春 愁 1東京都心部に、広大な敷地を構える志葉家。 その周囲は、延々と続く高い塀に囲まれていた。大きな表門も、いつもは堅く閉ざされている。だから、その広い屋敷内がどのようになっているのかを知るのは、志葉屋敷内部の者、志葉家の家臣たちだけに限られていた。 その家臣たちですら、訪れることのあまりない志葉屋敷の奥庭に位置する桜の園。そこでは、桜こそ散ったものの、今を盛りとばかりに多くの花が咲き誇っていた。それは楽園さながらの様相で、人が来ないが故に、鳥や昆虫たちにとっては本当の楽園になっていた。 さて、その桜の園のさらに奥。竹林を過ぎ、小川を越えた向こう。黒子ですらめったにやって来ない場所に、それは建っていた。そこに向かっていてすら、注意して歩いていないと見落として通り過ぎてしまうような、木々の影にひっそりと佇む小さな茅葺きの茶室。なにやら秘密めいた雰囲気の漂う場所に建ってはいたが、定期的な手入れと清掃はされているので、荒れた様子はない。 春の物憂げな雰囲気が似合う、のどかな茶室。しかしこの茶室は、志葉家の歴史の一端を見てきた茶室でもあった。ここが頻繁に使われるようになる時。それは、志葉家が大きな転機を迎えた時を意味する。 人々に忘れられたかのように、誰が訪れることもないその茶室。しかし誰に忘れられようとも、そんなこととは関係なく季節は巡る。その軒先に差す陽射しも、日を追うごとに強く明るくなっていた。そして陽射しが強くなればなるほど、当然のように、その影も濃さを増す。 遅い春は、今確実に、鮮やかな初夏に取って替わろうとしていた。だが今暫し、春を惜しむかのように、この茶室の周囲にだけは、まだ春の余韻が残っていた。 その日も四月の終わりとは言え、朝からとても暑い日で、気象庁は夏日になることを予報していた。 しかし、志葉屋敷内の鬱蒼と茂る竹林や小川、湧水による大きな池などを渡って来る風は、ここが東京とは思えぬほどに冷んやりとして、心地良い。 そんな涼しい風は、志葉家の本屋敷にも吹き抜ける。 志葉家の本屋敷も、時が止まったかのような古い家屋敷ではあったが、手入れの行き届いたそれは、暮らす者には何の不便も感じさせなかった。 志葉家十九代目当主である志葉丈瑠の居室は、もちろん、歴代の志葉家当主に与えられてきた、屋敷の中でも最上の部屋だ。それは、広い屋敷内の最も奥まった、複雑な構造の部分にあった。 何故、そんな場所にあるのかと言えば、それは、いくら志葉の屋敷がモヂカラにより守られているにしろ、もしもの時に、志葉の当主が敵の不意打ち遭わないようにとの配慮からだった。 しかし志葉の十九代の当主のうち、いまだかつてそのような目に遭った当主はいない。志葉の当主は何時の世でも、家臣の誰よりも先頭に立って闘いに赴いていたのだから。 それでも、丈瑠がまだ幼くて、とても闘うことができる状態ではない時期には、この構造は、丈瑠を守りつつ育てていた彦馬や黒子たちを、少しは安心させたものだった。 複雑な構造はしていても、やはり涼しい風が吹き抜けるそこは、とても気持ちの良い部屋だった。 丈瑠は、そんな自分の居室で、今日も朝から書道の稽古に余念がなかった。 志葉の当主は、剣の稽古ももちろんだが、モヂカラの稽古も疎かにすることはできない。丈瑠は剣の稽古以上に、モヂカラの稽古に力を注いでいた。そして、その一貫として書の稽古も欠かさない。それは、泣きながら彦馬に教わっていた幼い頃からの変わらぬ習慣だった。 それに丈瑠は、硯に向かって静かに墨をすっていると、自然と気持ちが整ってくるような気がするのだ。 何を考えるでもなく、ただ無心に墨をする。そして筆を取り、そっと墨の中に入れる。丁度良く墨をつけたら、紙に向かう。息を潜めて、紙に筆を下ろす時の感覚。その少しだけ張りつめた、胸が高鳴る瞬間も、丈瑠は好きだった。 それはどこか、剣を構えた時の感覚に似ているような気がする。丈瑠はそう思っていた。背筋が伸びて、ただ目の前のものに集中する。そんな時間を、丈瑠はとても大切に思っていた。 無心に書の稽古をする丈瑠。 そんな丈瑠を、彦馬は廊下の影から見つめる。 剣の稽古にも増して、丈瑠の書の稽古の時は、邪魔をしないように気を使う彦馬だった。 「日下部様」 そんな彦馬の背中に、潜めた声が掛かる。振り向けば、そこには黒子がひとり控えていた。彦馬は頷くと、その黒子と共に丈瑠の居室をそっと離れた。 彦馬は黒子と共に庭に降りると、庭の奥へと向かう道を歩み始めた。 途中にある大きな池のほとりに差しかかり、菖蒲と花菖蒲の群生を目にした彦馬は、そこで足を止めた。花菖蒲を見ていると、どうしようもなく思い出されてくることが、いくつもあった。四月の終わりから五月にかけての、一年でも最も美しいこの季節は、彦馬にとっては、忘れらない出来事が多かった季節でもあるのだ。 最も記憶に新しい、その出来事と言えば……… 「丁度、去年の今頃であったかな」 彦馬は、再び奥庭に続く細道へと足を進めながら、後ろの黒子に話しかけた。 「殿が屋敷を出られたのは………」 黒子が俯いていた顔を上げた。 丈瑠のことを、彦馬が黒子にこんな風に話すのは珍しい。いや、皆無に近い。 「………あの時は、侍たちが居る手前、大騒ぎをして殿をお探しする訳にもいかず、な」 それでも黒子に話し続ける彦馬。 これは、何を意味しているのだろうか。 黒子は、彦馬に特命を受けた以降、ずっと感じていた嫌な予感が、胸の中で大きくなって行くのを止められなかった。 一方、薫る風に頬を撫でられた彦馬の脳裏には、一年前の忘れられない情景が蘇ってきてしまうのだった。 丁度、一年前。 丈瑠と侍たちが、やっとシンケンジャーとしての形を成して闘うことができるようになってきた頃。 突然、外道衆は、シンケンレッドであり志葉の当主である丈瑠だけを狙い始めた。そして声だけとはいえ、外道衆の総大将であり、志葉家の宿敵でもある血祭ドウコクが、その正体をシンケンジャーの前に現した。そのドウコクの志葉家への恨みの念が、不気味な声が、シンケンジャーたちの闘いの場を包み込む。 これは、ドウコクが志葉家の封印の秘密を知ったことにより、志葉家当主に的を絞って闘いを仕掛けてきたことによるものだった。 今まで、なんとなくナナシやアヤカシといった妖怪じみた外道衆と闘ってきた侍たち。そんな彼らが、自分たちの本当の敵が誰であるかを思い知った瞬間でもあった。 「封印の文字が使えるのは志葉家の者のみ。その封印の文字でしか、ドウコクを封じることはできない」 彦馬が告げた、今まで秘されていた事実に、 「志葉家当主である殿こそが、打倒外道衆、打倒ドウコクの切り札。殿を守ることこそが、この世を守ること!」 と目的が明確になり、想いを新たにする侍たち。 そんな彼らを前にして、丈瑠がどのような思いでいたことか。 シンケンジャー結集からこちら。 丈瑠の周囲の変化はあまりに目まぐるしく、その中で丈瑠は、無理に無理を重ねていた。 初めて出会った様々な思いを抱いている侍たちに、丈瑠がまずさせなければならなかったのは、外道衆との闘いは、死の可能性もある後戻り不可能な闘いだと言う認識と覚悟だ。それから、せめて戦闘中だけでも良いから、全員が意志を統一し、同じ目的に向かう必要性も、彼らの身に叩きこまなければならなかった。しかし今まで戦闘とは無縁の世界で、自由気ままに育ってきた者、一般的な倫理観の中で生きてきた者には、闘うことのみを教えられて来た丈瑠の思想も行動も、簡単には受け入れられなかったようだ。 そして、もうひとつの課題。侍たちの、剣にしろモヂカラにしろ、心構えにしろ、そのあまりの格差だ。丈瑠独りなら簡単に終わる闘いも、実力差がある侍たちと協力してやろうとすると、何倍もの時間と労力が必要になった。時に彼らの未熟さのために、あるいは自分勝手な行動を取られることにより、戦闘時の危険度が増してしまうこともあった。 横で見ている彦馬ですら、そんな侍たちに呆れ果て、匙を投げたい気分になることがしばしばあったのだ。だから、まだ若い丈瑠が、侍たちとの共闘を投げ出したくなったことも、一度や二度ではなかっただろう。 それでも丈瑠が、侍たちと闘い続けたのは、侍たちの実力を引き上げ、彼らを真のシンケンジャーにすること、それが自分に課されたもうひとつの役目………と、自分自身に、無理やり納得させていたからだ。 けれど、シンケンジャーの使命も責任も理解していない相手に、『真のシンケンジャー』になるという、その意味を理解させるのは困難を極めた。 一方、丈瑠自身の実力の向上という点でも、変化があった。未熟な侍たちを率いるためには、独りで闘う時よりも、もっと、圧倒的に、強くならねばならなかったのだ。侍たちの士気を下げないためにも、急激に上達をしていく侍たちを率いるためにも、丈瑠は人知れず、どれほどの無理な稽古を重ねていたことだろう。 思うにあの頃、シンケンジャーが形を成し始めたのと相反して、丈瑠自身はひとつの限界を迎えていたのかも知れない。 そこまで辛い思いをしても、丈瑠は文句も言わず、ひたすら稽古に励み、闘い続けた。 それは丈瑠が、彦馬に教え込まれて来た使命と責任感を強く感じ、それこそが己の存在意義と信じていたからだ。それだけが、あの頃の、無理を続ける丈瑠を支えるものだったのかも知れない。 けれど彦馬が封印の文字の話を侍たちにした時、丈瑠は、改めて思い知ったのだ。自分は、志葉家当主ではあり得ない。その資格を持っていないのだ、と。 丈瑠は、志葉家当主が使えるはずの「封印の文字」を使うことはおろか、志葉家に代々伝えられてきた封印の文字がどんなものなのかすらも、知らなかった。つまり、丈瑠は、打倒ドウコクの切り札に、絶対に成り得ないのだ。 そんな者が、志葉家の大事な家臣であるシンケンジャーの侍たちを率いていていいのか。 「丈瑠を守ることこそが、この世を守ること!」 と信じて疑わない彼らは、これからも、丈瑠を守るために、丈瑠の盾となり傷ついていくだろうに。 シンケンジャーの正当な後継者。 長き歴史と血の宿命を背負い闘う侍たち。 そんな彼らが、侍の血も持たない、本当は切り札にもなり得ない自分の盾になって良い道理がない。そんなことをさせるのは、どう考えても本末転倒だ。 きっと丈瑠は、彦馬にそう言いたかったことだろう。 実際、思いつめた顔が、泣きそうな瞳が、彦馬に向けられたことは、何度もあった。思い余った言葉が、片言出てしまうこともあった。それでも丈瑠は、耐え続けていた。そんな丈瑠の、あまりに辛そうな様子に、むしろ彦馬の方が耐えきれず、侍たちが寝静まった夜に丈瑠の居室で、こんこんと諭したこともある。 「世のため。人々を守るため。志葉家十八代目を、今、背負うことができるのは、殿しかおられないのですぞ」 しかし彦馬の中にも迷いはあった。彦馬自身が、自分の言葉に心の底では、どこか納得できていなかった。だから彦馬のその言葉は、丈瑠の胸の内にも、ただ虚しく響いていただけに違いないのだ。 昨年のあの日。 丈瑠は、そんな溢れ出る感情に整理がつかないままに、戦闘に赴いた。 そしてそこで、丈瑠が怖れていたことが、現実となる。丈瑠を庇って、敵の前に倒れた流ノ介とことは。 先に帰宅した黒子から連絡を貰った彦馬は、まずは、流ノ介やことはの怪我への対応準備に追われた。しかし、その指示を出しつつも、彦馬の心は丈瑠のことでいっぱいだった。流ノ介とことはの、時間が癒やしてくれるであろう身体の傷よりも、丈瑠が負ったであろう心の傷の方が、心配でならなかった。何故なら、その時、丈瑠の心の傷が癒える予定は、なかったのだから。丈瑠の傷は癒えないまま、むしろ、これからますます丈瑠は追い詰められて、その傷が深くなっていくことが予想された。 もちろん彦馬は、どこまでも丈瑠を守り、言葉を尽くして丈瑠を励まし、慰めもするつもりだった。しかし、それではもう、丈瑠を救うことはできないことに、彦馬は気付いていた。 そして予想通り、戦闘から帰還した丈瑠の様子はおかしかった。 流ノ介とことはの怪我の手当てに付き添うでもなく、立ち去るわけでもなく、ただ立ちつくす丈瑠。しかし、放心状態と言うのでもなかった。ただ、彦馬が戦闘状況を尋ねても、思いつめた顔の丈瑠は、彦馬の質問にまともな返事ができなかった。 そんな丈瑠に代わって、茉子が状況を説明してくれる。それをぼんやりと見つめている丈瑠。茉子に対応しつつも、横に立つ丈瑠が気になって仕方ない彦馬だった。 あの時。 丈瑠の気持ちが痛いほどに判る彦馬には、丈瑠にどのような言葉を掛けていいのかわからなかった。真実を侍たちに話してはならぬと丈瑠を縛り、けれど、その重みに丈瑠が潰されそうになっても、丈瑠が望む助けを差し伸べることもできない。 そんな自分がどれほど恨めしかったことか。それでも、ドウコクに志葉家の封印の秘密が知れたばかりのあの時は、その姿勢を貫かねばならなかったのだ。 志葉家を守るために。丈瑠のためではなく、志葉家のため、ただ、そのためだけに。 今思いだすだけでも、胸が苦しくなって来る。 あの時の、丈瑠の胸の内を想像するだけでも……… 彦馬が深いため息をつくと、その背中に黒子の声が掛かった。 「あの夜。日下部様は、御座敷の殿の御座の前にお座りになられたまま、一睡もできずに夜明かしされましたな」 普段は喋ることの殆どない黒子。その黒子の言葉に、彦馬は苦笑いをする。 丈瑠を志葉家に迎えて以来、あれほどに苦しかった夜は、丈瑠が影武者と知れて、志葉屋敷を出て行ってしまった時以外にはない。 丈瑠が志葉家当主として立派に育てば育つほど、これほどに苦しい想いをすることになろうとは。そんなことは、幼い丈瑠を必死に育てていた頃には、思ってもみなかったことだ。 「あの時は、私たちの方がやきもきしてしまいました。何故、日下部様は、殿を探す大捜索隊を組ませないのだ、と………」 これは初耳とばかりに、彦馬は思わず、後ろを振り向いてしまう。それに黒子がそっと微笑んだ。 「けれど日下部様が、殿を信じてじっと待たれるお姿に、皆も理解しました」 それに彦馬が、僅かに顔を曇らせる。そんな彦馬の表情を見つめながら、黒子は続けた。 「日下部様が十七年の長きにわたり、志葉家のためにどれほどの我慢に我慢を重ねて、殿をお育てになっていたのか………」 思わず彦馬の足が止まった。いつになく饒舌な黒子の言葉をどう受け取っていいのか、彦馬は戸惑う。 「………我慢?わしは我慢などしてはおらぬが………」 「されておられましたでしょう」 しかし黒子は、彦馬の言葉を静かに否定した。 「日下部様が、本当は殿を………どうお育てになりたかったのか。昔から志葉家に仕えている者で、知らぬ者はおりません」 目を見張る彦馬に、黒子は深く頷いた。 「皆、理解しております。………もちろん、私が知らない間のことではありますが、私にも想像はつきます」 暫く足を止めていた彦馬。 しかし、改めて前を向き、再び、庭のさらなる奥へと足を進めた。辺りは竹林が鬱蒼と茂り、涼しい風が吹いている。その中を進みながら、呟く。 「あれから………殿が屋敷を出られたあの日から………まだ一年しか経っておらんのか。もう随分と時が経ったような気がするのにな」 「………そうですね。いろいろありましたから」 黒子のしみじみとした言葉は、彦馬の胸の想いと同じだ。 「………ああ」 彦馬は、さらに奥へと進んでいく。 「本当に、いろいろあった。ありすぎた………」 やがて、目の前が僅かばかり開けて明るくなった。そこは、志葉家内を流れる小川の、また支流のほんの小さな流れがある場所だった。その流れの横に、小さな茶室が見えてくる。 それを見た黒子の顔が僅かに緊張した。 「日下部様。ここは先々代………十七代目ご当主の時に………」 彦馬は頷く。 「ここなら………何を話しても大丈夫だ。全てはここから………始まったのだから………な」 小説 次話 2010.07.24 |