春 愁  11





 流ノ介の背中を見送った後、千明は急いで志葉屋敷に向かった。
 独りで屋敷に向かっていると、今まで考えないようにしていた不安が、胸の中でどんどん膨らんでいく。

 志葉家の大きな門を抜けて、屋敷へと伸びる道を走る頃には、千明の不安は手の付けようもないほどになっていた。
 気持ちの良い春風が頬を撫でる、麗らかな夕刻。しかし刻一刻と増す夕闇は、千明の中の不安を掻き立てるばかりだった。

「丈瑠!!」
 屋敷の大きな黒い影が見えてきたところで、丈瑠に届くはずもないのに、思わず口から飛び出してしまった想い。
 開け放たれた玄関の前で、オレンジ色の灯りが揺れる。目を凝らすと、黒子の一人が灯りを手に、そこに立ってくれていた。
「黒子ちゃん!!」
 呼びかける千明の声が涙声であることが、薄闇の中だからこそ、より強調されてしまった。でも、千明のことを良く知っている黒子は、何も言わず、いつもより一層優しい仕草で、千明を玄関の中に導き入れる。

 静けさに満ちた志葉家。
 いつもと変わらぬように見える、屋敷内。
 それでも、どこかに不穏な空気を感じるのは、気のせいではないだろう。千明のモヂカラにも通じる超感覚が、屋敷の奥の緊張感を感じ取っているのだ。
 玄関に上がり、黒子の後に付いて座敷に向かう千明の足が、僅かに震える。いつもの志葉の屋敷。いつもの廊下。つい先ほどまで、安心しきって座っていた場所。それなのに、今の千明には、同じ場所が全く異なって見えた。うすら寒い、よそよそしい場所に、感じられたのだ。
 黒子に奥座敷で待っているように言われ、千明はそれに素直に頷いた。丈瑠の私室に行くことが許されないのは、志葉家に招集された時からの決まりだ。
 反対に、丈瑠の私室に呼ばれでもしたら、それこそ千明はそれを拒んだかも知れない。何故なら、それはとても不吉なことに思えるから。だから、待っていろと言われたことに、千明は微かに安堵する。
 黒子が去った後、千明は、丈瑠がいつも座っていた場所を見つめながら、独り奥座敷に残る。

 丈瑠!!

 今の千明の頭の中には、その言葉しかなかった。

 丈瑠!!丈瑠!!丈瑠ーーー!!

 今までだって、悲惨な怪我をさんざんしてきた丈瑠だ。あんなアヤカシの攻撃で、やられるはずがない。それに、丈瑠の私室に呼ばれなかったのだから、丈瑠の怪我はたいしたことはないのだ。
 千明は必死に、丈瑠が大丈夫な理由を心の中に連ねて行く。けれど、どれだけ連ねても、千明の不安は払拭されなかった。本当は、丈瑠がどれほどの傷を負ったのか。それは、先ほどのアヤカシと一戦交えた千明には想像がついていた。

 たいしたアヤカシじゃない。本当に全然、たいしたことなんか、なかった。
 でも丈瑠は、あの鋼鉄の針を、受けた。
 シンケンレッドではなく、生身の身体に………
 あの針は、丈瑠の皮膚を、肉や骨を、そして神経を………どれほど傷つけたことだろうか。

 考えるだけで、千明の背筋には怖気が走る。

「丈瑠!!」
 ただ、それだけの言葉が、洪水のように、千明の頭の中に溢れかえっていた。
「丈瑠!!」

 先ほどの稲荷神社で、アヤカシに攻撃されている流ノ介と丈瑠を見た時。黒子から事前に情報を受け取っていたにも関わらず、千明は心臓が止まりそうになった。なにしろ、二人ともシンケンジャーになっていないのだ。つまらないアヤカシの攻撃にだって、簡単に死んでしまう可能性もあるのだ。
 それでも千明は、歯を食いしばって、その怖れに耐えた。アヤカシの攻撃から流ノ介たちを守った後に、軽口ばかり叩いていたのも、まともに丈瑠を見ようとしなかったのも、そうしていないと恐怖に呑み込まれてしまいそうだったからだ。
 千明は怖かったのだ。
 丈瑠を失うことが。失うかも知れないことが、あまりにも怖かった。
 あの数ヶ月前の悪夢が、蘇って来たかのようだったのだ。

 志葉の当主である丈瑠がいなくなる。
 それだけでも、気が狂いそうになったのに………
 丈瑠が死んでしまったら………
 この世から消えていなくなってしまったら………

「あり得ない。そんなこと、絶対に有り得ない!!」
 想像するだけでも、手が、足が、震えてきそうになる。
 モヂカラを操るシンケンジャーにしてみれば、文字は実体化できるもの。だから、同じように言葉も、実体化してしまう可能性がある。頭の中で不吉なことを言葉にしたら、それが現実になってしまいそうだった。だから千明は、必死に負の思考を切り捨てようとする。
 それでも、丈瑠が死んだらどうしようという想いは、どうしても千明の中から拭い去れなかった。

 いつから、こんな自分になってしまったのだろう。いつの間に、これほど丈瑠に依存していたのだろう。それはやはり、あの数ヶ月前のトラウマとしか言い様がない。あの時の絶望感を、千明はもう二度と味わいたくないのだ。

 丈瑠!!お願いだから!!

 千明の悲愴な声にならない声が、志葉の屋敷のそこここに沁み込んでいった。







「千明、待たせたな」
 どれほどの時間が経ったのだろうか。
 それとも、そんなに経っていないのだろうか。

 彦馬が奥座敷を訪れた時、もう千明には時間の感覚もなくなっていた。
 千明の憔悴した顔に、彦馬が驚く。
「千明、遅くなって済まなかった」
 千明は彦馬を見上げるが、何も言わない。涙を湛えたその瞳に、彦馬が苦笑いをする。
「そんな顔をするな、千明」
 しかし千明は、彦馬が肝心な話に触れないことに、恐怖を隠せなかった。さらに、彦馬自身、気付いていないのかも知れないが、いつも血色の良い彦馬の顔が妙に白く見える。それが何を意味するかなど、言うまでもないだろう。
 千明が何も言えずに、膝の上の拳を握りしめるのを見た彦馬は、千明の肩にそっと手を置いた。
「今、黒子が食事の用意をしているから、もう少しだけ待っておれ」
 彦馬はそう言うと、すぐに奥座敷から出て行こうとした。その彦馬の袴の裾を、千明は握りしめる。
「………千明?」
 彦馬が振り返ると、千明がいやいやをするように、首を振った。
「千明………」
 丈瑠を心配してくれている千明を、慰めたい彦馬ではあったが、彦馬には千明に掛ける言葉がなかった。千明が知りたいのは、丈瑠の容態。それはわかっているものの、彦馬には何とも言いようがなかったのだ。それに彦馬には、他にもしなければならないことがあった。
 暫し見つめ合う二人。

「………爺さん、丈瑠は………」
 やがて千明が耐えきれずに、吐き出した言葉。彦馬は、ため息をついた。
「殿は、まだ意識は戻られない。出血が……酷くてな。多分、アヤカシの針に何か………血を固めにくくするものが含まれていたのだろうと…いう話だ」
「………えっ」
 千明が思わず、彦馬の方ににじり寄る。
「それって、血が止まんないってこと?まだ……止まらないの?た、丈瑠って………何型?俺の血………」
 それに彦馬が静かに首を振った。
「輸血の準備は、もうしておる」
 千明が目を見開いた。
「輸血………って、じゃあ病院行くの?きゅ、救急車?」
 彦馬はそれにも首を振った。
「え?病院行かないの?でも、それじゃあ………」
「ここで輸血する。大丈夫だ」
 彦馬の意外な言葉に、千明は思わず立ち上がった。そして、彦馬に掴みかかりそうになる。
「………大丈夫って………大丈夫じゃないだろ!!そんな血が来るの待ってるより、丈瑠を病院に連れて行った方が早いじゃないか………」
 しかし言いながら千明の脳裏に、先ほど稲荷神社の境内で見た、黒子の手際のよい止血の様子が浮かび上がる。今までにも何度となく見てきた光景であったが、今初めてその光景が示す意味を、千明は認識した。あの黒子たちの、到底、素人とは思えぬ技。
「あ………まさか………つまり、黒子ちゃんたちの中には、看護師も医師もいるって……こと?」
 千明はよろけるようにして、彦馬から数歩後ろに下がった。
「もしかしたら、この屋敷には………医療設備とか、ある?だから…?」
 気が抜けたように、再び千明は、床にへたり込んだ。それに彦馬が深く頷く。
「殿ご自身の血液が………何もない時に採血してある血液が、お屋敷には大量に保管してある。今までにもこういうことは、何度もあった。大丈夫だ」
 千明は、込み上げてくる悔しさに、唇を噛みしめた。今まで気付けなかったこと。
「俺たちだって、この一年、どんだけ怪我しても、具合悪くても、病院行かなかった。全部、黒子ちゃんたちが手当てしてくれてた………もんな」
 彦馬の目が思わず細まる。千明は今更のように気付いたのだった。そしてそれは、もうひとつの事実も、浮き彫りにして見せてくれる。
「………そっか。そういうこと………か」
 丈瑠の頑なな行動の原理は、ここに理由があったのかも知れない。千明はそう思った。






 丈瑠は、学校にすらもまともに通わせて貰えなかった。
 それは、丈瑠が通うことによって、学校が外道衆の標的になることを怖れたからだ。同じように、丈瑠は幼いころから、病気になっても怪我をしても、病院に行くことも許されなかったのだ。
 もちろん、だからこそ、志葉家には医師も看護師もいるのだろう。けれど、ずっとそんな生活をしてきた丈瑠。そして、志葉家の人々。世の中の人々を守るために、自らは世の中から隔絶するしかない。普通に得られるはずの人としての権利も、楽しみも、人間的な生活も、全てを犠牲にしなくてはならない。そしてただ、外道衆と闘うためだけに、生きて行かなくてはならない。

 千明や流ノ介たち四人のシンケンジャーは、彦馬に招集を受けてからの一年間、丈瑠と同じように、世間から隔絶した生活をおくってきた。しかし、あの時は、ドウコクという明確な敵がいた。ドウコクを倒さねば、世の中が破滅してしまうという切迫感や危機感があった。だから、そういう生活ができた。
 しかし、あの一年のずっと前から。そしてドウコクを倒した後も、いつまでと期限をきることもなく生きている限り永遠に、世間から離れて生きて行く。それはいったい、どんな覚悟があれば、できることなのだろう。

 そして、そんな覚悟がまだできていない千明や流ノ介は、丈瑠にとっては、どのように見えているのであろうか。
 丈瑠は、流ノ介の歌舞伎の舞台だけを、案じているだけではないのかも知れない。いくら流ノ介が、歌舞伎を捨てると断言しても、今の流ノ介の覚悟では、この先の長い人生を世間から隔絶して生きて行くのは無理だと思っているのかも知れない。

 それは十分にあり得る話だ。
 何故なら、千明も丈瑠に仕える覚悟でいた。今の今まで、そのつもりでいた。それなのに、彦馬の話を聞いて、衝撃を受けた。怪我をしても病院に行くことも許されないほど、世間から離れていなければならないのか、と愕然とした。
 そう考えると、かつて千明が友人を戦闘に巻き込んで怪我をさせてしまった時の丈瑠の態度にも、納得がいく。あの時の千明の行動は、丈瑠にとっては考えもつかないほど、唖然とするものだったのだ。
 そしてきっと、今日の丈瑠の行動も、同じように考えればいいのだ。流ノ介や千明から見れば、いくら流ノ介の知り合いが戦闘現場にいたとは言え、あそこまで追い詰められても変身しない丈瑠を、どうかと思わなくもなかった。しかし、丈瑠にしてみれば、そうではなかったのだ。
 丈瑠は、どこまでも、人々を守ることを優先する。それで自分がどれほどの苦境に立たされようとも、関係ないのだ。そしてきっと、あそこまでしなければ、闘いに一般人を巻き込んでしまう可能性があるということなのだ。

 丈瑠には、どこまでも自分を犠牲にして、人々を守る覚悟がある。しかし、流ノ介と千明には、まだそこまでの覚悟ができていない。それが事実かどうかは別としても、丈瑠には、そう見えている。
 丈瑠がいつまでも、流ノ介を拒む理由は、そういうことなのかも知れない。

 















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2010.10.31