志葉家の夜は暗い。 都心にあって、これほど暗い場所も珍しい。もし上空から志葉家を見ることができたならば、光り輝く都心の中に、ひときわ深い闇に包まれている一画が目についたことだろう。 志葉家の敷地は広く、また、敷地の外周には高い塀と木々が配置されているため、外部からの光は届かない。屋敷内はもちろん明るいが、その灯りが届かない場所は、今も、三百年前からの夜の闇、そのままであった。都心にあるにも関わらず、志葉家は、山の中の一軒家に近い状態なのだ。 その上、志葉家の庭には、灯りがあまりない。表門から玄関に至る辺りは別として、その他の広大な敷地では、要所要所に配された灯篭のぼんやりとした灯りが、周囲を照らしているだけなのだ。だから、夜に志葉家敷地内を歩く時には、提灯か懐中電灯が必須だった。 そんな闇に沈んだ、夜の志葉家。 その志葉屋敷の中でも、奥深い場所にある、丈瑠の私室。 そこで丈瑠は、一人座布団の上で、ぼんやりしていた。 丈瑠の手には、千明から渡された『銀河英雄伝説』の台本があった。しかし丈瑠は、もう随分前に、それからは興味を失っていた。 台本は厚く見えたが、読むのに、そう時間は掛からなかった。その上、千明が何度も言っていたように、『ラインハルト』の台詞はそれほど多くなかった。相手の台詞に合わせて、適当に頷いていれば、それでなんとかなりそうな場面も多く、丈瑠は一安心したところだ。 黒子が用意してくれたお茶を飲み干すと、一気に緊張が解ける。そうして気が緩むと、今度は、今回の騒動で忘れ去っていた、様々な問題が気になって来たのだった。 千明がいきなり、このような劇をやりたいと言い出した、そもそもの理由とは、何なのだろうか。丈瑠は、台本を見つめる。 『丈瑠のために、俺が書いた脚本なんだから!!』 千明はそう言っていた。 多分千明は、丈瑠の今の想いを、この重苦しい胸中を知っているだろう。 丈瑠は台本を閉じると、立ちあがって縁側に進む。そして、長く延びる縁側に並ぶガラス戸を通して、庭を見つめた。 丈瑠の部屋の前の庭は、低い柵に囲われた小さな庭だった。小さいと言っても、剣やモヂカラの練習ができるほどの広さはあった。五月には鯉のぼりが立てられ、七月には笹飾りが飾られ、夏ともなれば水遊びもした。幼い頃から彦馬と共に過ごしてきた、馴染みの庭だ。 そこには、小さな灯篭がひとつあるきりだったが、ガラス戸を通した室内の灯りに照らされて庭は薄ぼんやりと明るかった。 しかし、柵の向こうに目を移せば、枯れた芝生が敷き詰められているそちらの広大な庭は、目の前の庭よりもずっと暗かった。その広大な庭の中央には、人の背よりも巨大な灯篭が鎮座している。そこから漏れる光は、目の前の小さな灯篭の灯りより、何倍も明るいはずだった。けれども広い庭は、それだけでは明るくならない。 幼い頃、庭に面した廊下を夜に歩く時などは、遠くに見える闇が怖くてたまらなかった。そんな時丈瑠はいつも、彦馬の手を握りしめ、彦馬の影に隠れるようにして歩いたものだ。 丈瑠は、目の前の戸のガラス表面をそっと指でなぞった。縁側に沿って並ぶガラス戸に、遠い昔に入れられたガラスは、今のものとは違い、歪みがある。歪んだガラスを通して見る柵の向こうの灯りは、幼い頃に見た印象とは異なり、不思議とやさしく揺らいで見えた。 その闇に浮かぶ小さな光の中に、遠い昔の彦馬と幼い自分の姿が見えてくるような気がする。 あの頃も、外道衆との先の見えない闘いの日々が続いていた。襲ってくる外道衆は、幼い丈瑠には、それは怖ろしい化け物に見えた。自分を守り闘う彦馬や黒子たち。彼らに守られながらも、幼い丈瑠は知っていた。いつか自分は、この怖ろしい化け物を倒すシンケンレッドに、ならなければならない。しかし本当に、そんな者に自分はなれるのか。なれなかったら、いつか彦馬や黒子、そして自分も殺されて、この世は化け物に支配される世界になってしまうのだろうか。 幼い丈瑠にとっては、見えない未来への不安と恐怖に押しつぶされそうな毎日だった。 それなのに、あの日々が、今の丈瑠には懐かしくて仕方なかった。 不安と恐怖の毎日ではあったけれど、彦馬や黒子と過ごした日々には、楽しいこともたくさんあった。 それに、どんなに怖くて辛い時でも、彦馬の胸に抱かれれば、全てを忘れ安心することもできた。 彦馬は厳しかったけれど、優しくもあった。丈瑠のことをなにより一番に考えてくれているのが、よくわかった。どんなに叱られた後でも、彦馬が丈瑠を見捨てることは絶対にないと、無邪気に信じていられた。 丈瑠の頭の中に、この志葉屋敷で過ごしてきた長い日々の思い出が一気に噴き出してくる。 丈瑠は深く息をついた。そして瞳を細める。 本当は、こんなことを考えたくもないのだ。 本当は、何もかもに蓋をして、知らない振りをして、今までと同じ生活を続けて行きたいのだ。 志葉家をよく知る人々は、外道衆を倒すためだけに生まれ、死んでいくかに見える志葉家当主の生き様を、哀しいと思うかも知れない。 しかし今の丈瑠は、むしろ、それに縋りついて生きて行きたかった。 幼くして志葉家に入ったその時から、彦馬に叩きこまれた習性が、丈瑠にそうさせるのではない。外道衆と闘うことしか能のない丈瑠には、他に生きる手段がないから、そうしたいと望んでいる訳でもない。 ただ、切実に。 丈瑠は、自分がこの世に在るためには、ここにいるしかないのではないか、と怯えていた。 この怯えには、なんら明確な理由がある訳ではなかった。 しかし丈瑠は、誰に教わるでもなく気付いていた。ここにいなければ、自分は自分ではいられないのではないかと。 一方、丈瑠のそんな望みとは関係なく、今回のブレドランとの闘いで明らかになってしまったこともある。 ブレドランの闘い以降、丈瑠の脳裏に深く刻み込まれた思い。 外道衆を倒すことが宿命の志葉家の当主が、外道に堕ちるなどという馬鹿な話はない。 それが、敵に洗脳され、操られてのものだったとしても、本来なら有り得ないこと。そんな有り得ないことがおきてしまったのは、やはり自分には、志葉家当主としての資格がないからではないのか。 本当に、このまま志葉家十九代目当主として、在ってよいのか。 薫が当主の座を退いた表向きの理由は、封印の文字がドウコクに効かなかったという、ただそれだけだ。それならば、封印の文字を一人では使いこなせない自分は、どうなのだ。 そしてなにより、一時であろうとも外道に堕ちた者が、いつまでも当主の座にいていいものなのか。そんなことが、志葉家三百年の歴史の中で、許されるものなのか。 いや、それどころか、もっと酷いこと………最悪の事態も起こり得る可能性がある。 いつか自分は、敵に操られたりしていなくても、闇に囚われてしまうかもしれないのだ。自ら、闇と同化してしまう日が来るかも知れないのだ。 そして………その挙句に………いつかこの手に持つ剣が、守るべき人々の上に振り降ろされるとしたら……… 丈瑠は身震いをした。 怖かった。今までのなによりも、怖かった。 ガラスの上に置かれた手が震えて、カタカタと小さな音をたてる。その音を誰かに聞かれたくなくて、丈瑠はもう一方の手を、その手の上に重ねた。しかし、歪んだガラスがたてる音は止むことはなかった。 丈瑠は両手を重ねた上に額をつけて、目を閉じる。すると今度は、思い出したくもない光景が脳裡に浮かんできた。 十臓との最期の闘いでも、闇に堕ちかけた丈瑠。 それを救ってくれたのは、志葉家家臣の侍たち。 志葉家家臣として正当な血筋にある彼らは、丈瑠と違って、外道に堕ちるなどと言う心配は有り得ないのだろう。そんな家臣だからこそ、丈瑠を救うことができた。 しかし、外道に堕ちることなど有り得ない彼らは、道を踏み外しそうな丈瑠を、どう思っているのだろうか。 そして、今回のブレドランとの闘いでは、本当に外道に堕ちてしまった丈瑠。 志葉家関係者だけではなく、護星天使までも、巻き込んで迷惑をかけてしまった。事情をよく知りはしないのだろうが、護星天使たちは、外道に堕ちた丈瑠を、どう理解したのだろうか。 そして、再び道を踏み外した丈瑠に、侍たちはどんな思いを抱いたのだろうか。 丈瑠は想像するのも怖かった。 誰よりも強い志葉家当主で在りたかった。だからドウコクを倒した後も、鍛錬を続けてきた。しかし今、それが徒になった。誰よりも強い志葉家当主が外道に堕ちた時、どんなことが起きるのだろう。世界はどうなってしまうのだろう。 丈瑠の思考は、いつもそこで停止してしまいたがる。 でも思考停止した頭は、また別の映像を脳裏に浮かばせる。流ノ介や千明の、眉をひそめた顔。源太の心配そうな顔。そして、茉子やことはの顔は、思い出すのも苦しい。 茉子やことはが、先ほど慌ただしく帰宅したのは、こんな自分と共に居たくないからではないか………などという考えが、頭を掠る。茉子やことはが、例え何を思っていたにせよ、表面上はそんな態度を取るはずないことがわかっていても、そう思ってしまう。 終いには、夕食後、話す間もなくそそくさと部屋に下がってしまった流ノ介にすら、同じような思いを抱いてしまう。こうまで自虐的に考えてしまうのは、丈瑠が後ろめたくて仕方ないからだった。 いったい自分はどうしたら、いいのだろうか。 答えを見つける気もなく、丈瑠はそう思う。 そうだ。丈瑠には、答えを見つける気はなかった。何故なら、流ノ介と同じように、丈瑠は答えをもう知っていたから。 丈瑠は縁側から、部屋を振り返った。 座布団の横に置かれた、千明の作った台本。 それを読めば、千明の言いたいことは判る。 たぶん千明は、『銀河英雄伝説』の『ラインハルト』と丈瑠を対比させたいのだろう。 それはきっと、こんなことなのだ。 『銀河英雄伝説』の『ラインハルト』は、銀河帝国を支配しているゴールデンバウム王朝を倒すことを望んでいた。 ラインハルトには、ゴールデンバウム王朝の支配する銀河帝国が、公正さに欠けた腐った世界に見えたからだ。そして、それは真実だった。ゴールデンバウム王朝は、多くの民衆の犠牲の上に成り立っている国家だったのだ。ラインハルトは、そのような帝国を自らの手で正そうとした。それこそ、正義の味方だ。 ここまでのラインハルトに、何ら問題はない。 丈瑠だって同じだ。外道衆に理不尽に踏みにじられる人々を救うために、平和に暮らす人々を脅かす外道衆を倒すために、志葉家十九代当主、志葉丈瑠は存在するのだ。 次にラインハルトは、自分の理想世界を実現するために、銀河帝国の覇権を得ようとした。そのために次々と戦争で勝利をあげ、大きな力を得て行く。 ここも、丈瑠と通じるところだろう。 千明は知っている。志葉家十九代目当主に就いてから、丈瑠がある考えに執着していたことを。外道衆を倒すべき志葉家当主は、あくなき強さへの追及をしていくことが大事なのだ。そして、この世の誰よりも、何よりも強くなること。これこそが、この世の平和に繋がるのだ、と丈瑠は固く信じていた。 ドウコク並みの力を持ったアヤカシだろうと、何万のナナシだろうと、自分一人で倒せるほどになる必要があると考え、丈瑠は必死に稽古を続けて来た。そして、それなりの力を得つつある。 これにも問題はないはずなのだ。その力が正しいことに使われている限りは。 しかしラインハルトは、自らの覇権を確立するのを急ぐあまり、やがて間違った道に足を踏み入れてしまう。 民衆のための国を作るはずなのに、その国を作る途中で、民衆に犠牲を強いることを良しとしたのだ。 これも、見方を変えれば、丈瑠と通じる。ラインハルトは、民衆を苦しめるゴールデンバウム王朝と言う闇を払うために、いままで努力して来たはずなのに、いつの間にか、ゴールデンバウム王朝と同じ闇に囚われてしまったのだ。 目的のための手段が、目的そのものを損ねてしまった。本末転倒。きっと、こういうことのために、ある言葉なのだろう。 そして、丈瑠も同じだ。 外道衆を倒すための志葉家当主が、外道衆を倒すための力、剣の腕を磨き続けている内に、やがて目的も道も失ってしまう。そして、知らない内に外道に堕ちた丈瑠は、やがて外道衆を倒すための力を、守るべき人々に向かって振るうのだろう。 丈瑠は、思わず目を瞑る。 想像するだけでも、背筋が凍りつきそうだった。 ブレドランとの闘いの後、考えごとは、いつもこの結末で終わる。そこから先がない。そこから先は、今の丈瑠には、考えたくもないことなのだ。 それでも、いつかは考えなくてはならないだろう。その先のことを。自分が、何を為すべきなのかを。 千明が、丈瑠に『ラインハルト』を演らせるのは、ラインハルトが間違ったことの追体験を、丈瑠にさせたいからなのか。それとも、『ラインハルト』のように、あんなことがあっても、前を向いて生きて行くやり方もあるのだと言いたいのか。 後者なのだとしたら、その後、舞台の後の物語の中で、ラインハルトはどうなって行くのだろうか。ラインハルトの結末を知っていて、千明はそう言うのだろうか。 道を踏み外したラインハルトは、それでもいつか、自らが望んだような理想の帝国を築き、人々を幸せに導くことができるのだろうか。 そうしたら、見殺しにした人々も救われるのだろうか。その時、ラインハルトの罪は赦されるのだろうか。 次から次へと湧いてくる疑問。 丈瑠には、どうしても、あのラインハルトの話の先に、幸福な世界など想像できなかったのだ。 それにしても、見殺しにした人々のことに苦しむラインハルトが、叫ぶ言葉。 「仕方がない。他に方法がなかった」 これも、今回の事態に対する千明の結論なのだろうか。 千明は、この舞台を見て、こう思ったのかも知れない。 「ラインハルトは悪くないよ。悪いのは、ブラウンシュヴァイク公爵じゃないか。ラインハルトがそんなに絶望する必要はない」 千明なら、考えそうなことだと、丈瑠は苦笑する。そしてそれを丈瑠に当てはめれば、こうなるのだろう。 「丈瑠。仕方ねぇよ。だって全部、ブレドランの陰謀だったのだから。丈瑠が外道に堕ちたのも、外道シンケンレッドになって俺たちと敵対したのも、丈瑠のせいじゃない。全部、ブレドランのせいだ」 千明はそう言いたいのだろうか。 そして、丈瑠にもそう納得して欲しいとでもいうのだろうか。 「そんなことで………納得できるはずもない」 丈瑠は薄笑いを浮かべたまま、一人呟く。 俺のやったことは、どこまでも俺の責任だ。 闘いの結末がなんとか良い方についたからと言って、それで許されることではない。志葉家当主という、侍たちの上に立つ立場の者が、そんな言い訳で、自らの失態から逃れられるはずもない。 そして、それだけではない。怖いのは、その先。 まさしく、ラインハルトのように、自らの力を、守るべき人々に向けてしまった時。つまり外道となったシンケンレッドが、戦闘を専門とする人々だけでなく、普通の人々に向かった時、世界はどうなってしまうのか。 「それだけは、絶対にあってはならないこと」 丈瑠はそう思う。 けれど今の丈瑠には、自分がそうならない自信がなかった。 「そんなことになるくらいなら、俺は………」 丈瑠は、ガラス戸を背にしたまま、縁側に暗い目を落とした。 そんなことになるくらいなら、志葉家当主としての自分が為すべきことは、何なのか。 『何故、未だにこんなに苦しいのだろうか』 丈瑠は、自分の私室のある奥屋敷から中屋敷を通り抜け、表屋敷に通じる暗い廊下を歩きながらそう思った。 『もう、俺の気持ちは決まっているのに』 外道に堕ちた者として、丈瑠が出せた結論は、ひとつしかなかった。ひとつだとしたら、迷う必要もない。それなのに、こんなに苦しいのは、何故なんだろう。 子供の頃なら、こんな時でもすぐに楽になる方法を丈瑠は知っていた。 しかし今、それはできない。できる訳もない。 幾重にも、期待を裏切って来たであろう自分には、もうそんな資格はないのだ。 そう想いつつも、面影を追ってしまう丈瑠。 自分の足が向かっている先がどこなのか。 行けるはずもない人の所に、まさに今、丈瑠は行こうとしているのではないか。 行ってどうなるものでもないだろうに。 丈瑠は、立ち止まる。 そして、表屋敷の母屋の中央を貫く畳廊下を見つめた。その先にいるであろう人を思えども、それ以上足を進めることはできなかった。 丈瑠は俯き、壁にもたれる。 『………爺』 声にならない声が、丈瑠の頭の中に響き渡る。 『爺!』 幼い頃ならば。 いや、立派な志葉家当主でいられた間ならば、何遠慮することなく呼べたのに。 『爺、俺は………!!』 声にできない分、心の底で何度も叫んでしまう。助けを求めてしまいそうになる。 その時、廊下の奥で襖の開く音がした。どきりとした丈瑠は咄嗟に、横に伸びる別棟に渡るための渡り廊下に、身体を滑り込ませる。 中央の廊下に一筋の光が差し、潜めた話し声が聞こえてきた。 「………殿は、もうお休みになられたのか」 包み込むような、暖かい声音。どれほどまでに、丈瑠が聞きたかった声だろう。彦馬の部屋の前に跪いた黒子が、それに頷いている。 「そうか。いや、空耳か」 寝巻をきた彦馬が、あごに手を当てて、首をかしげていた。 「今、殿がわしを呼ばれたような気がしたのだが………」 これを聞いた瞬間、丈瑠は息が止まりそうになった。 心配そうに首を傾げる黒子に気付いた彦馬が、手を振る。 「ああ。いやいや、気にしなくても良い」 そして、廊下は再び暗くなった。黒子が、丈瑠のいる方向に歩いてくる。 『爺!!』 心の中で叫びながら、丈瑠は渡り廊下のさらに奥に、身を隠した。もう深夜のために、渡り廊下にも灯りが灯されていなかった。 黒子が通り過ぎたのを確認した後も、丈瑠は渡り廊下の壁に張り付いたまま、ずっとそこに立っていた。 どれほどの時が過ぎたのだろうか。いつまでも、そんな場所に立っていても仕方ない。やっとそう思えた丈瑠が、ふと背中を振り返る。そこには、外の闇と一体化する渡り廊下が続いていた。 離れに向かう渡り廊下は、途中から壁がなくなり、柱と屋根しかなくなる。渡り廊下に敷かれた板は黒いために、そこは、本当に闇に向かって延びているように見える。しかし、そんな渡り廊下が丈瑠はまったく怖くなかった。むしろ、その闇に吸い込まれて行きそうな暗さが、心地よいとさえ思えた。 幼い頃の自分との、明らかな違い。それは果たして、自分が強くなった証なのだろうか。 それとも、先ほど丈瑠が隠れたように、闇は何もかもを見えなくしてくれるからなのだろうか。醜くなってしまった己の姿も心も、この世界から消し去ってくれるからなのだろうか。 今、丈瑠は、幼いころとは全く違う意味で、闇に近づきたくないと思った。 丈瑠は自分のそんな想いを振り切って、渡り廊下の闇に足を踏み入れる。その廊下の先が、剣道場へと繋がっていることを思い出したからだ。 いくらか進むと、剣道場の窓から漏れる光が闇を薄くしていた。丈瑠は、ほっと溜息をつく。源太もアラタも、まだ起きて作業をしているらしい。もしかしたら徹夜覚悟の作業なのだろうか。 丈瑠としては、本当はアラタには寝ていて欲しいのだが、例えアラタが起きているのだとしても、丈瑠は今、どうしても源太に会いたいと思った。 渡り廊下の突き当たりにある剣道場への板戸をそっと開けると、そこには暗い板間が拡がっていた。そこは、剣道場の玄関とでもいうべき場所だった。外部から直接剣道場に入るための土間もあるし、渡り廊下とも繋がっている。その場所から数段の幅広い階段の向こうに、道場へと続く杉で編まれた引き戸があったが、そこはぴったりと締め切られていた。 丈瑠は杉の引き戸の取っ手に手を掛ける。しかし、すぐには開けられなかった。 「俺は………ここに、何をしに来たんだろう」 唐突に、丈瑠の胸に湧き上がってきた疑問。 深夜の屋敷を彷徨い、彦馬の部屋に通じる廊下の前で引き返した丈瑠が、ここに何をしに来たのか。もちろん、丈瑠には判っていた。 自分の情けなさが悔しかった。自分が目指してきた、誰よりも何よりも強いシンケンレッドとは、こんなものだったのかと思い知る。 鍛えるべきは、剣の技やモヂカラの大きさではなかったのかも知れない。 本当に鍛えるべきは、己の心だったのか。 どれほどに力があろうとも、そこに心がなければ、それはただの凶器でしかない。そんなことは、彦馬に初めて竹刀を持たされたその時から、厳しく諌められてきたことではなかったのか。 「俺は源太に………何を期待しているんだ」 丈瑠の手が、引き戸から離れる。力なくうな垂れた丈瑠は、そのまま後ずさった。丈瑠は、源太に会う決心もつかず、引き返すことにする。丈瑠は、源太に気付かれないように、そっと剣道場を後にしようとした。 「丈瑠?何してんの?」 振り返ったその場所で、顎の下からにゅうっと延びてきた顔に、丈瑠は度肝を抜かれた。 よくよく見れば、剣道場の暗い玄関たたきに立つ人影。 「………アラタ…か?」 「うん」 アラタはそう言うと、慣れた手つきで壁のスイッチを押して、剣道場の玄関の灯りを点ける。突然の眩しさに目が眩んだ丈瑠は、目の前に手を翳した。 「なんで、こんな時間に外をうろうろしてる………」 目を瞬きながら呟く丈瑠に、アラタは靴を脱ぎながら、コンビニの大袋を差し出した。 「夜食買って来たんだよ。源太が腹減ったって、煩いから。ここ、コンビニ遠いよねぇ。あっ、丈瑠も食べる?」 ただ首を振るだけの丈瑠。それをアラタは、おもしろいものでもみつけたような顔で見つめる。 護星天使たちの仲間内の日常では、なかなか主導権が握れないアラタだった。しかし、何故か丈瑠に対しては、主導権が握れそうな気がした。 丈瑠は威厳はあるし、リーダーシップもある。しかし、日常生活的にはどうも反応が鈍い気がした。無口なだけでなく、いろいろ考えすぎるのだろうか。 千明や流ノ介たち侍は、なんだかんだ言っても、殿さまとしてあがめている分、丈瑠に遠慮がある。けれどアラタには、そんな義理はない。 「そう?残念。コンビニのお菓子って、結構、おいしいんだけどね」 にっと笑って見せたアラタは、そのまま丈瑠の手首を掴むと、剣道場へと続く引き戸を勢いよく開けた。 「あ!おいっ」 抗議をする間もなく、丈瑠は剣道場の中に、押し出されてしまう。 「たっだいまーーー」 まるで我が家に帰って来たかのような、アラタの声に振り返ったのは、残念ながら源太ではなかった。 「おっかえりー!だけど、すっげー遅かったじゃないか……って、あれ?丈瑠かよ。何だよ」 迎えてくれたのは、千明の怪訝そうな顔だった。 「あっ………いや、俺は………」 取り繕おうとする丈瑠の言葉を待たずに 「こんな時間に丈瑠ってば、そこんとこの廊下で、ずっとうろうろしてた」 アラタがわざとらしくそう言いながら、剣道場の玄関を指差す。丈瑠は再び、驚いた顔でアラタを見つめる。 「ねっ。黒子さんから隠れたり、渡り廊下の壁にやもりみたいに張り付いたり。丈瑠ってば、うろうろしてたでしょ」 ウィンクするアラタに、丈瑠は呆然とするしかない。アラタは丈瑠の行動をずっと見ていたのだろうか。 「はぁ?渡り廊下でうろうろ………って、何してんだよ、丈瑠は?こんな深夜に」 千明はそれだけ言うと、すぐに丈瑠とアラタに背を向けて、何かをやり始めた。何も言えなくなってしまった丈瑠の肩を、アラタが叩く。振り返った丈瑠に、アラタは悪戯っぽい笑みを見せた。 「うろうろしてたのは、お互い様だよね」 それだけ言うと丈瑠を置いて、アラタは剣道場の中に入って行ってしまった。 入口に立ったままの丈瑠は、そこから剣道場を見渡した。 中央にデータスとダイゴヨウがいた。その間に源太が座り込んで、なにやら難しい顔をしている。源太の周りには、よくわからない工具類や、計測器のようなものまであった。集中して作業しているらしく、源太は、丈瑠が入ってきたことにも気付いていないようだった。 その作業場のようなエリアの外に、千明が座っていた。千明は、源太の作業を見守りながらも、自らは、別の作業をしている。 「解析とやらは、順調なのか」 丈瑠は千明の横に座り込んだ。それに千明は肩を竦める。確かに、聞かなくても源太の顔を見れば、判る話だ。 「なんかサー、悪いところ、全然みつかんないらしいぜ」 千明はそう言いながらも、手を休めることなく作業を続けていた。丈瑠は、千明の手元を覗き込む。それに気付いた千明が 「丈瑠も暇なら、手伝いな」 と言って、バサッと紙の束を丈瑠によこした。 「………えっ?」 渡された紙を見ると、そこには見事な毛筆で、なにやら書かれていた。 「これは、お姫さま改稿の脚本」 千明はそう言うと、丈瑠に渡した紙の一部を取り返し、床に置いて半分に折って見せた。 「こんな風に、それを半分に折って。俺は、折った奴を順番に並べるから」 丈瑠は目を丸くする。 「………えっ。もうできたのか?」 「いや、まだ途中だ」 丈瑠の疑問に答えた声は、丈瑠の背中からした。 驚いて振り返った丈瑠の視界に入って来たのは、薫その人だった。 小説 次話 BGMは「届かぬ想い」で、どうぞ(^^) 2011.06.27 |