春 愁  13






 彦馬の脳裏に、ある風景が蘇る。
 それは、つい昼前まで彦馬がいた庭奥の茶室の風景だった。
 彦馬がそこに密かに呼び出されたのは、十七年ほども遡ったある春の早朝だ。風景と共に、あの時彦馬が感じた胸騒ぎも蘇ってくる。







 あの時。
 今に繋がる全てが始まった。

 あの頃、ドウコクとの勝てない闘いに、志葉家には重い空気が漂っていた。その志葉本家に代々仕える家臣の家系である日下部彦馬も、武人として闘いに、一方で志葉家重役として志葉家運営にと、忙しい日々を送っていた。
 そんなある朝、当時の志葉家当主から、いきなり呼び出された。それも、庭の奥にひっそりと佇む茶室に。彦馬は周囲に気付かれないように、そっと主屋敷を抜け出した。竹林を抜けて茶庭にはいると、黒子たちの手入れのたまものである苔むした庭の瑞々しい香りが、鼻孔をくすぐる。雑木の枝葉を縫って、木漏れ日がその苔庭に降り注ぐ。すぐ横を流れる小川のせせらぎと鳥の声だけが聞こえる、穏やかな世界。安らかで、心癒される風景のはずだった。
 けれど、呼び出しを受けた時から感じていた彦馬の胸騒ぎは、その風景を見ても治まらなかった。茶室に入ろうとした彦馬の胸元を、一陣の風が吹き抜ける。それは、ぞくりとするほどに冷ややかで、彦馬は思わず足を止め自らの胸元を押さえた。その耳に、静かだった竹林が今しがたの風にざわめいているのが聞こえた。
 それは、彦馬には何かの暗示に思えた。三百年続く志葉家が向かおうとしている未来への暗示。一瞬、頭をよぎったいやな予感を振り払うように、彦馬は茶室に足を踏み入れた。

 茶室の空気は暗く、重苦しかった。
 上座には既に、志葉家十七代目当主・志葉雅貴が座っていた。その横には志葉家家令の丹波がいる。いつものように扇子で膝を叩きながら、落ち付かない顔をしていた。
 頭を下げ、丹波に相対するように彦馬も座るが、当主である雅貴は目を閉じ、黙したままだった。そこで唐突に、丹波が話を始めた。丹波の声は普段の素っ頓狂なものとは異なり、重苦しく、どこから響いてくるのかわからないような声音だった。

 語られた内容は短かった。
 皐月の佳き日を選び、幼子を志葉家十八代目当主を担う者として迎え入れる。日下部彦馬をその養育係に任命する。とても重い役目であるので、心して受けるように。また、養育係はその子供の全てを引き受ける必要があるため、常にその子供の傍にいなければならない。早急に身の回りの整理をし、直ちに志葉家に居を移すように。
 ただそれだけの、ただただ唐突な話だった。
 しかし、秘密裡にこんな場所に呼び出されてされるその話が、何を意味するかわからない彦馬ではなかった。なにしろ先日、雅貴の妻が身籠ったことが判明したばかりだ。それを知る者は志葉家重役の内でも僅かな者だけだが、志葉家の正式な後継ぎが生まれるというのに、別の幼子を次代当主に迎えるという話に、裏があると考えない方がおかしいだろう。

 丹波の話が終わると、再び、茶室に静けさが戻った。
 黙り込む彦馬。目を閉じたままの雅貴。冷ややかな空気が流れる。
「こら!日下部!!返事をせんか」
 突然、丹波が叫んだ。今度はいつもと同じように、頭のてっぺんから抜けるような声だ。
 静けさも重々しさも一瞬にして吹き飛ばす丹波の声に、雅貴がさも嫌そうに眼を開けた。そして丹波ををひと睨みした後、雅貴は彦馬の方に向き直った。
「日下部。お前が思っている通りだ」
 彦馬も伏せていた目を上げ、雅貴を見つめる。
「これはただの跡取りの話ではない。影武者の策だ」
「あ、いや、殿!?」
 慌てる丹波。その様子からすると、丹波はこの秘密の策を彦馬に告げずに済むならば、告げずに済ませるつもりだったらしい。敵を欺くなら味方からという腹なのか。暗黙のうちに彦馬に全てを悟れと言っていたのか。どちらにしろ、それでは彦馬も、この唐突な申し出をどう受け取って良いのかわからなかった。だからこそ、返事もせずに黙していた。雅貴は、そんな彦馬の胸中を読み取ったのだろう。
 しかし丹波は、雅貴にことの真実を言わせてしまった彦馬を睨みつける。それに気付いた雅貴が呆れたような視線を丹波に注いだ。
「日下部はこの策の要だ。言わずにおれるはずがなかろう」
「しかし殿!この考え抜かれた一世一代の策については、知らぬものは少なければ少ない方が良いのでは………」
 雅貴からため息が漏れる。
「『一世一代の策』………か。まあそうだな。だが、お前が言うと、その策もおちゃらけて聞こえるな。丹波」
「はぁぁぁ〜?殿は何を仰りたいのでぇ〜?」
 いちいち大げさな丹波の態度に、雅貴はふっと表情を緩めた。

 こうして思い返してみれば、雅貴はどれだけ丹波に心許していたのだろう。今の丈瑠が自分にそうであるように。彦馬はしみじみと思った。
 丹波の行動はかなり特徴的だ。漫才のボケとつっこみを一人で演じているような所すらある。由緒ある志葉家の家令にしては、珍しい人物だ。しかし、そんな表面とは裏腹に、丹波は深く策を巡らす。あの憎々しげな態度も、素っ頓狂な表情も、全て計算ずくなのかも知れない………と思うこともある。

「日下部。お前も知っての通り、まだ大分先の話ではあるが、やがて我が子が生まれるだろう。だが、その子は志葉の表舞台には出さぬ。生涯を外道衆とは関わりのない影で過ごさせ、志葉の血を未来に繋げることに専念させる」
 驚く彦馬に、当主は頷く。
「志葉の血筋に連なる者を増やさねばならない。ドウコクとの闘いももちろん重要だが、志葉の血を太く確かなものとするために、今はそうするしかないのだ」
 それは、志葉家当主としての雅貴の苦渋の決断だった。決して過酷な闘いから我が子を守るためのものではない。この世を外道衆から守るために、志葉家の血を未来に繋げなくてはならない。それも志葉の当主の役目。シンケンレッドを継ぐ者の候補を、少しでも多く後世に残すためには、これがもう本当に、最後のチャンスなのだ。
「私にその時間はない。生まれてくる子に託すしかない」
 卑怯と言われようとも、やらねばならぬことなのだ。
「ただ志葉家当主の座を空位にはできない。そのために、表向きの跡取りは別にたてる。お前が養育係となるその子は、志葉家とは全くの無関係。だがその子に、志葉家十八代目当主となってもらう」
 それだけ聞けば判ることがひとつあった。

 殿は………殿は諦められたのか。
 今、ご自分亡き後の、志葉家の始末をされようとしているのか。

 それだけでも彦馬には、耐え難い衝撃だった。
 この世が、そして志葉家がどうなってしまうのか。志葉の家臣誰もが不安に思っている。その最中に、当主の胸の内は既に決まっていたのだ。これは極秘にしなければならないだろう。当主が既にドウコクに勝つことを諦めているとは………
「間違うな、日下部」
 しかし彦馬の思考を、雅貴の言葉が遮る。
「私は諦めた訳ではないぞ」
 何を言わずとも、雅貴は彦馬の気持ちを察していた。
「しかし戦局はお前も知っている通り、あまりに厳しい。ドウコクを倒すことを諦めた訳ではないが、その先の手を打たずに最期の闘いに向かう訳にはいかぬ」
 諦めた訳ではないといいつつも、やがて来るであろう最期の決戦を睨んでいると、雅貴は言う。彦馬は探るように、当主の瞳を見つめた。その視線を雅貴はしっかりと受け止める。揺るぎない当主の瞳だった。当主の言葉に嘘はないと、彦馬も思う。
 ただ、嘘はなくとも、それだけ厳しい状況だというのも事実だった。

「それでは、お尋ね致します、殿。何故、そのような志葉家と何の繋がりもない幼子に、これほど重い役目を担わせます?」
 それが彦馬の一番の疑問だった。今現在、志葉の血に連なる者は、当主と、当主の妻の腹に宿ったばかりの命。ただそれだけしかないことは、志葉家重役ならば、誰もが知っている。
 それでも
「同じ影武者を選ぶのであれば、家臣の中から選ばれればよろしいのではないですか?」
 事情も判り、腕もたち、覚悟もできている志葉の家臣は大勢いる。その中の一人を何故、選ばないのか?何も知らない子供を持って来るよりも、よほど影武者として役にたつのではないか。
「そ、そんなことは重々考えたわ!!」
 雅貴よりも先に声を荒げたのは丹波だった。腰を浮かす丹波を手で制して、雅貴は淡々と答えた。
「モヂカラが使えなくてはならぬからだ。家臣には該当する者がいない」
 それに彦馬は目を見張った。
 もちろん今のシンケンジャー達はモヂカラが使えるが、彼らは雅貴と共にドウコクと闘わねばならない。雅貴の言うところの最期の決戦を思えば、彼らでは影武者の任に該当しないことは想像がつく。しかしそれでも、他に人材はいないのかと、どうしても考えてしまう。
「丹波さまを筆頭に………」
 彦馬が丹波の顔をちらりと見ると、丹波は意外そうな顔をしていた。
「モヂカラを使える者が、シンケンジャー以外の家臣の中にもおります」
 しかし、雅貴はそれに首を振って応えた。
「それ相応のモヂカラが必要なのだ。家臣の血筋に連なる者も調べた。侍たちの兄弟、親戚………しかし今現在、シンケンジャーとして起っている者以外でモヂカラをまともに使える者はいなかった。さらに侍たちの幼い娘や甥、姪なども調べた。しかしこちらは、モヂカラの片鱗も見出せなかった。家臣の中からは、影武者候補に挙げられる者が一人もいなかったのだ」
 これは彦馬にとっても意外な情報だった。
「まさか、そのようなことが?」
 それでは、今のシンケンジャーが倒れたら、次に起つシンケンジャーはいないということなのか。侍の家系でモヂカラを持つ者は、今のシンケンジャー以外もう存在しないとでも言うのか?
 志葉家も侍の家系も衰退し、モヂカラを持つ者が途絶え、シンケンジャーもこの世からいなくなる。それは、背筋が凍るほどに怖ろしい想像だった。
 青くなる彦馬を見て、雅貴がことさらに表情を緩めた。
「案ずるな、日下部。侍の家の子らにモヂカラの片鱗も見出せなかったのは、彼らがまだ幼いからだ。あと幾年かすれば、モヂカラの才も見えてくるだろう。私だとてモヂカラに目覚めたのは七才を過ぎてからだ」
 だが、そんな言葉を真に受けていいものか。訝しがる彦馬に、今度は丹波が口を出して来た。
「日下部。殿の仰られる通りだ。今回の策はそちらこそが真髄。手は打ってある」
 それは意外な一言だった。
「………えっ?」
 丹波を振り返る彦馬。
「どのような手を打たれたと?」
 しかし丹波はそれを無視する。
「とにかく、モヂカラがどうしても必要なのだ。それで選ぶしかなかったのだ」
 雅貴が重ねて言う。まるで自分に言い聞かせるかのように。







 彦馬はもう一度考えてみた。
 この世を守るために、志葉家を未来に繋げるために、影武者を立てるのは仕方ない。しかし、自分で選び、覚悟を決めて志葉家に仕えている者ではなく、何もしらない子供にこのような運命を背負わせてしまうのは、あまりに酷ではないのか。どうしても彦馬はそう思ってしまうのだ。
 それに、影武者に対して、そこまでモヂカラに拘るのは何故なのか?それ相応のモヂカラが必要、と雅貴は言った。いったい、どれほどのモヂカラを影武者に望んでいるというのか?
 そこで彦馬は気付いた。
「まさか………」
 思わず彦馬は、雅貴の方ににじり寄る。
「………まさか………まさか殿は、その幼子を表向きの当主に据えるだけではなく、モヂカラで外道衆と闘えと?」
 それこそ、怖ろしい想像だった。志葉家の血どころか、侍の血も引かぬ者が、どうやって外道衆と闘うというのか?例え、わずかばかりのモヂカラの才があるのだとしても。
「それはあまりに無体なことでございます!!」
「これ!殿に口答えするとは、何ごと!」
 雅貴の方へと膝を乗り出した彦馬を、丹波は制止しようとする。
「すぐにではない。しかしその子は志葉家当主になるのだ。将来的にはシンケンレッドとしても起ってもらわねばならない」
 その丹波の頭越しに、雅貴は答えた。
「だからこそ、モヂカラが大事なのだ」
 しかしこの言葉には、丹波も唖然とする。
「………はっ?は、はい?殿〜??」
 瞬時に振り返った丹波の方が、今度は雅貴に詰め寄った。
「あ、あの子供にいくらモヂカラの才があると言っても、シンケンレッドにまでさせてしまっては………」
 そこで丹波は慌てて自分の口に手を当て、激しく首を振った。
「い、いやいや。そうではなく。さすがにシンケンレッドにはなるのは無理………無理でございましょう。志葉家の血筋に連ならない者が、シンケンレッドになれるはずもない」
 そんな丹波を苦い顔で見つめながら、雅貴はさらに付け足す。
「あの子にはシンケンレッドとして起ち、外道衆と闘ってもらう。だからもちろん、志葉家十八代目当主にもなってもらう。それで生涯を過ごしてもらう」
「は、はぁぁあ〜?生涯を当主として〜?それではもう、影武者だか、本当の当主だかすら判別付かないのでは………」
 丹波が後ろに仰け反って驚く。その大げさな動作に、さすがの雅貴も頭に来たようだった。
「丹波!!お前はいちいち煩い!!」
 雅貴は立ち上がった。
「結果として、あの子が真実の志葉家十八代目当主になる。それくらいの覚悟もなく、志葉の血も引かない幼子に、ただ当主の影武者になれと言えるか!?シンケンレッドとして志葉家を支え、外道衆と闘って行けと言えるのか!?」
 雅貴は、丹波に向かってそう言い放った。
「あの子にもとてつもない覚悟が必要だが、私たちにも覚悟はいる。それは、丹波、お前が思っているようなものではない。外道衆からこの世を守るための志葉家存続。そのために………どんなことでもする覚悟だ。志葉の者でもない子供に、志葉の使命を押し付けるという覚悟!!」
 その気迫に、丹波も大人しく座りなおした。
「外道衆を倒すために、自ら外道にも等しいことをする覚悟だ!!!」

 雅貴は大きく息をつくと、ついと立ち上がった。そして、庭の見える縁側へと足を運ぶ。
 緑に陰る茶庭をみつめつつ、雅貴は呟くように言った。
「日下部。最初に丹波が言った通りだ」
 彦馬は雅貴の背中を見上げる。
「志葉の血は引かぬが、モヂカラの才のある子供を見つけた。まだ五つにもならぬ子だ。だが、だからこそ未曾有の可能性を秘めている」
 その言葉からは、雅貴のその子供に対する並々ならぬ期待が感じられた。雅貴は振り返り、座っている彦馬を見下ろす。
「私亡き後、その子を志葉家十八代目当主にする。それがいつになるかは定かではないが、そう遠い先のことではないだろう」
 彦馬をじっと見つめる雅貴。
「影武者とは言え、その子はやがてシンケンレッドになり外道衆と闘うのだ。その子がシンケンレッドになることができたならば、それはもう名実ともに志葉家当主と言ってもいいだろう」
 しかし逆光になっているため、雅貴の表情は定かではなかった。
「その子が志葉家当主になるまでも、なってからも。シンケンレッドになるまでも、なってからも。ずっと………その子には辛い日々が続くだろう。志葉家に生まれた訳でもないのに、志葉家の宿命に縛られて生きて行くしかないとは。私よりも、やがて生まれてくる我が子よりも、その子は苦しい人生を生きねばならない」
 それでも、雅貴が今どのような顔で自分と向かい合っているのか、彦馬には判るような気がした。
「非道い話だ。だが………もうこれしか、外道衆からこの世を守る術がない」
 そこで雅貴が頭を下げた。
 家臣である彦馬に対して。
「もう一度、頼む。日下部。その子の養育係になってくれ。そして、その子を生涯守ってやってくれ」
 それは、日下部彦馬を志葉家随一の賢人・武人と見込んでの人選だった。雅貴の、志葉家当主としての覚悟と、人としての優しさが見えた気がした。だからこそ、彦馬ももう一度改めて、ここで志葉家家臣としての覚悟をしなければならないと思った。
 彦馬は畳に手を付き、静かに頭を下げた。

 再び顔を上げた時、そこにある雅貴の目がいつになく優しいように彦馬には感じた。
「重い役目になりますな」
「………ああ。その子の全てをお前は預からねばならぬ。その子の心も身体も、人生も………なにもかもだ」
 一瞬、静かな間があった。と思う間もなく
「日下部!預かるのは、その子供の命だけではないぞ」
 丹波のきいきい声が響く。
「志葉家の命運も預かることになるのだ。お前とその子供に、志葉家は全てを賭けることになるのだからな」
 そして、それはこの世を預かることにもなる。







 もういちど、あの時と同じ選択を迫られたら………?

 丈瑠を影武者として育てるか、否か。
 その養育係になるか、否か。

 ドウコクとの闘いが終わった後、幾度となく考えたこと。
 しかし、それが何度であろうとも、彦馬の答えは決まっている。

 丈瑠をこう育てれば良かった。ああ育てれば良かった。
 いくらでも後悔はできるが、それでも結局、外道衆やドウコクとの闘いの結末が見えないあの時点であれば、何度同じ選択を迫られても、彦馬は同じ答えしか出さないだろう。
 それが、彦馬の志葉家家臣としての覚悟なのだ。
 この世と共に、丈瑠の全てを預かったあの時からの、覚悟なのだ。










小説  次話






2013.05.12


な、長かった A^^;)
春愁の中では、一番長い回です。
でも、シェークスピアのような長台詞はないですから
とりあえず 許してください m(__)m

今日で、「ヘンリー四世」大阪公演も千秋楽。
次は福岡ですね♪
最後まで、どうか無事に終わりますように(^^)