春 愁  3





 彦馬に連れられて、丈瑠が志葉家に入るために、志葉屋敷にやって来たあの日。
 丈瑠は、十七年前を思い出す。はるか昔のことではあったが、丈瑠が『志葉丈瑠』としての歩みを始めたその日のことを、丈瑠が忘れるはずもなかった。

 あの頃の志葉家は、迫りくる血祭ドウコクとの決戦に備えて、門の外までものものしい警戒をしていた。門は堅く閉ざされ、その前に立つ黒子たちも緊張感に強張っていた。志葉屋敷全体がピリピリとした空気に包まれていたのだ。
 だから志葉家にやって来た幼い丈瑠は、まず志葉屋敷の門のところで、その雰囲気に臆してしまった。それでも、付き添ってくれている彦馬の指を握りしめながら、泣きそうな気持ちを必死に堪える丈瑠。門をくぐり玄関を抜け、表屋敷から薄暗い廊下を延々と歩いて、丈瑠は奥屋敷までやって来た。
「こちらが、丈瑠様のお部屋になります」
 そう言って見せられた部屋。しかしそこは、安全のために障子も襖も締め切られた閉鎖的で暗い部屋だった。廊下に立った丈瑠から見たその部屋は、空気が淀んでいて、如何にも何かが出てきそうな部屋に思えた。丈瑠は恐怖のあまり、足を踏み出すことができなくなり、廊下に立ち竦んでしまう。
 丈瑠の後ろに寄り添うようにしてついてきた彦馬は、その時、丈瑠の小さな肩が微かに震えだしたのに気付いた。気丈に振舞ってはいても、幼い丈瑠はもう限界だろう。そう見た彦馬は、丈瑠の先に立って部屋に入ると、当時、安全のために禁止されていたにも関わらず、黒子に命じて、障子も襖も、縁側から外に通じるガラス戸も、全てを大きく開けさせた。暗かった部屋が、いきなり別の部屋になったかのように明るくなり、涼やかな空気が流れだす。ドウコクへの警戒から重々しい空気が漂っていた屋敷だったが、全てを開放することにより、少なくとも丈瑠の部屋となるそこだけは、明るい雰囲気に包まれた。
 部屋の雰囲気が一変した所で、彦馬は廊下に立ったままの丈瑠を抱き上げて、部屋に入る。そしてそのまま部屋を抜けて、眩しい光に溢れる縁側まで丈瑠を連れて行った。彦馬は、丈瑠を抱いたまま縁側に立ち、真っ青な空を指差した。
 そこには、丈瑠が今まで見たこともないほど、大きくて立派な鯉のぼりが、青い空を背景に何匹も泳いでいた。






 彦馬は、その中の一番小さな一匹を指差す。
「あれが、あの一番小さな鯉のぼりが、丈瑠さまの鯉のぼりですぞ」
 それは確かに、そこで泳いでいる鯉のぼりの中では一番小さかった。しかしそれは、丈瑠の生まれた家で泳いでいた一番大きな鯉のぼりと同じくらいの大きさでもあった。
 彦馬は、さらに
「今は一番小さな鯉ですが、いつか丈瑠さまは志葉家の鯉のぼりの中で一番大きな、あちらの鯉に」
 そう言うと、鯉のぼりの一番上を泳いでいる、見たこともないほどに大きくて黒々と力強く、金や銀の飾りがたくさんついた立派な鯉を指差した。
「志葉家十八代目当主、この爺の殿になられるのですぞ」
 ここのところ、何度も父親に言われていた言葉。でも丈瑠はそれを理解できていた訳ではなかった。だから、あんなに大きくて立派な鯉のぼりになると言われて、丈瑠は驚き、目を丸くする。彦馬はそんな丈瑠に笑いかけると、今度は腕を伸ばして、彦馬の頭上よりもさらに高く丈瑠を抱き上げた。丈瑠の身体が青い空に浮いたようになり、大きな鯉のぼりにも近付く。
 暗い部屋の中とは異なり、真っ青な広い空、開放的な広い庭、その向こうに広がる森、それらが丈瑠を包み込む。そして丈瑠を支えるのは、父のものよりもずっと力強い、彦馬の優しい腕だった。
「どうです、広いでしょう。今日からここが丈瑠様のお家。丈瑠様の帰られる場所。今日から丈瑠様のおられる場所は、ここだけになったのです」
 そう言って、丈瑠にぐるりと庭を見渡せさせる。それは美しくも眩しい光景だった。
「丈瑠さまは、この爺と共に、この志葉のお屋敷で暮らすのです。これからずっと………」
 丈瑠は高く抱かれたまま、微かに首を傾げた。
「………ずっと?」
 彦馬は頷く。そして腕を下ろして、丈瑠を胸に抱き止める。
「ずっと、です」
 丈瑠は、目をぱちくりさせる。
「………ずっと?ずっとなの?」
 いつか、生まれた家に帰れるものと思っている、幼い丈瑠。まさか、もう二度と、今朝までいた家に帰れないとは知らない丈瑠。そんな丈瑠の繰り返される言葉に、彦馬の胸が痛んだ。
「そう。ずっとです」
 それでも彦馬はそう告げねばならなかった。
 もう戦局は、後戻りはできないところまで来てしまっている。丈瑠は志葉丈瑠となり、遠くない日に志葉の当主として立たねばならないことは、自明の理だった。
「ずっと、ずっとです」
 その時、丈瑠を抱く彦馬の胸に思わず込みあげて来たものは、十七代目当主への思いでは既になく、丈瑠への感情だった。
「………殿」
 丈瑠を抱きしめる彦馬。その時
「………爺もずっと一緒?」
 耳元で無邪気に聞こえた声。彦馬は目を見開き、丈瑠を顔の前に抱きなおす。
「ずっとずっと、爺も一緒なの?」
 つぶらな瞳で彦馬を見つめながら、繰り返し聞いてくる丈瑠。もちろんと言うように彦馬が大きく頷くと、その瞬間、緊張に堅くなっていた丈瑠がふわりと微笑んだ。
「爺も一緒なら、ずっとこのお家にいる」
 そう言って丈瑠は、彦馬の首にしがみついた。途端に、彦馬の胸につかえていたものが、取れたような気がした。彦馬もほっとしたように息をつく。そして、顔を綻ばせると共に、横に控える黒子とそっと視線を交わした。

 丈瑠の細い腕がしがみついた、彦馬の太い首。丈瑠を抱き止める彦馬の大きな胸。力強い腕。その暖かさに包まれながら安心しきって見た、青い空。そこを泳ぐ鯉のぼり。
 それらは、もしかしたら丈瑠の原風景なのかも知れない。
 志葉の屋敷は、日本家屋にありがちな薄暗さを持っている。更には、悲愴で凄惨な外道衆との闘いがあった場所でもある。それにも関わらず、丈瑠にとって志葉屋敷は、暗いイメージの場所ではない。むしろ志葉屋敷は、丈瑠にとって安心できる場所であり、帰る場所であった。そして、鮮やかで開放的な青い空と結びついているような気すらする。それは丈瑠の中に、この記憶、この原風景があるからなのだろうか。

 それから毎年、この鯉のぼりの下、縁側に彦馬と並んで座って、丈瑠は柏餅、草もちやチマキを食べた。柏の葉にしても草もちのヨモギにしても、それは丈瑠が彦馬や黒子と一緒に志葉屋敷の庭や薬園で採ったものだった。ヨモギと一緒に摘んだ薬草を縁側に並べて、その名前と薬効の当てっこをしたり、五色の糸を垂らした薬玉を作ったりもした。彦馬の指導で、初めて馬に乗ったのも、この季節だっただろうか。
 さらに彦馬は、毎年鯉のぼりを見ると、必ずこうも言っていた。
「鯉は百の滝を登ると、たちまち竜になると言われております。殿もいつか外道衆との幾多の闘いを経て、必ずや竜のように強くなられることでしょう。その日を爺は楽しみにしておりますぞ 」
 そして、そんな日の夜は、やはり彦馬と共に菖蒲湯に入ったものだ。

 あの頃は、本当に片時も離れず、爺は自分と共にいたのに………
 爺の視線は、常に自分だけに向けられていたはずなのに………
 それなのに今は………

 恨みがましい思いが募る。
 彦馬の姿が見えない。そんなことが、最近、多いような気がしてならなかった。それとも、これは気のせいなのだろうか?彦馬のことが気になって仕方ない丈瑠の、勘違いなのだろうか。
 なんとも腑に落ちないものを、胸の奥に抱えながら、丈瑠はぼんやりと鯉のぼりを見上げ続けた。






 志葉家の奥庭の、さらに奥にある茶室。
 その周囲は明るい竹林に囲まれていた。軒の深い北向きの茶室には、直接の光は入って来ないが、柔らかで安定した光が入って来るので、暗いと言う訳でもなかった。
 長く使われていなかった場所であるはずなのに、茶室は露地も含めて埃っぽい所もなく、どこもとても清涼だった。近々に黒子の誰かが掃除をしたのだろう。






 広間の客畳に黒子は居心地悪そうに座り、室内を見回す。
 かつて黒子は、この茶室の外に控えていたことがあった。この茶室で会合が頻繁に催されていたのは、もう二十年近く前のことだ。それは黒子にとって、あまり良い思い出ではなかった。思い起こせば、あれも今と同じ、この季節だったはず。庭に花菖蒲が咲き誇り、空には鯉のぼりが泳いでいた。しかし、あの頃催されていた会合は、そんな爽やかな季節とは無縁の、重苦しい雰囲気のものばかりだった。
 思えば、あの後からだった。シンケンジャーの負けがこみ、転がり落ちるように、志葉家が弱体化していったのは。
 いや、そうではないのか?その弱体化が誰の目にも明らかになる前に、それに気付いていた者がいたからこその………会合であり、策だったのか?

 黒子はそれに気付いたことにより、何か、嫌な符号を見たような気がした。黒子は思わず、胸に手をやる。そこには、彦馬に言いつけられて調べたことが仔細に書かれた文書が入っている。内容は、たいしたことはない。どれもが彦馬の予想したことを裏付けるものばかりだった。
「しかし………」
 調べ始めてから、黒子は何かが腑に落ちない。しかし、何が腑に落ちないのかが、わからない。それが黒子の心をまた不安にさせた。

 そこに彦馬が、貴人口から現れた。籠仕立ての花入れと、露地で切って来たのであろう春蘭を手にしている。
「ここにはまだ、春欄が咲いておったわ」
 彦馬が笑う。他の庭ではもう終わった春欄。
「ここは、他より少しばかり涼しいようだからな」
 それは多分、この茶室の横を流れる小川のせいだろう。それが、この茶室周辺の気温を下げているのだ。
 彦馬は、花入れに春欄を活け終わると、それを床に飾った。それから彦馬は、黒子に向かい合って座る。彦馬は、そこで顔の表情を引き締めた。
「あまり時間もない。だから、茶はない」
 黒子はもちろんです、と頷く。しかし、頷きながらも思わずにはいられなかった。

 時間がない、とは。
 それは、最近の丈瑠が、彦馬の姿が見えないとすぐに彦馬の居場所を尋ねる………それを、彦馬は言っているのだろうか。実際、黒子は何度もその場に遭遇した。丈瑠に直接、問い質されたこともある。
「爺は?」
 ある時はさりげなく。
「爺はどこにいる?」
 でも時によっては、切羽詰まった顔で。
 この頃の丈瑠が神経質になっているのは、誰の目から見ても明らかだ。
 だがしかし、それには理由があるのではないか?
 彦馬の最近の言動が、丈瑠をそうさせているのではないか?丈瑠は、彦馬から何かを感じ取り、それを不安に思っているのではないか?
 今の自分と同じように………
 黒子にはそう思えて仕方なかった。

「それで………どうであった?朔太郎」
 彦馬が黒子を名前で呼んだ。小松朔太郎は一瞬迷った後、黒頭巾の垂れを上げた。次に、懐から一通の封筒を出す。そしてそれを、彦馬の方に差し出した。
「これに調べたことが、全て………」
「そうか」
 彦馬はそれを、感慨深そうに受け取った。そして、中の文書を取り出し、読み始める。
「やはり………殿の母上は、白澤家の………あの女性の末娘であったか」
 彦馬が調査書から顔を上げた。それに朔太郎は頷いた。
















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2010.07.31