春 愁  23






 丈瑠の命に関わると思われた怪我も、止血されれば、あとはただの体力勝負でしかなかった。
 丈瑠の体中が包帯に巻かれていることも、未だ起き上がれる状態でないことも変わりなかったが、丈瑠の強靭な肉体は着実に快方へと向かい、一夜が開けてみればいつもの怪我になっていた。







 さわやかな風が丈瑠の額の黒髪を揺らし、丈瑠は重そうな瞼をゆっくりと開いた。そのまま丈瑠は、傍らに一晩中付き添っていた彦馬に視線を向ける。
 いつもそこにいると丈瑠が信じている彦馬が、そこにいた。
 表情のなかった丈瑠の顔が薄っすらと緩む。彦馬の優しい眼差しを受けると、陽だまりにいるように身体が芯から暖かくなる。ゆるぎない太陽に守られているように、安心できる。

 そうして丈瑠は、丈瑠になれる。
 どんなに深い闇の底からでも、志葉家当主、志葉丈瑠に戻ってくることができるのだ。




 丈瑠はぽつりと呟く。
「千明はどうした」
 掠れた声だったが、それはいつもと変わりない丈瑠の声。
「殿!お気がつかれましたか!?」
 彦馬はすぐに丈瑠の顔の近くまでにじり寄った。丈瑠の顔には疲労が滲み出ていたし、視線も頼りなくはあったが、侍たちがいない時の丈瑠はこんなものだ。つまり、いつも通りの丈瑠だった。昨夜の丈瑠とは明らかに違う。

「千明に………怪我はなかっただろうな」
 喋りにくそうに枯れた声を出しながら起き上がろうとする丈瑠。それを制止して、彦馬は傍らの黒子に目配せする。黒子がすぐに丈瑠の背にそっと腕をまわし、白湯の入った吸い口を丈瑠に差し出した。丈瑠は何の躊躇いもなく黒子の腕に身体を預けて、ほんのわずかばかり身体を起こすと、素直に吸い口に口を付けた。
「千明に怪我はありません。昨晩はたらふく夕食を食べ、風呂に入ってぐっすり寝たようです」
 昨夜の千明の心の叫びについては、もちろん伝えない。それは千明自身が消化していくしかない問題だから。
 彦馬の言葉に耳を傾けながらも、よほど喉が渇いていたのか、丈瑠はゆっくりと吸い口の白湯を全て飲み干した。
 改めて布団に横になる丈瑠。さっそく黒子が、丈瑠の包帯を取り替えに掛かる。黒子たちに為されるがままになりつつも、血色も悪くないその様子は、丈瑠の回復が順調な証に思えた。
 丈瑠の状態に安堵した彦馬は、昨夜一度している報告を改めてする。
「アヤカシは一旦退散しました。流ノ介の方にも怪我はなく………」
 彦馬が言いかけると、丈瑠が傷だらけの肩をすくめた。
「………殿?」
 丈瑠が一番心配しているだろう流ノ介のことを伝えようとしたのだが、丈瑠は呆れ果てた顔を彦馬に向ける。
「流ノ介が無事なのは分かっている。黒子に運ばれる最中も、俺の耳元であいつは大声で喚き散らしていたからな」
 あの稲荷神社での闘いで倒れた後、丈瑠は完全に気を失っていた訳ではなかったのだ。
「それよりも千明だ。あいつ、朝っぱらから行き倒れていたらしいぞ、うちの門前に。何があったのかは知らないが、受験勉強の最中に行き倒れても困るし、たまたま加勢をした戦闘で怪我をしたのでは堪らないだろう」
 喉を潤したためか滑らかな口調で言うと、丈瑠は彦馬を上目遣いに見る。
 彦馬は、こほんと咳ばらいをひとつした。
「………行き倒れについては、ですな。黒子たちから報告を受けております。千明のことは谷家から二週間ほど前に連絡が来ておりました。何か問題があったのであれば、すぐにこちらに来れば良いものを………いったいアレは昨日まで何をしていたのか………」
 何か事情がありそうな彦馬のもの言いに、丈瑠はわざと不機嫌そうな表情を作る。
「俺は何も聞いていないぞ。千明の家からの連絡?なんだ、千明は家出でもしていたのか?」
「いえ、そういう訳では………まあ、殿にお聞かせするような話でもありません」
 隠しているのか何なのか、あくまで話そうとしない彦馬に、丈瑠はさらに不機嫌そうに顔を歪めた。
「いいから話せ。なぜ、千明が行き倒れた?千明の言葉によると、食べることもままならず、電車賃もないほど困窮していたらしいぞ。家臣がお金がなくて行き倒れになるなど、志葉家としてもみっともないだろう。手当はちゃんと出ていたのだろうな」
 丈瑠のいうことはいちいちもっともだった。
「千明は未成年ですから、お手当は本人ではなく谷家の方に送金をしております」
 そこで丈瑠は、かつて千明の父と関わったことがあるのを思い出した。しかしあの時、丈瑠はアヤカシとの戦闘に赴いていたため、直接の面識を持てた訳ではない。戦闘後に茉子から、千明思いの良い父親だったと聞いた。とても自由な人物で、それが今の千明の人格形成に繋がっているとも。
(自由………か)
 自分とは縁のない言葉だなと思う。それでも、茉子の言い様ではとても好感の持てる人物に聞こえた。剣の腕もそれなりだとか。
 その時、言葉には表せない感情が丈瑠の心にさざ波をたてた。しかし、その感情が何なのか丈瑠には判らなかった。判る必要も感じなかった。
「わかりませんな。困窮した理由とやらが」
 丈瑠はハッとして、彦馬を見る。彦馬もまさか、子供でもない千明がそんなことになっているとは思っていなかったのだ。
 彦馬は腕を組んで首を傾げた。
「とにかく千明をよんで参りましょう」







 丈瑠の私室によばれた千明は、昨日のこともあってか、神妙な面持ちだった。黒子に導かれるまま、畳敷きの入側から静かに丈瑠の部屋に入る。
 足音もなく床に寝たままの丈瑠の枕元まで来ると、そこにきっちりと正座する千明。その間、千明はずっと俯いたままで、丈瑠の方を見ようとしない。そんな千明を丈瑠は床の中から訝しげに見上げる。
 枕元に正座したきり、軽口ひとつ叩こうとしない千明。仕方なく、丈瑠の方から口を開いた。
「千明、俺が昨日言ったことを憶えているか?」
 その声を聴いた瞬間、千明が弾かれたように顔を上げた。そして丈瑠の顔を覗き込む。丈瑠の声は張りがあり、声だけ聴けばもう普段と変わりがなかった。
「お前が行き倒れたことに対する説明をしろと」
「丈瑠!もう大丈夫なのか?」
 丈瑠の言葉を千明が遮る。その瞳にはみるみる涙が滲んでくる。
「………はっ?何を言ってる?」
 丈瑠には千明のこの豹変ぶりが理解できなかった。
「だって………だって昨晩は、丈瑠死にそうだったじゃないか!!」
 もう半泣きどころではない状態になってしまった千明は、そのまま丈瑠の布団に覆いかぶさってきた。
「丈瑠〜、良かった〜」
 丈瑠は苦虫を噛みつぶしたような顔で、しがみ付いてくる千明から顔を背け、黒子が千明を丈瑠の布団から引き剥がした。
「うっうっ」
 それでも千明の嗚咽は続く。
「いい加減にして、俺の質問に答えろ」
 しびれを切らした丈瑠が冷たい声を出した。
 その声に、彦馬と黒子たちが目を細めた。丈瑠のそれは昨夜、彦馬に向かって放たれたものと同じ声音、同じ言葉。だが何かが確実に違う。それは丈瑠を取り巻く者たちにとって、とてつもなく大きな違いだった。







 彦馬と千明のやり取りの末、結局、分かったのは
「千明、お前がおっちょこちょいと言うことだな」
 である。
 彦馬が笑顔で言ったのに対し、
「馬鹿バカしい」
 と、丈瑠はおおいに不機嫌になった。

「千明のお父上が緊急の仕事で渡米された。その時、鉄砲玉の千明の行き先が不明で、連絡もつかなかったので、お父上は自宅に千明宛の書置きを残された。しかし、それを千明は見落とした」
「いや、それは親父視点だし。ちょっと違うかな」
 事態を総括した彦馬に、すっかり元気になった千明が反論する。
「違う?どこがだ?」
「俺視点で言わせてもらえば、家に帰ってきたら親父がいない。まさかアメリカに行ったなんて思わないから、まあ、そのうち帰ってくるだろうと思っていた。だけど、いつまで経っても帰ってこない。家に残ってた食料と手持ちのわずかな金で食いつないでいたんだけど、それも尽きた。7円しか残らなかったんだぜ7円!!」
 意味もなく得意そうな千明。
「それでも二日ほど頑張ったんだけど、もうどうにもならなくなって、それで仕方なく、唯一の頼みの綱である志葉家を目指して歩き始めて………10Km程度だし楽勝だと思ってたんだけど、途中で腹減りすぎて目が回ってきて……昨日の行き倒れになったんだ」
 自分は少しも悪くないと言わんばかりに胸を張って言い訳をする千明。
「なるほど。仕方なくか。仕方なくうちに来たわけだな」
 彦馬がムッとした顔を作る。
「あっ……いやその……そういう意味じゃなくて……」
 狼狽える千明。
 丈瑠は枕の上で、首を振った。バカバカしくてコメントする気にもなれない。

「千明、お前は何事にも対応するのが遅すぎる。お父上に、いや誰でも良い。友達でも何でも、連絡取ろうとは思わなかったのか。残金7円になる前にだ。二週間もあったのだぞ」
 彦馬は呆れ果てるのを通り越して、説教モードに入っていた。
「それがちょうどその日、スマホ落として壊しちまって……それで親父からの連絡も受けられなかったんだけどサ。金もそれほどないから修理にも行けないし、連絡先も全てわかんなくなった。だから家の電話はあるけど、電話番号わからなくて誰にも電話できないし。それに親父も俺と同じで鉄砲玉だから……まあ、どっか行ったんだろうな〜、でもすぐ帰ってくるんだろうって軽く思ってたんだ」
 なんともお気楽な、千明らしい考え方と言うべきか。
「それではせめて、にっちもさっちも行かなくなる前に、志葉家を訪ねて来るという発想はなかったのか?」
「いやだから……親父がそのうち帰ってくると思ってたんだって!それに……」
「それに何だ?」
 言い難そうにする千明に彦馬が先を促す。
「やっぱ、志葉家の敷居は高くて………お勤めもしてないのに金貸してとか飯食わせてとか……なんか頼み難くて」
 丈瑠はため息をつく。
「だから、アヤカシ出て来てくれないかなぁ。そしたら志葉家に駆けつけられるなぁ……とか、ちょっと思った」
 ここで彦馬が千明の頭をはたいたのは、当然だった。
「じょ、冗談に決まってるだろ」
 言い訳する千明だったが、丈瑠はもう、千明の声すら聴いていたくない気分だった。
(子供か?)
 と言いたくなる。平常のモラルと緊急事態の区別がつかないのだろうか。
 ドウコクとの闘いの中で、戦闘に関してはある程度、信頼できるようになったと思っていた千明だった。だが、このような事態を招くところをみると、様々なことに対応する力はまだ不足しているとしか思えない。考え方も幼稚だ。
 しかし彦馬の評価は違ったらしい。
「まあな、そういう風に志葉家を敬うのは正しい」
 と言ったのだ。
 丈瑠は思わず彦馬の顔をまじまじと見つめてしまった。しかし、それに気付かない彦馬は続ける。
「しかし本当にそれが志葉家に来なかった理由か?わしに説教されると思ったのではないか。勉強はどうなっておるのか!とな」
 丈瑠の想定とは別角度からの彦馬の推理。しかしこちらの方が正解だったようで、千明が舌を出す。
 千明の言動に関しては、丈瑠の理解を超えることがしばしばある。しかし今、丈瑠が理解できない状況を千明と彦馬は理解しあっているように、丈瑠には思えた。微かな疎外感にますます不愉快になる丈瑠だったが、それに拍車をかけるように彦馬は千明にやさしく微笑んだ。
「二週間ほど前にお父上から連絡を頂いた折にな」
 えっという顔をする千明。
「お父上は、事情を書いた書置きを、千明名義の銀行口座のキャッシュカードと共に台所のテーブルに置かれたと言われていた。絶対に見落とすことはないはず、ともな。その上で、何かあった折にはよろしくという連絡を志葉家にもして来られた訳だ。お優しい父上だな、千明」
 あまりに優し気な彦馬の様子に、千明は僅かに赤くなる。
「お父上が、多分、千明が困るようなことは何も起きないだろうと仰られていたので、わしもあまり気にかけていなかった。そこはすまなかったな」
 彦馬が軽く頭を下げると、千明が今度は青い顔で首をぶんぶん振る。
「いやいや、爺さんは悪くないよ」
 千明の言いように
(当たり前だ!爺が悪いわけないだろう)
と心の中で突っ込みを入れつつ、思わず顔を掛布団の中に潜らせてしまう丈瑠。彦馬の千明父親評価がなんとも心に引っかかる丈瑠だった。
「それに俺、親父の書置きなら、多分見たし」
「はあ?書置きを見たぁ?」
 しかしこの千明の返答には、彦馬もさすがに呆れたようだ。
「それで、どうして行き倒れになるのだ?」
 畳みかけるように迫る彦馬の剣幕に、千明が思わず座ったまま後ずさった。
「い、いや、見てすぐに捨てたから……。銀行カードは見てない。だいたい俺名義の口座とか聞いてないし、キャッシュカードって暗証番号いるよな?そんなのも知らねえし。もしかしたら、チラシと一緒に捨てたのかもしれないけど……」
「チラシ?」
 思わず布団から顔を出してしまう丈瑠。千明の説明は丈瑠にとって不可解なことばかりだ。
 しかし、不機嫌そうだった丈瑠が口をきいてくれたのが嬉しいのか、千明は満面の笑みになった。
「親父の言うところの『事情を書いた書置き』らしきモノは、チラシの裏に極太マジックで書かれてたんだ。確かに見落としようのないくらい大きく書かれてたよ。でも殴り書きで汚い字だったし、読む意義を感じなかった。それでも、字数少ないから読もうと思わなくても読めちまったんだ。『所用で出かける。帰り不明。あとヨロ』って書いてあった。ホント、その通りに書いてあったんだぜ」
 思わず顔を見合わせてしまう丈瑠と彦馬および黒子たちだった。
「その横にチラシに包まれた何かがあったのは覚えてるけど………まあ、俺的にはゴミと認識した訳だ」
 彦馬がわざとらしいため息をついた。
「そのチラシに包まれたものがキャッシュカードであったろうと?パスワードもそれに書いてあったかも知れぬな」
 彦馬がすぐに黒子に目配せして、キャッシュカードが悪用されていないかを調べるよう伝える。千明名義の口座と言えば、志葉家のお手当が入っている口座と彦馬は見たのだった。黒子が一人、丈瑠の部屋を出て行った。そんな心配を彦馬がしていることも気づかず、
「まあ、そんな訳だ」
 と悪びれない千明。
「はあ」
 丈瑠は再び熱が出てきた気がした。

 千明も千明ならば、千明の父親も多分にお気楽な人物としか思えない。茉子から聞いた情報で想定していた千明の父親像に、大幅な修正を加える必要性を感じた丈瑠だった。







 これで話は終わりとばかりに、嬉しそうにしている千明。
 黒子にじゃれつき、朝食の催促を始めている。
 その姿が、丈瑠にはたいへん気に障った。
 いや、その千明の姿を微笑みながら見ている彦馬にこそ、腹が立っていたのかもしれないが。


「千明」
 丈瑠は目をつむり天井に顔を向けたまま、口を開いた。
「お前、昨日の戦闘でシンケングリーンに変身したよな?」
 丈瑠のぶっきらぼうな声音に、千明がびくりとする。
「……えっ、ゴメン、でも俺」
 千明がおびえたのは、丈瑠の許しなくシンケンジャーになって戦闘に参加したことを非難されると思ったためだ。
「べ、勉強はしてる……よ」
 語尾が震えているのは、その言葉の内容に自信がないためだろうか。しかし丈瑠はそんなところに頓着しなかった。いや、あまりにバカバカしい千明の言葉に、反応したくなかった。だから言いたいことだけを告げる。
「変身したということは、お前はショドウフォンを持っていたのだろう。落としても壊れたりしないショドウフォンを、な」
「あ、う、うん」
 丈瑠の多分に嫌味が混じった言葉。それをおどおどした態度で聞く千明。
「それでうちになぜ連絡してこない。所持金7円になってからでも構わない!行き倒れる前に連絡が来たら、志葉家まで歩いてくる必要もない。黒子が迎えに行ったに決まっているからな!」
「……えっ、?何?ショドウフォン……で連絡?丈瑠に?あ、いや志葉家に?」
「そう。ショドウフォンだ!スマホが壊れても、スマホの電話帳が見れなくても、ショドウフォンならうちに連絡着くだろうが!お前が頼りにする最後がうちだとしてもな!!」
 通話料もかからないぞ!と丈瑠は心の中で叫ぶ。
「あ……あれ……電話……だったか?」
 千明は明らかに取り乱していた。
「そっか。そうだね、ガラケー?いやでも筆?」
「もういい!」
 丈瑠は千明に向かって、布団から手のひらを突き出した。
「え?な、何?」
 戸惑う千明に丈瑠は言い放つ。
「使わないなら返せ、ショドウフォン!」
 かつても、丈瑠から言われたことがある言葉。それを思い出したのか、泣きそうな顔になる千明。
 泣きたいのはこちらだ!と丈瑠は心の中で思った。

 志葉家に泣きつくのが、遅すぎる!
 そんなに志葉家は!
 いや、俺は頼りにならないのか!?

 それが丈瑠の思いだった。
 普段、必要以上に感情の起伏を抑えつけている丈瑠には、慣れない状況だった。その上、体調も万全ではない。

 結局、急激な動作や感情の高ぶりが災いしたのか。
 千明に向かって差し出された手が布団の上に力なく落ちる。
 腹立たしさと情けなさを抱えたまま、発熱と貧血で丈瑠は再び気を失ったのだった。









小説  次話






2017.1.8


お約束通り、早々のUPできました(^^)
丈瑠はかなり元気になってきました♪

そろそろ、次の展開に進む……ハズです。