でーす!!」







 彦馬が黒子に、酒器に移し替える前の酒瓶を持って来させた。
「殿、こちらです」
 暗さが増してくる中ではあったが、差し出された一升瓶のラベルに、見事な枝垂れ桜の絵と白澤の文字があるのは、はっきりと見て取れた。そのラベルを丈瑠はじっと見つめる。
「あの場所。そしてあの枝垂れ桜が、この銘酒の由縁の………桜でしたか。たまに志葉家に届けられる酒ですが、爺も知りませんでした」
 感慨深そうに言う彦馬に、流ノ介が続ける。
「白澤家は江戸時代から続く武士の家系なのですが、まれにその家名で、この『千年枝垂れ桜』を醸造されることがあるのです。これには、桜の香りが封じ込められているという噂も高く、いつ、どれだけ醸造されるかもわからない酒なので、もちろん世間に出まわることもなく、幻の銘酒と言われているのです」
 丈瑠が眉を寄せた。
「武士の家系で酒造………?」
「白澤家の大元は、江戸時代よりはるかに古い時代に遡り、そちらが酒造に関わっていたとか。江戸時代になって武士と縁組して、そちらの方が表向きになったらしいのです。酒造と言っても、売ることを目的としたものではありませんし、量もわずか。問題にならなかったのでは?」
 流ノ介が答えると、彦馬が感心した。
「ずいぶん詳しいな、流ノ介」
 それに、流ノ介がにこりと笑う。
「新作歌舞伎の題材になったことがありまして、勉強しました!!」
 叫ぶ流ノ介を横に、丈瑠が呟く。
「この枝垂れ桜は白いな」
「は?」
「この絵の枝垂れ桜は白い」
 繰り返す丈瑠に、彦馬も流ノ介もそして千明までもが、欄干に寄ってきてラベルを覗き込んでくる。このため、丈瑠が嫌がって一人後ろに下がった。
「ああ。確かにラベルの絵は白いよな。でも、それが何だよ」
 千明が、一人輪から外れた丈瑠に声を掛ける。丈瑠は散って来る花びらを掌に受けながら答えた。
「今日見た枝垂れ桜は、ピンク色をしていた」
 彦馬が、ああ、と頷く。
「確かに。殿の言われるように、薄いピンク色をしておりましたな。あの枝垂れ桜は………」
「そりゃ単に、白澤家の枝垂れ桜とは言っても、その枝垂れ桜とラベルの枝垂れ桜は、別物だってだけなんじゃないの」
 千明が言うと、丈瑠は花びらを指に摘まんで、空に透かしてみる。
「いや。白澤家の人に聞いた。あの枝垂れ桜こそが、白澤家に代々伝わる樹齢千年の桜だと言っていた。あの桜が、ラベルの枝垂れ桜だろう」
「じゃあ、ラベルの絵をちょっと変えたんじゃないか」
 千明の反論に答えたのは流ノ介だった。
「それは違う。白澤という名前自体が、その枝垂れ桜が白い滝のよう、澤のようだということで付けられたそうだから………白澤家を象徴する枝垂れ桜は白くなくてはならないはず」
 勉強したと言うだけあって、いやに詳しい流ノ介に、皆の注目が集まる。
「………そうなのか?」
「はい」
 問いただす丈瑠に、流ノ介は胸を張って答えた。
「では、かつては白かった枝垂れ桜が、今はピンク色をしている………ということか。でもそれなら、白澤家の人が何か言うはずだが。あの桜の下で話をしたのだし………」
 丈瑠は考え込む。その隙に、流ノ介が花見台から下に飛び降りた。
「殿!!」
 丈瑠の傍に膝を着いて、丈瑠を見上げる。
「何か御心配事でも?今のお話は、外道衆に関することなのですか?それでは、私にも詳しい話を………」
 相変わらず一人で話を進めて行く流ノ介に、丈瑠は首を振る。
「いや、そういうことではない。ちょっと気になったことがあるだけで………」
「さっきの花見の話もかよ!」
 欄干に腰かけた千明が、叫ぶ。
「その、白かピンクか知らねえけど、その下で丈瑠が花見したかどうか………が、何なんだよ!!」
 丈瑠は、眉を寄せて千明を見る。
「丈瑠!!」
 重ねて叫ぶ千明に、丈瑠はため息をついた。
「………もういい。たいした話じゃない。戻る」
 丈瑠は、今度こそ踵を返して、屋敷の方に歩きはじめた。
「あ、おい!!待てよ!丈瑠!!」
 驚いた千明が、丈瑠を呼びとめようとした時
「そうか!!」
 と意味不明の叫びを上げたのは、またもや流ノ介だった。丈瑠は無視して歩いていたが、その丈瑠の傍まで流ノ介はささっと走り寄ると、その場に跪き頭を下げた。
「殿!!わかりました!!」
「………はっ?」
 唐突な流ノ介の言動に、丈瑠はさも嫌そうな顔をした。流ノ介は膝をついたまま、丈瑠を見上げる。
「あの花見の話ですが」
「………どの花見の話しだ?」
 訳が分からないという顔の丈瑠に、流ノ介の方は躊躇いなく答えた。
「それは、もちろん白澤家の枝垂れ桜で、殿が花見をしたか、しないか………です」
 丈瑠が彦馬に尋ねた話であって、流ノ介の知るところであるはずのないこと。それを、何が分かったと言うのか。丈瑠はもうどうでもいいという態度で聞いていたが、流ノ介は至極まじめだった。
「殿が志葉家に入られて以降は、この志葉家の桜の園でしか、殿は花見はなさっていないのです」
「………ああ。さっき爺もそう言っていたな。聞くまでもなかったことか」
 いい加減な対応の丈瑠。しかし、流ノ介はそんなことには、おかまいなしだ。
「でしたら、答えは簡単です!」
 流ノ介はそう言って、嬉しそうに丈瑠を見上げた。
「………はっ??」
 あまりに満面の笑みの流ノ介に見上げられて、機嫌の悪かった丈瑠も一瞬、言葉を失う。
「簡単………って、何が………」
 戸惑う丈瑠に、流ノ介は思う答えを突き付けた。
「殿が白澤家の枝垂れ桜で花見をされた可能性があるのは、殿が志葉家に入れらる前!!それしかありません」






 それは、丈瑠が考えてもみなかったことだ。
「………えっ」
 考えてもみなかったが、あり得るとしたら、確かにそれしかない。それなのに、それを考え付かなかったのは、何故なのか。それは………
 丈瑠は、ぐるりと見回して彦馬の姿を探す。花見台の淵に、千明と共にこちらを見ている彦馬を見つけて、丈瑠は何か言いかける。
「だって………爺が、いた。爺も一緒に………」
 しかし、丈瑠の頭にある映像は鮮明ではあったが、どこか捉えどころがないものだった。それをどう表現していいのかわからない丈瑠は、それ以上、言葉が出ない。丈瑠の不安そうな顔を見た彦馬が、慌てて花見台を下りて、丈瑠の傍に駆け寄って来る。それを丈瑠はただじっと待っていた。
「殿?爺に何か?」
 傍に来た彦馬に、丈瑠は問いかける。
「だけど………爺もいたんだ。あの枝垂れ桜の下で、爺の膝の上に俺はいたんだ」
 丈瑠の言っていることが理解できず、目を瞬くしかない彦馬。
「殿………やはり、お疲れなのでは」
 丈瑠の不安そうな様子に、彦馬は思わず丈瑠を抱きしめそうになる。しかし、傍に千明や流ノ介がいることに気付き、その気持ちを抑え込み、両手を握るに留めた。丈瑠もさすがに流ノ介たちの前で、あまりに情けない姿は曝したくないのだろう。唇を引き結んで、わざとらしくそっぽを向いた。
「殿。とにかく、お部屋に戻られた方がいいでしょう」
 丈瑠を黒子に託して、丈瑠を屋敷の方へと押し出すと、
「あ、おい!ちょっと待てよ!!」
 それに異議を唱えたのは、もちろん千明だった。
 千明が欄干を飛び越えて、こちらに走って来る。その千明と丈瑠の間に彦馬が立った。
「何だよ、爺さん」
 彦馬を避けようとする千明を、彦馬が身体で遮る。
「殿はお疲れなのだ。今日はすまないが、ここまででお開きにしよう」
「あっ!おい!!勝手に決めるなよ!俺、肝心なことを丈瑠に話してないんだよ!」
 桜の木々の向こうに消えようとする丈瑠に、千明が叫ぶ。
「おい!待てよ、丈瑠………」
 と、千明が言い終わらない内に、千明の横をすり抜けて、丈瑠の下に走り寄ったのは、流ノ介だった。
「殿〜〜〜!!」
 大声で丈瑠を呼び止めた流ノ介は、丈瑠の前に跪き、丈瑠に封筒を差し出した。
「ご挨拶もせずに、お伝えし忘れておりました。申し訳ございません!!殿!私、五月の公演で役を頂きました」
 相変わらず、すっ飛ぶ流ノ介の会話。一瞬、理解できなかった丈瑠も、歌舞伎のことと思い当たり、表情が少し和らいだ。
「そう………か。それは、すごいな。まだ復帰したばかりなのに」
 素直に褒めると、流ノ介がそれは嬉しそうな顔をした。
「ありがとうございます。まだまだではありますが、稽古に精進した甲斐がありました。それで、是非、殿と彦馬さんに、観に来て頂けないかと思いまして」
 両手で恭しく差し出される封筒。中には、二人分の招待券が入っているのだろう。一年間、歌舞伎から離れ、ろくな稽古もしていない流ノ介が、復帰してわずか二ヶ月で公演に出る。その間の流ノ介の努力がどれほどのものかが、丈瑠には目に見えるようだった。
「………あっ、ああ。そうか」
 そうは言いつつも、なかなか手が出ない丈瑠。それは、丈瑠が前にもまして、自分に厳しく言い聞かせていることだから。
「あの。如何でしょうか?何か問題でも?」
 その様子に不安になったのか、流ノ介の顔が曇る。
「いや。行けたら………もちろん、行く」
 流ノ介相手に、押し問答はきついと思った丈瑠は、仕方なく封筒を受け取った。それに流ノ介は感激の涙を浮かべる。
「ありがとうございますーーーー!!!この池波流ノ介!!殿にお見せできるよう、より一層の精進をいたしますーーー!!」
 桜の花びらのじゅうたんの上に這いつくばって、丈瑠の言葉に感激する流ノ介。
 なんとも言いようのない顔で、それを丈瑠が見つめた。
 









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2010.05.04