春 愁  2





 丈瑠の居室。
 その目の前の庭では、鯉のぼりが気持ち良さそうに泳いでいる。
 庭に通じるガラス戸も障子も、全て開け放たれた丈瑠の部屋は明るく、静かな部屋だった。
 そこで机に向かっていた丈瑠は、息を潜めて、今まさに、紙に筆を下ろそうとしていた。






「殿ーーーー!!」
 その時、丈瑠の耳をつんざくような叫びが、静かな奥屋敷に響き渡った。
「大変ですーーー!!殿ーーー!」
 叫びと同時に、廊下をバタバタと走って来る、騒がしい音。
 丈瑠は、紙の上に無残に残された墨の後を横目にしながらも、瞬時に筆を放り出し
「………何事!?」
 言うが早いか、立ち上がる。そして変身するために、ショドウフォンを空中に構えた。
 そこに飛び込んできたのは、先ほどの声の主。
「殿!!」
「………えっ!?」
 空中に字を書こうとした、丈瑠の手が止まる。
 丈瑠の居室の前の廊下に駆けこんできたのは、池波流ノ介だった。どこから走ってきたものか、ぜいぜいと息も荒く、柱に手をついて俯く。
「流ノ介!?………どうして、ここに………!?」

 普通であれば、流ノ介が丈瑠の居室まで来ることはない。志葉家の家臣の侍であろうとも、彦馬や黒子以外は、丈瑠の居室のある奥屋敷に立ち入ってはならない、というのが志葉家の不文律だ。
 たまに源太や、源太を追ってきた茉子がその禁を破ったり、ドウコクの攻撃に倒れた丈瑠をことはが見舞った時など、ごくごく稀に入ることはあったが、それでも概ね、その不文律は守られていたはずだ。
 そして、一年間同じ屋敷内で暮らしていたにも関わらず、厳しい躾を受けてきた流ノ介や、意外と一番常識を持っているのかも知れない千明は、丈瑠のプライベートエリアに踏み込んだことは、殆どなかった。
 さらに、そもそも流ノ介が何故、今、志葉屋敷にいるのか!?流ノ介は、目前にした歌舞伎の舞台の稽古で忙しいはずでは………!?

 数多の疑問が頭をめぐる丈瑠。しかし、その丈瑠の質問に答えることなく、流ノ介は顔を上げた。
「殿!!一大事です!!」
 再び、丈瑠の全身に緊張が走る。次の言葉を固唾の飲んで見守る丈瑠。その丈瑠に流ノ介が、再び叫んだ。
「行き倒れです!!」

「………はっ?」
 一瞬の間の後、丈瑠が問い返す。
「………行き、倒れ?」
 それに流ノ介が頷いた。思わずむっとする丈瑠。
「それのどこが、一大事だ!?」
「志葉家の御門前に行き倒れですから、一大事です!!」
 文句を言う丈瑠に、流ノ介がそう言って、丈瑠の腕を取る。
「とにかくいらして下さい。御座敷に運んでおきましたから」
 その時、丈瑠の顔が急に険しくなった。
「………座敷?座敷に行き倒れを運んだというのか!?そんなどこの誰ともわからないような奴を!?」
 丈瑠の周囲の空気が張り詰める。
「座敷………とは、どこのことだ!?」
 しかし流ノ介は、それを意にも介さない。
「それはもちろん、いつもの御座敷で………」
「………あの鎧がある奥座敷か!?」
「え、ええ。もちろん………」
 その瞬間、丈瑠は流ノ介に取られていた腕を振りほどいた。呆気にとられた流ノ介が振り返ると、丈瑠の目は冷たく光っていた。
「………爺は?爺が、それを許可したのか」
 決して大きな声でも、怒鳴っている訳でもなかったが、その声には言い様のない威圧感が込められていた。
 流ノ介は思わず後ずさりをしながら、小さく首を振る。それに丈瑠の顔が、また一段と険しくなった。
「爺はどうした!?」
「ひ、彦馬さんは………」
 口ごもる流ノ介を、丈瑠が射殺しそうなほど鋭い目で睨みつける。
「彦馬さんは………大事な用事とかで………いらっしゃらなくて。ですから私が殿に………」
 その瞬間、丈瑠の顔色がさっと変わった。
「………いない?」
 丈瑠が流ノ介に詰め寄る。
「爺がいない………だと?」
「は、は………あ」
 しどろもどろに答える流ノ介を前に、丈瑠が唇を噛みしめた。そして、横を向く。それきり黙って何かを考え込む丈瑠。
「あ、あの………」
 やがて流ノ介が声を掛けると、はっとしたように丈瑠が流ノ介を振りかえった。
「殿………」
 うな垂れる流ノ介を見ても、丈瑠の不機嫌そうな顔は変わらなかった。それでも、流ノ介に何か言わねばと思ったのか
「爺がいないなんて………俺は聞いていない!朝はいた!」
 丈瑠はそれだけ言うと、流ノ介の先に立って、廊下を表屋敷の方へと歩き出した。






 丈瑠は、いつになく乱暴な足取りで奥屋敷を抜ける廊下を進み、表屋敷との間にある中屋敷に入る。廊下を渡る時に、爽やかな風が丈瑠の頬を撫でたが、そんなもので丈瑠の気は鎮まらなかった。

 正体の知れない者を、シンケンジャーの作戦室と言ってもいい奥座敷にまで入れてしまう流ノ介。そして、そんなことが許されてしまったのは、そもそも彦馬がいなかったせいだ。常に志葉屋敷にいて、志葉家を切り盛りするだけでなく、志葉家を守ってくれている彦馬。その彦馬が、丈瑠に何も告げずに、家を空けるなど考えられない。
 まずは、その行き倒れとやらをどうにかして、それから彦馬がどこに行ったのか黒子に問いただして………優先順位としてはそうしなければならないのだろうが、丈瑠の頭は、彦馬のことでいっぱいだった。
『何故、爺がいない!?俺に黙ってどこに行ったと言うんだ!?』
 本当は、そう叫びだしたいくらいの丈瑠だった。このところ、彦馬の姿が見えないと、不安で仕方ない丈瑠なのだ。

 そんな苛立つ丈瑠の後ろに、流ノ介が続く。ぴりぴりした空気を振りまく二人を、そこここの影から黒子が怖ろしげに見ていた。黒子たちは知っていたから。何も知らない丈瑠が奥座敷に行けば、そこでまた怒りが増すであろうことを。

 奥座敷と言う名前ではあったが、その座敷があるエリアは、志葉家の公の場である表屋敷、丈瑠のプライベートエリアである奥屋敷、その中間にある中屋敷に位置していた。広い屋敷内を巡り、かつてシンケンジャーの侍たちが集まっていた奥座敷の前まで来た丈瑠は、そこで呆気にとられた。


 丈瑠は、自分の後ろに立つ流ノ介を振りかえった。
「流ノ介。これは、何だ?」
 そう言って、奥座敷の中央を指差す。
「あれは、あそこで何をしている?」
 それに流ノ介は、苦笑いをするしかない。しかし丈瑠はそんなものには、騙されなかった。
「こういう支度をしろと、誰が黒子に指示した!!流ノ介、お前か!?」

 奥座敷の中央に座っていたのは、どこからどう見ても千明だった。
 それなりにおしゃれで、洋服にも気を使っているはずの千明が、薄汚く見え、髪もボサボサだった。その上、何か臭うような気までしたが、とにかく谷千明に間違いはなかった。
 そして千明の前には、食事の膳がいくつも並んでいた。ひとつにはおにぎりが山盛り。他には唐揚げやハンバーグに焼き魚、そして煮物にサラダ………。当の千明は、おにぎりを片手に持って頬張り、右手には箸に突き刺した唐揚げ、合間合間に味噌汁をかき込んでいた。そんな千明の前に黒子が一人座り、千明の食事の世話をしている。

「えーーー!ごほん」
 流ノ介が咳払いをした。
 それでやっと、食事をむさぼっていた千明も、丈瑠と流ノ介に気付く。険しい形相で千明を睨む丈瑠に、千明がびくりと身体を震わせて、食事の手を止めた。それを見た流ノ介が、小さく手を振って食事を続けろと千明に合図する。丈瑠がそれに気付いて流ノ介を睨むと、千明はそんな二人に殊勝にも、小さく頭を下げて、再び食事を始めた。
「流ノ介!?」
 怒りをあらわにする丈瑠。
「えー、殿!それで、ですね。あれが、志葉家の御門前で発見されました行き倒れでして………」
 丈瑠の冷たい目に一瞥されて、流ノ介はそこで口ごもった。
「この行き倒れ、二日ほど何も食べていない………とのことでしたので、僭越とは思いましたが、私が黒子さんたちに指示………というよりお願いを致しまして、食事の用意をして頂きました」
 丈瑠は唇を尖らせて、流ノ介を睨んだ。暫くそうして睨みあう二人。やがて、こんな二人の横では、まともに食事も喉を通らないと思ったのか、千明が箸やおにぎりなど、持っていたものを全て膳に置いた。そして俯き気味に、黒子の差し出したお茶を一口飲む。そんな千明の様子を、丈瑠は顎を上げて見下ろす。
 千明は俯いたまま膳の前から立ちあがり、丈瑠の前までやって来た。と思う間もなく、千明がそこにがばっと平伏した。
「悪い、丈瑠!流ノ介は、関係ないんだ」
 そこまでは、はっきりとした声で言った千明だった。しかしその後は、
「お、俺………ちょっと、いろいろあって………金も底ついちゃって………。頼みにする相手っつったら、やっぱ………その………志葉家しか思いつかなくて………でも、電車賃もないからここまで歩いて来たんだけど、門の所にいた黒子ちゃん見た途端にほっとしたみたいで、何か訳わかんなくなっちゃって」
 頭を下げたまま、ぼそぼそと呟く千明。
「………志葉家?」
 千明が、頼みにする相手として『丈瑠』ではなく『志葉家』と言ったことに、微かな疑問を感じる丈瑠。しかし、何か事情がありそうなことは、一目でわかる。その上、侍である千明にこうまでされては、丈瑠も許さない訳にはいかない。
 丈瑠は足元に伏している千明を暫し見つめていたが、やがて大きなため息をついた。横で流ノ介が心配そうな顔をしている。丈瑠はそんな流ノ介をちらりと見てから、いつの間にか丈瑠の後ろに控えていた黒子を振りかえる。
「風呂を沸かしておいてくれ」
 黒子が少し驚いたように顔を上げた。そこで丈瑠は肩をすくめる。
「俺のじゃない。千明を入れる方の………表屋敷の、こいつらが屋敷にいた時に使っていた棟の風呂………そこを用意しておいてくれ。ああ………」
 そこで丈瑠は、もう一度千明を見つめる。それから眉を寄せた。
「服も………か。着替えも用意してやってくれ。なければ、俺のでもいいが………サイズが合わないか。道着と袴でもいい」
 それに黒子は嬉しそうに頷くと、すぐにその場を立ち去った。
「千明」
 丈瑠は、黒子の後ろ姿を見送りながら、声を掛けた。千明が頭を上げたところで、丈瑠も千明を振りかえる。
「とにかく食事を済ませて、それから風呂に入って、その臭いのをなんとかしろ」
 丈瑠は鼻をふんと鳴らす。
「それから、ちゃんと説明しろ」
 丈瑠は、今度は流ノ介を振りかえった。
「流ノ介、お前もだ」
「えっ?」
「お前も説明しろ。自分のことを、な」
 流ノ介の頬がぴくりと動いた。けれど流ノ介は、すぐに涼しい顔を装う。それをまた丈瑠が睨んだ。
「俺は部屋にいるから、説明できるようになったら、呼びに来るように」
 丈瑠は、千明の食事の世話をしていた黒子にそう伝えると、廊下をまた戻り始めた。流ノ介と千明、そして黒子が嬉しそうに顔を見合せた時、廊下を歩んでいた丈瑠が、背中を向けたまま呟く。
「ああ、千明。俺への説明が終わる前に、間違っても、寝たりするなよ」
 それは、見るからに憔悴している千明を気遣っての言葉。つまり、説明したら、志葉屋敷で休んでもいいとのお許しだった。それだけを言うと、廊下の角に姿を消す丈瑠。
 丈瑠がいなくなった部屋で、流ノ介、千明、黒子が微笑みあった。






 居室に戻る途中。
 丈瑠は渡り廊下で足を止める。
 そこからは、庭が見渡せた。大きな池も見える。池の前には菖蒲と花菖蒲の群生。

「………爺は」
 そこで丈瑠は、彦馬がいないことを思い出した。
 先ほどまでは、あれほど彦馬がいないことに気を取られていたと言うのに、千明のことで、すっかり頭から抜けてしまったのだ。しかし思い出せば、すぐに心は重く沈んでいく。
 丈瑠は急いで、表屋敷の方に戻った。そして黒子の控えの間に行く。黒子たちが驚いた顔で、立ち上がった。それを丈瑠は手を上げて制止をする。
「爺はどこに出掛けた?何時戻る?」
 丈瑠の問いに、黒子たちは顔を見合わせた。その奇妙な様子に、丈瑠は眉を寄せた。
「………爺は」
 言いかけた丈瑠に、黒子たちが首を振る。
「………えっ?屋敷内にいるはず?」
 黒子の返答に、ある意味、胸をなでおろす丈瑠だったが、それでは彦馬はどこにいるというのか?流ノ介があれだけ大騒ぎをして、奥屋敷にまで足を踏み入れていると言うのに、彦馬が出てこないのは、あまりにおかしくないか?
 丈瑠の疑問に、黒子はすまなそうに応えた。
「大事な打ち合わせ?だから………声を掛けるな?」
 そう言い置いて、姿を消した彦馬。屋敷内から出てはいないのだろうが、この広い屋敷内のどこで打ち合わせをしているものやら。誰も知らないと言う。
「そう………か」
 丈瑠はそう呟くと、再び、奥屋敷に向かって歩きはじめた。しかし、やはり彦馬のことが気になって仕方がない。丈瑠は居室まで戻り、その前の廊下から庭を見た。
 見上げれば、そこには青い空を泳ぐ鯉のぼり。
 鯉のぼりは、丈瑠にも様々な過去を思い出させる。志葉の当主をどんなことがあっても背負って行くと、亡き父と約束をしたのも、鯉のぼりの下だった。そして、生まれ育った家を出て、彦馬と共に志葉家にやって来た日も、鯉のぼりは青い空を悠々と泳いでいた。










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2010.07.28