春 愁 5千明は、食事を終えて風呂に入っている。 丈瑠は、奥屋敷の居室へ行ったきり、戻って来る気配もない。 既に千明の食事の膳も片付けられ、静けさが漂う奥座敷に残ったのは、流ノ介一人だった。 奥座敷の真ん中の板間に正座し、黒子が出してくれたお茶をすすりながら、ぼんやりと丈瑠のいない御座を眺める流ノ介。 どこかから風が抜けてくるらしく、流ノ介の肌は、時折微かな空気の流れを感じた。流ノ介は、見慣れたはずの座敷を、改めて見回した。 ああ。 このお座敷に、こんな風に静かに居たことは、今まで一度もなかった。 志葉家に来て以来、この奥座敷に座る時は、丈瑠が居る居ないに関わらず、何らかの緊張を強いられる場面ばかりであった。こんな風に何をすることもなく、ただぼんやりと座っていたことは一度もない。もちろん流ノ介以外の侍たちが同様だったとは限らないが、少なくとも流ノ介はそうだった。 こんな些細なことですら、ドウコクと闘っていたあの頃。それと今は違う。 それが、今の流ノ介の悩みだ。 ドウコクを倒し、一度は志葉家を離れた流ノ介だった。初めは、闘いが終わった喜びだけが、流ノ介を包んでいた。丈瑠の下に集まる時に捨てた歌舞伎役者としての道を、もう一度歩める悦びに浸っていた。 しかし、侍としての覚悟、死の恐怖をも乗り越えて闘う決意をした流ノ介は、結局、闘いが終わっても、元の生活に戻ることはできなかった。それは、戦場で過酷な闘いをしてきた兵士が日常に戻れない、といった意味のものではない。 一度、目覚めてしまった「志葉家家臣」としての「池波流ノ介」。「シンケンブルー」「侍」としての「池波流ノ介」。それは、三百年の過去から連綿と続く血筋の上に己の生があることの、確信であった。 シンケンブルーになる前も、池波家の長男として流ノ介は、家、血筋というものを意識して育ってきたつもりだった。家系図の中にある存在として、自分を捉えていたつもりだった。それでも、自分は自分と言う「個人」であり、自分は「自分ひとりのもの」であると、どこかで思っていた。しかし、シンケンブルーとして、志葉家家臣として一年間闘い続け、その間ずっと、個人を捨てて生きる丈瑠を、そう生きるより他ない丈瑠を見続けることにより、流ノ介の心の奥底に、今までとは異なる想いが積み重なって行った。 ドウコクとの闘いは、流ノ介にとっては、もう一人の自分の存在証明に他ならなかったのだ。そこで知った新たな自分は、今までの自分よりもずっと重いものだった。それは、ドウコクとの闘いが終わったからと言って、簡単に捨て去ることのできるようなものではなかった。 シンケンブルーとして闘いに赴くことがなければ、知ることのなかった自分。だが、知ってしまった今は、もう知らなかった自分には戻れない。 これは、生きて闘いが終わってみなければ、知ることのなかった悩みだった。 そして気付けば、いつものように 「ふうっ」 とため息をついている。流ノ介は、そんな自分に薄く自嘲の笑みを浮かべたかと思うと、そのままがっくりと首を垂れた。 「………はぁ」 そして俯いたその口から出てくるのは、またもため息。 これではいけない!と、流ノ介は顔を上げて、手にしていた茶碗を横に置いた。そして膝の上に手を置き、深呼吸をゆっくりと繰り返す。しかし、ざわつく心は鎮まる気配もない。やはり駄目かと視線を落とすと、自分の細くて長い指が、知らずGパンに爪を立てていた。 抑えきれない思い。 できない選択。 何を掴んでいいのかすらわからない手。 「私はどうすれば………」 その指をしばらく眺めていた流ノ介だった。やがて流ノ介は顔を上げて、丈瑠の御座を再び見つめる。 「………殿」 そう呟いた途端に、流ノ介の胸の湧き上がって来たもの。 それは、つい数ヶ月前。同じこの場所で、耐えきれぬ想いに慟哭した、あの時のことだ。 「………殿………」 あの時は、丈瑠をそう呼んでいいのかもわからなかった。自分の中に居り合いのつけられないことがせめぎ合っていた。傍からは流ノ介が悩んでいるように見えたかも知れないが、実は悩んでなどいなかったのではないかと、今の流ノ介は思っている。 あの時、流ノ介は思考停止状態だったのではないか。そして、だからこそ、身動きが取れなくなっていた。 「………同じ………か」 あの時も、いまも。 流ノ介は、一人呟く。 「私は、また………同じことを繰り返しているのか」 あの時は、黒子の朔太郎が、流ノ介の思いを後押ししてくれた。だから、一歩を踏み出せた。あの後押しがなかったら、今頃、自分はどうなっていたのだろうか。 あの時、殿が志葉家当主でなくとも仕え抜く、という決心ができなかったら……… 流ノ介は思わず、ぞっとした。 あの時流ノ介は、正当な志葉家の跡取りである薫ではなく、志葉家当主でもなく、ただの「丈瑠」を、どこの誰ともわからぬ「丈瑠」という人間そのものを、自らが仕える者、「殿」として選んだ。それは、あの時の流ノ介にとっては、あり得ない選択だった。しかし、あり得ない選択を、流ノ介の心は望んでいた。 「だが私は、それを自分だけでは、選べなかった」 多分心の底では、選び取るべきものは、とうに決まっていたのだ。決まっていて、それでも選べなかった。自分だけの力では。 「情けない!!」 そう呟いて、流ノ介は首を振る。落とした視線の先の指先が震えていた。 他のシンケンジャーのメンバーは、迷うことなく丈瑠を選んだというのに、あの時、自分だけは選べなかった。 「私は、誰よりも殿のお傍に………殿のお心に沿う者と………ずっと思っていたのに」 自分は、ただ権威だけに沿っていたのか。上辺の肩書、朔太郎に言わせれば、器だけに心を沿わせていたのか。 「私はいったい、何を見て、何を考えて、殿にお仕えしていたのか」 あれほど丈瑠に心酔していたのも、丈瑠が「志葉家当主」という肩書を持っていたからだけなのか。 考えれば、考えるほど、自分が情けなくなってくる。 千明やことはは、もしかしたら、流ノ介とは全く異なる次元で、丈瑠を選んだかも知れない。しかし、茉子は多分、流ノ介と同じ土俵で物事を考えていたはずだ。その茉子が、あれほどあっさりと丈瑠を選んだというのに、流ノ介には選びきれなかった。茉子は、そんな流ノ介の心を知っていたのかもしれない。茉子が流ノ介の傍を離れる時、流ノ介の肩にそっと手を置いたのには、そんな意味も含まれているのかも知れない。 しかし、もしあの時、流ノ介が丈瑠を選ばなかったら、どうなっていたのだろうか。 「いや、私だけのことではなく………」 流ノ介が丈瑠を選ばないままだったら、もしかしたら、ドウコクとの闘いの結末は、全く違ったものになっていたかも知れない。流ノ介は、今初めてそれに思い当たった。 流ノ介は自分の力を過信している訳ではない。ただドウコクとの最終決戦の際、流ノ介がいなければ、それはそれで違う闘いになってしまっただろうことは予想がつく。丈瑠を中心としたシンケンジャーの勢い、流れというものができたのかも不明だし、なにより、ドウコクにとどめを刺したのは、丈瑠ではなく流ノ介なのだから。もちろんそれは、丈瑠が流ノ介より弱いということではないが。 そういう意味で言えば、丹波の「双」ディスクがなくても、闘いは違う結末だったのかも知れない。全ては幾つもの分岐した選択の末にある、たったひとつの結末であり、流ノ介の選択だけが重要だった訳ではもちろんない。しかし、その重要な選択の一つで、流ノ介が迷い、あやうく別の道に行きかけたのも事実だ。 「そんな重要な選択だったのに!私は、いつまでもぐずぐずと悩んでいたんだ………」 朔太郎にも言われた「教科書的な考えしかできな自分」。それは今も続いているのだろう。 だから今もまた、選べないのだ。 この選択も、あの時の選択と同じように、とても重要な意味を含んでいるかもしれないのに!? 流ノ介は、がっくりと肩を落とした。そして床の模様を見ながら考える。あの時と同じで、本当は、心の底では、もう何もかも決まっているのだろうか。選ぶべきものが。しかし、今の流ノ介には、それが何なのかわからなかった。いや、あの時と同じで、わかりたくなかった。 その時だった。 流ノ介の背中で、ガランガランと大きな鈴が鳴った。その音は、聞きようによっては間の抜けた音であった。しかし、その音の意味するところを知っている流ノ介の身体には、一瞬にしてアドレナリンが大量に放出される。流ノ介が振り返ると、座敷の壁で、隙間センサーが激しく揺れていた。 「………っ!?」 流ノ介が中腰になるのと同時に、黒子が二人、座敷に駆けこんできた。流ノ介が隙間センサーから棒を引き出し、その番号を伝えると、黒子が該当の番号が記載されている地図を、流ノ介の前に広げた。その時、今度は丈瑠が座敷に飛び込んできた。 流ノ介の方を向いていた黒子が、丈瑠の方に向きを変える。丈瑠が瞬時に地図の場所を読み取った。 「木挽町か」 「え!?」 丈瑠が頷くと同時に、流ノ介の声が上がる。丈瑠が振り向くと、流ノ介が自分の口を両手で抑えていた。 「………何だ?木挽町がどうかしたか?」 「い、いえ。何でもありません」 流ノ介はそう言うと、さりげなく丈瑠から視線を逸らせた。それを丈瑠が怪訝な顔で見つめる。ほんの数秒、何か言いたそうな顔で流ノ介を見つめていた丈瑠だったが、すぐに流ノ介に背中を向けた。 「流ノ介!お前は来るな」 丈瑠はそう言い置いて、駆け出す。丈瑠の言葉に、流ノ介が目を丸くしたのは、他でもない。 「ま、待って下さい!」 流ノ介は座敷から飛び出ようとした丈瑠の手首を、後ろ手に掴んだ。振り返る丈瑠に、流ノ介は険しい顔で迫る。 「来るなとは、どういう意味です!?」 「お前は………」 「私は、これからも殿と闘い続けると、言ったはずです!」 丈瑠の言葉を遮って、流ノ介が叫ぶ。それに丈瑠が眉を寄せた。 「しかしお前は、もうすぐ舞台があって、今は稽古に集中すべき時では………」 丈瑠のその言葉に、流ノ介が目を見張る。 「そんなことは………」 流ノ介が苦しそうな声を出した。 「今は関係ありません」 そう言って首を振る流ノ介。 「もう………できています。稽古は完璧で、後は舞台に立つだけです。だから、闘いにだって行けます」 言い切る流ノ介。 丈瑠は黙って、流ノ介を見つめた。 戦闘の場に行かねばならない時だというのに、それでも丈瑠は、押し黙ったまま流ノ介を見つめた。さすがにあまりに長い間、丈瑠にみつめられた流ノ介が、居たたまれなくなってくる。 「………殿?」 「本当か?」 流ノ介が堪らず声を上げると同時に、丈瑠が疑問を呈した。それに流ノ介は再び、目を見張る。 「………えっ?」 「稽古が完璧とは、本当なのか?」 繰り返された質問に、流ノ介は思わず叫びそうになる。 「ほ、本当です!!殿は、私の言葉を疑われるのですか!?」 本質的に、丈瑠は流ノ介を信頼しているはずだ。それは今も変わりがないはずなのに、こんなにはっきりと流ノ介の言葉を否定されてしまうとは。そう思って放った流ノ介の言葉だったが、丈瑠の視線は少しも揺るがなかった。 「稽古が完璧。そんな稽古があり得るのか?………と、俺は聞いている」 眉をひそめて言われたその言葉は、まっすぐに流ノ介の心に突き刺さる。 「どれだけの稽古をしても、足りないと言うのが、普通なんじゃないのか?稽古をして稽古をして、それでも望むところには程遠い。だから稽古をまたやり直す。………俺は剣のことしかわからないが、それでも、こういうことは、剣の道も芸の道も、同じなんじゃないのか?」 丈瑠は己の信じるところを告げ、流ノ介を射抜くような目で見つめた。 「俺は、そういう稽古しか知らないし、完璧な稽古なんて、聞いたこともない」 丈瑠の言葉に、硬直する流ノ介。 「それともお前は、誰も到達できないほどの高みに既に到達し、もうそこからどこへも行く必要がない。だから言えるのか?稽古が完璧だ、などと?」 しかしそんな流ノ介よりも、流ノ介に向き合う丈瑠の方が、辛そうに見えた。 「………そうでないのならば………流ノ介」 流ノ介を射抜くほどの険しい視線なのに、丈瑠のそれは、哀しそうにさえ見えた。 「稽古が完璧だなんて言った瞬間、言った者は、その道を進む資格を失うのではないか?」 それは、まさしく今の流ノ介の状態を言い当てたに等しい言葉だった。それが、流ノ介にはよくよく判っていた。何か言おうとする流ノ介だったが、その口からは何の言葉も出てこない。それどころか、身体の全てから力が抜けて行くような気すらする。 「それに、舞台の準備の話だけじゃない。どれほど完璧にできていたとしても、戦闘で怪我をしたらそれで舞台は終わりだろう」 丈瑠がそれを言い終わらない内に、流ノ介は耐えきれずに、丈瑠から顔を背けた。流ノ介も、もちろん考えていたことだ。外道衆との闘いで怪我をするのは、珍しいことではなかったのだから。 丈瑠の手首をつかむ流ノ介の手から、力が抜けて行く。微かに震えてもいる流ノ介のその手を、丈瑠はみつめた。 「………流ノ介」 流ノ介に掴まれた手首を軽く返しながら、丈瑠が呟く。丈瑠の手首から、力を失った流ノ介の手が外れる。流ノ介は唇を噛みしめた。何も言えず俯く流ノ介。そんな流ノ介を見つめる丈瑠の顔に表情はなかった。しかし傍に立つ黒子から見れば、丈瑠のその顔は、あまりに切なく思えた。 隙間センサーが鳴ったのだから、本来であれば、丈瑠たちは何をおいてでも、闘いの場へ急行しなければならないはず。しかし、それを誰よりも実践してきた丈瑠が、今、流ノ介の前から動こうとしなかった。黒子も丈瑠の思いを察して、決して丈瑠を急かしたりはしない。丈瑠は暫し、流ノ介の様子を注意深く見つめ続けた。けれど流ノ介は、床を見つめたきり、動こうとはしなかった。 「………流ノ介」 残念だが、これ以上は待てない。丈瑠はそんな思いで、改めて呼び掛けた。 「お前が今、本当にしなければならいことは、何なのだ?」 丈瑠は、これから闘いに向かうとは思えないほど、静かな声で問う。 「俺は、お前がしなければならないことが、何なのかは言えない」 その言葉に、流ノ介が俯いていた顔を上げて、丈瑠を見た。その流ノ介の瞳に微かな不安を見てとった丈瑠は、ため息をついた。 「俺がそれを………お前がしなければならないことを言えないのは………俺は、お前が何をなすべきなのか知らないからだ」 流ノ介の瞳が、何かを問うように細くなる。そんな流ノ介の表情を見ながら、丈瑠は続けた。 「それは、お前しか知り得ないこと。他の誰も、お前にそれを教えることなどできない。だが何を選ぶにしろ………」 丈瑠は、そこで意識的に語気を強めた。 「やるならば、中途半端はやめろ!」 流ノ介がびくりと身体を振るわせる。丈瑠は、そんな流ノ介に詰め寄るように、一歩前に出た。 「中途半端は、迷惑だ!!」 流ノ介の顔が青くなって行くのを見ながら、それでも丈瑠は言った。 「俺だけじゃない。誰にとっても!迷惑なはずだ!!」 それだけ言うと、丈瑠はぱっと身を翻す。そして、流ノ介を置いたまま、外道衆との闘いの場へと駆け出した。 小説 次話 2010.09.18 |