春 愁  15






 丈瑠の部屋に渡る廊下には灯りが煌々と点いていた。
 しかし丈瑠の部屋の前まで来ると、灯りは絞り気味になる。
 彦馬が部屋の北側に設けられた畳敷きの入側を進むと、待機していた黒子がすっと丈瑠の寝室の襖を開けた。


 丈瑠の私室。床の間と畳の広い空間は、天井も高かった。
 入側の襖と相対する側には、開け放された障子があり、その向こう側には長い広縁が続いている。広縁の向こうには、一面のガラス窓が拡がっていて、ガラスを通して、志葉家の広大な庭の深い闇が見える。その闇を照らすように、灯篭の灯りが大小いくつか風に揺れていた。ガラス戸はどこかが開いているようで、ときおり春の宵のうららかな空気が部屋の中に流れ込んでくる。
 その部屋の中央に敷かれた分厚い布団に、数人の黒子に囲まれて、丈瑠が横たわっていた。

 薄明かりの中、彦馬は静かに袴の裾を捌くと、丈瑠の右胸元に近い場所に座る。
 覗き込んだ丈瑠の顔は蒼白で、文字通り血の気が感じられなかった。

 アヤカシにやられた丈瑠の怪我は右腕だ。しかし、それ以外にも怪我はあったため、裸の上から丈瑠の上半身全てに包帯が巻かれていた。そして肝心の右腕も治療が施された後、ガーゼで保護され、動かせないように上半身に固定されている。
 そこまでは、丈瑠がこの部屋に寝かされた時から変っていなかった。しかしその時には白かったはずの包帯が、またしても赤く滲んでいる。彦馬が席をはずしていた間にも、何回か取り換えられたであろうそれが、今も赤いとは………
 消毒薬の匂いに殆どかき消されているが、春の風に乗って微かに漂う血の匂い。これはまだ、丈瑠の出血が続いていることの証だった。
 彦馬の顔が曇る。ただ既に、自己血による輸血は開始されていた。
「殿の血は足りるか?」
 彦馬が小声で尋ねると、丈瑠の足元で輸血の状況を監視していた黒子が頷いた。彦馬の斜め向かい、丈瑠の枕元に待機している黒子が、彦馬に説明する。
 冷蔵してあった丈瑠自身の全血や冷凍保存してあった血漿の輸血を始めた頃から、出血が治まり始めた。このため、冷蔵全血については全て使用してしまうだろうが、それとは別に超低温冷凍保存してある全血庫が空になるほどの使用には至らない、と予想しているとのことだった。
 この出血量の減少は、アヤカシの針に含まれていたと思われる血液凝固を阻害する物質の活性が失われつつあるからなのか、丈瑠の血小板や血漿が威力を発揮しているのかは、わからないと言う。
 理由がわからないとしても、丈瑠の出血が止まる見込みができた。それだけで、彦馬の胸を抑えつけていた重しが取れたような気になる。思わず丈瑠の手を握りしめたくなる彦馬だったが、残念ながら彦馬の側の丈瑠の腕は、身体にぐるぐる巻きにされていたため、それは叶わなかった。
 彦馬は頷くと、彦馬の後ろに待機している黒子に目配せした。黒子は頭を下げると同時に、手元の冊子に何かを書きつけ始めた。殆どのアヤカシ情報を頭の中に納めている彦馬にとっても、今回のアヤカシは初めて見聞きするアヤカシだった。流ノ介の姿かたちを真似ていたため、その真の姿も未だ不明だ。それでも、後世のために記録を残しておかねばならない。特にどんな攻撃特性があるのか。それがシンケンジャーにどのような影響を及ぼし、対策として何が有効なのかは、重要な項目だった。







「それで殿の傷の状態は?」
 出血が治まりつつあると聞けば、次の心配は怪我そのものになる。むごいことではあるが、彦馬が一番に知らねばならぬのは、丈瑠がいつから闘える状態になるのか、と言うことだ。
 ドウコクを倒した今でも、ナナシが一匹出てくるだけで、人々は怖れおののく。それがアヤカシとなれば、世の中は大騒ぎだ。それを治められるのは、やはりシンケンジャーしかいない。そしてシンケンジャーメンバーをひとまず家に帰した今は、丈瑠だけが戦力になる。
 だからこそ、流ノ介や千明の想いが嬉しい彦馬であるのだ。丈瑠に何かあっても、流ノ介たちがいれば、本調子でない丈瑠を闘いに駆り立てなくて済む。しかし丈瑠自身が流ノ介たちが闘うのを拒むとなると、彦馬には手の打ちようがなかった。
「大丈夫なのであろうな。意識はいつ戻られそうかな」
 重ねて尋ねる彦馬に、枕元の黒子が戸惑うように微かに首を振った。その仕草の意味がわからず、眉を寄せる彦馬。
 と、同時だった。
「爺、どこへ行っていた」
 丈瑠の声がした。
 小さな声ではあったが、静かな部屋の中に低く響くような声だった。その、思いの外しっかりとした声音に、彦馬が目を見開く。
「おお、殿!お気がつかれましたか」
 思わず丈瑠の方にかぶさり気味になる彦馬。しかし彦馬の目に入ってきたのは、丈瑠の白く冷たい顔だった。それは、先ほどまでの血の気のなさとは、どこか違うものだった。もっと怜悧な、意志の入った冷たさだった。
「殿、何のご心配もいりませんぞ。流ノ介に怪我はありませし、アヤカシは千明がひとまず撃退しましたので街の人々への被害も出ておりません」
 言いながら彦馬は、丈瑠の冴えた表情と瞳に違和感を感じる。
「ですから、まずは何も考えずに、ゆっくりお休みください」
 丈瑠の心配の種が何なのか。この表情が何を言おうとしているのか。
 戦闘の前後状況も含めた報告を黒子から受けて、彦馬は解っているつもりだった。これほどの怪我を負うことになったのは、流ノ介に傷ひとつ付けまいとしたから。今の丈瑠の心は、流ノ介にあるはず。
 しかし
「爺。俺の質問に答えろ」
 突き刺すような丈瑠の視線に、彦馬は今度こそはっきりと困惑した。

 出血多量による血圧低下で意識を失っていた丈瑠。だから多少血圧が戻った今でも、朦朧としているのか?そうとも思えるが、丈瑠の表情は、具合が悪そうではあるが、しっかりしたものだった。
 思わず顔を上げて、彦馬は向かいに待機する黒子を見る。しかし黒子もなかなか口を開かなかった。
「………先ほど…日下部様のおいでになる少し前に………意識が戻られまして」
 やっとのことで報告されたそれに、彦馬は目を瞬いた。

 つまり、彦馬がこの部屋に戻ってきた時には既に、丈瑠は意識が戻っていたのだ。ただ容体が悪いことに変わりはないので、寝たふりという訳ではないのだろうが、目を瞑っていたということか。
 彦馬は、目の前の黒子が丈瑠の状態について話さなかった理由が分かった。黒子は、具合が悪い丈瑠を前にして怪我の状態を言うのを憚られたし、いついつから闘えるでしょう、などとも言いたくなかったのだ。医師の診断とは関係なく、動けるようになればすぐに闘いに出て行ってしまう丈瑠が相手なのだとしても。

 しかし彦馬にしてみれば、丈瑠の意識がしっかりしているのは嬉しい話だった。
「そうですか。先ほどから目覚めておられたのですか。それはひと安心」
 彦馬は丈瑠に微笑みかける。
「戻るのが遅くなって申し訳ございません。爺は今、千明の所に行っており………」
「違う!!」」
 本当に伏している丈瑠から発せられたのかと疑うような、強い声。それも、冷水を浴びたかと思うほどに、冷ややかな丈瑠の声音だった。
「俺が聞いているのは、爺が午前中、どこにいたかということだ」
 気絶していたにも関わらず、時間感覚もしっかりしているらしい。侍たちを招集してからは激減したものの、ほんの数年前、アヤカシと一人で闘っていた頃は、闘いに傷つき気絶したまま屋敷の戻ることも少なくはなかった。だから、こういう状況に慣れている、ということなのか。
「誰に聞いても、爺の居場所を知らないと言っていた」
 丈瑠を気遣っていたはずの彦馬は、虚をつかれて言葉を失った。

 流ノ介たちがシンケンジャーとして招集されたばかりの頃。
 千明が侍に相応しくない行動をする度に、彦馬もそうであったが、丈瑠も千明を厳しく諭していた。そんな時の丈瑠の口調は、傍から聞いていても冷たくきつかった。言葉は少ないのに、そのひとつひとつが心の奥底にまで斬る込んでくる。正しいけれど、そのあまりの厳しさに、彦馬はつい後から丈瑠に意見してしまったこともあるほどだ。
 考えてみれば、そのような厳しさを持つようにと丈瑠を育てて来たのは、彦馬自身だと言うのに。
 しかし今、同じ丈瑠からの追及が自分に浴びせられた時、それがどれほどに冷たく、絶対的な響きで相手を追い詰めて来るのかを、彦馬は初めて知った。

 冷徹な瞳が、容赦なく彦馬に向けられる。
「あ………いや、殿。それはその………少々私用がありましてな」
「聞いていることだけに答えろ」
 誤魔化そうとした彦馬の言葉を、一刀両断する丈瑠。逃げ場を許さない丈瑠だった。
「………殿」
 追い詰められているのは彦馬だ。
 それなのに、彦馬はその時、不思議な感慨を感じてしまった。
 怪我をして伏せっている状態の丈瑠。下から彦馬を見上げている姿勢の丈瑠。それでいながらも丈瑠の威厳は少しも損なわれていなかった。
 どんな状態にあっても、丈瑠は志葉家当主なのだ。そう思わせる風格を、今の丈瑠は持っている。彦馬はそう思った。
「殿………」
 思わず涙ぐみそうになる彦馬。
 それを見た瞬間、丈瑠の表情が一変した。
「じ、爺!?」
 誰が止めるのも間にあわず、その場に起き上がってしまう丈瑠だった。
「何だ、爺、どういうことだ!?」
 唯一動く左手で、彦馬の着物の袖を握りしめる。そして何を勘違いしたのか。
「許さない!許さないからな!!」
 そのまま丈瑠は彦馬の胸に倒れ込んだ。訳も判らず丈瑠を抱きとめる彦馬。
「殿?」
「絶対に、行かせない!!」
 何人もの黒子たちの腕が伸びて丈瑠を布団に寝かせようとするが、丈瑠の力は強かった。しかし、その無理な動きがたたってか、部屋の中に血の匂いが漂い始める。丈瑠の胸の包帯が見る見る鮮血に染まって行く。
「殿!!」
 彦馬も丈瑠を横にさせようとするが、そうすればするほど、彦馬の着物を握りしめる丈瑠の力が強くなる。
「殿?何をご心配されておいでなのです?」
「何………って、爺」
 鋭い眼光を放っていた丈瑠の瞳が揺れる。
「俺は………」
「爺はどこにも行きませんぞ。ずっとここに。殿のお傍に居りますので」
 彦馬がそう言った途端、今まで丈瑠に掴まれていた着物が軽くなった。
 と思う間もなく、丈瑠の身体が芯を失った。彦馬の側に倒れ込む丈瑠の身体を、彦馬が支える。黒子たちが、そっと丈瑠を布団に横たわらせた。
 






 再び意識を失った丈瑠。
 血で濡れそぼったガーゼや包帯も取り変え、やっと部屋に静けさが戻る。
「殿には珍しく取り乱されていたが………」
 呟く彦馬に、黒子たちが顔を見合わせる。
「………何だ?何かあったのか?」
 尋ねる彦馬に、黒子が事情を話し始めた。

 彦馬が千明の元へ行ってから、丈瑠はうわ言を言い始めた。
 それは、彦馬がどこかに行って、いなくなってしまうという妄想のようだった。それがあまりに酷くなって来たため、心配になった黒子たちは彦馬を呼びに行った。その直後、丈瑠の意識が戻る。丈瑠はまだ朦朧としているようで、虚ろな目を部屋の中に彷徨わせていた。しかし一向にそれが止まない。丈瑠は何かを探しているようだった。
 それを聞いた彦馬は、丈瑠の先ほどの状況に想像がついた。意識も不確かな丈瑠の瞳が探していたのは、言うまでもなく日下部彦馬なのだ。

 丈瑠が外道衆と闘い始めてからの長い年月。
 幾度となくあった、アヤカシとの戦闘で傷つき、気絶したまま屋敷に運ばれるという状況。その時の幼い丈瑠、外道衆との闘いの恐怖に冷めやらぬ丈瑠が、目覚めと共に冷静でいられたのは、目覚めた時にいつも最初に見えるものが彦馬の姿だったからだ。それだけで丈瑠は、全ての不安を心から取り除くことができた。辛い現実に再び、戻ることもできた。

 だから、彦馬が視界に入らない丈瑠は、覚醒したくてもできなかった。彦馬の導きなしには、現実には戻れなかったのだ。
「先ほどの殿は、夢と現(うつつ)のはざまに居られたか」

 彦馬が想像したように、先ほどの丈瑠は、夢と現実のはざまにいたのかも知れない。
 そうだとすれば、さきほどのあれは、聞いてはいけない丈瑠の心だったのかも知れない。
 アヤカシの被害状況よりも、家臣の心配よりも先に、実は丈瑠の心を捕えていたもの。丈瑠に明確な意識がある間は理性の力で押し隠し、決して表には出さない言動。

 丈瑠が、心の底から真に欲しているもの。
 それは、志葉家の当主として、比類なき強さを誇るいシンケンレッドとなった今も、昔と変わることがない。

 ついさきほど、丈瑠の志葉家当主ぶりを誇らしく思ったのも束の間。彦馬は自分を慕ってくれる丈瑠を嬉しいと思う倍の気持ちで、丈瑠が心配になった。
 彦馬がいなければ日も夜も明けぬとばかりに、彦馬を慕う丈瑠。
 丈瑠は、どれだけ苦戦し傷ついても、彦馬さえ傍にいてくれたのならば、何度でも立ち上がれる。
 しかしそれは裏を返せば、彦馬がいなければ、丈瑠は立ち上がれないということなのだ。

 志葉家当主としてより強くなろうとする丈瑠のために、その足枷になるやも知れない自分は丈瑠のもとを去るべき、という考えを捨てきれない彦馬。それは、ただ去れば良いというものでもない。実行に移す時期を計りかねている彦馬でもあった。
 丈瑠の血縁者が現れ、それがモヂカラの根源とも言える特殊な力を持っていると知れた今、事態は、丈瑠個人にとっても志葉家にとっても複雑な方向に向かっている。情報収集や外部への対応など、やっかいな仕事が増えてきそうな予感が彦馬にはあった。
 だから彦馬はますます考えざるを得ない。自分が丈瑠の元を去ること、その時期も含めて、何が丈瑠のために最良となるのか、と。
 そのような中で、新たに考えに加えなければならない項目を、彦馬は認識してしまったのだ。

『彦馬を失った丈瑠は、どのような状態になるのか』
 表面上ではなく、丈瑠の気持ちがどうなるのか。
 支えを失った丈瑠がどうなるのか。







「殿………」
 丈瑠に寄り添う彦馬の胸中は複雑だった。










小説  次話






2013.05.26


やっと丈瑠に戻ってきました orz

銀英伝パロを先に書いているため、話の時系列が混乱中 A^^;)