「ひ、姫!?」 剣道場の入口に立つ薫の姿に、丈瑠はうろたえた。深夜の男ばかりの剣道場に、薫が来ていいのだろうか。そんな丈瑠の後ろで、アラタがわざとらしく首を傾げた。 「姫?………って、丈瑠にとっては、お母さんじゃなかったっけ?」 びくりと首を竦める丈瑠。それにちらりと目をやった後、薫が答える。 「その通りです、アラタさん。私は丈瑠の母親です」 なんのためらいもなく言い切る薫の言葉には、アラタも二の句が継げない。 ここまではっきり言われてしまうと、どうみても丈瑠より年下の薫が、どうして丈瑠の母親になり得るのか、という疑問も、どうでもよくなってしまう気がした。もともと何ごとにも適当なスカイックの特性が、発揮されただけなのかも知れないが。 薫は美しい所作で、剣道場の正面に向かって一礼すると、剣道場に足を踏み入れた。後ろに裃黒子をつき従えたまま、剣道場の真ん中を進む。剣道場の正面、一番奥には、剣と武の神、二柱の神名が書かれた掛け軸の掛かった神床がある。掛け軸は江戸時代から、この剣道場を見守っている古いものだ。その前の一段高くなった板間に上がる時、もう一度礼をしてから、薫は裃黒子がすかさず差し出した分厚い座布団に座った。 薫に付いて来た裃黒子は二人いたが、丹波の姿はどこにも見あたらない。もう深夜だ。戦闘態勢をとっている時でもないので、丹波は寝てしまったのだろうか。 丹波がいないと判った途端、気が楽になる気がするのは、丈瑠だけでなかった。剣道場の入口を気にしていた千明が、丹波は来ないらしいと判った途端に、スキップを踏みそうな勢いで薫の前にやって来た。そんな千明に 「次の場面だ」 と、薫は半紙の束を差し出した。それを一旦、裃黒子が受け取り、千明に渡す。 傍からは見れば、そんな手順が、薫と侍たちの間の距離を感じさせた。 しかし、半紙を受け取った千明は、それを感じていないのか 「りょーかい!」 と、最敬礼の真似までして、明るい笑顔で応える。千明はそそくさと、先ほどまで座っていた場所に戻ると、半紙の束の内容を読み始めた。それを見た薫は、満足そうに、ちいさく頷いた。 裃黒子は薫の用事が済んだと見るとすぐに、薫にお茶を差し出した。薫もそれを受け取り、味わいながら飲む。夕食後、休む間もなく机に向かっていた薫にとって、喉を潤してくれるそのお茶は、本当に美味しかった。 どうやら、改訂版を千明が読み終わるまで、薫は剣道場で待っているつもりのようだ。しかし、元の脚本と見比べながら読んでいるので、千明が読み終えるまでには、それなりの時間が掛かりそうだった。 深夜の志葉家の剣道場。 今、そこにいるのは、データスとダイゴヨウの解析に我を忘れている源太。それを見守るアラタ。薫の書いた脚本を読む千明。千明が読み終わるのを待つ薫。薫に仕えている裃黒子二人。そして、何もすることがない丈瑠、だった。 千明が脚本を読む姿や、源太が脇目もふらずに解析に取り組む姿を、薫はじっとみつめる。そうしていると、自然に笑みが湧きあがってきた。 「こういうのは、いいな」 心の中で呟く。 真実の志葉家十八代目当主として表に出てくるまで、薫は、自分がこんな暖かな気持ちで、志葉家家臣である侍たちを見つめる日が来るとは、思ってもみなかった。 かつての薫は、ドウコクを倒すこと、それしか頭になかった。 志葉家十八代目当主となるべき薫には影武者が立てられていて、ドウコクはその影武者に任せておけばいい。薫は志葉家の血筋の存続のみを考えろ。丹波に、何度そう諭されても、薫はそれを承服することができなかった。 薫は丹波の反対を振り切って、自らに厳しい鍛錬を課した。外道衆やドウコクと現実に闘っているのは薫ではないのに、自分だけが志葉家の生き残りとして外道衆と闘っているような気にもなっていた。そして、いつも何かに追い立てられるように、修行に励んでいた。 やがて厳しい訓練の末、自らのモヂカラや戦闘力に自信が持てるようになると、丹波も薫に協力してくれるようになる。封印の文字の秘密を教えられたのも、丹波からだった。そうなると薫の視界はさらに狭まり、ただひたすら、封印の文字の習得に没頭する毎日となった。その頃にはもう、自らの封印の文字でドウコクを封印すること、それで志葉家の、父の、仇を討つこと。それしか、薫は考えられなくなっていた。 あの頃の薫にとって、シンケンジャーの侍たちは、志葉家の家来、当主が闘いに出る時の従者でしかなかった。もっとはっきり言えば、自分が封印の文字を使う間、命を張って時間稼ぎをしてくれるであろう者たち、という認識しかなかったのだ。 シンケンジャーの侍である彼らは、共に闘う仲間、目的を同じくする同士である。 今考えてみれば、当り前のこと。しかし当時の薫は、このような考え方を、微塵も持ち合わせていなかった。 しかし志葉の屋敷に来て、侍たちと初顔わせをしただけで、薫が考えているほど、ことは単純ではないということに気付く。 志葉家家臣の侍と言えども、それぞれがそれぞれの意思を持ち、自らの信念に従って闘っているのだ。だから、真の当主が命令したとしても、それが自らの意思に背くことならば、盲目的に従う者たちではない。初顔わせにおける侍たちの、あからさまに反抗的な態度。それは、侍たちは、志葉家当主の駒では決してないのだということを、薫に実感させた。 ドウコクは、志葉の当主である自分が一人で封印する。お前たちは、それを補佐しろ。それだけ言えば済む話。そんなものでは、なかったのだ。 勢い込んで志葉屋敷に乗り込んできた薫だったが、これには、大きな戸惑いを覚えた。心の片隅で、面倒な奴らだな、と思ったほどだ。 しかし、あの時の薫を決定的なまでに揺さぶったのは、その直後の彦馬の言動だった。志葉家存続のために、その半生を投げ捨てる覚悟で、志葉屋敷に残り、外道衆と闘いながら、実父の秘策を遂行してくれた彦馬。現在の志葉家において、丹波に次ぐ重要な役職にあり、薫の強力な味方であると勝手に思い込んでいた彦馬。 反抗的な侍たちを上手くまとめてもらえるかと思っていた彦馬にまで、 「何故今さら、表舞台に出てきた」 と丁寧な言葉ではあったが、詰問も同然に質された時には、さすがの薫も、一瞬何も考えられなくなった。 薫は、道場の中で誰も相手をしてくれなくて、手持ち無沙汰にしている丈瑠に目をやる。 志葉家に入って以降、辛い思いをたくさん味わって来たのだろう丈瑠。しかしあの時まで、薫は、丈瑠のそんな気持ちを、頭では理解できても、実感することはできなかった。なにしろ、薫と丈瑠は、正反対の立場だったのだから。 しかし彦馬に問い詰められたあの時、薫が初めて知った胸の痛み。その時はまだそうとは気付いていなかったのだが、薫が感じたその痛みは、丈瑠が十七年間、心の底に持ち続けてきた痛みと、よく似たものだった。 薫は幼い頃から、自分の影武者にさせられている人間についても、よく考えていた。 自分が捨ててきたも同然の志葉屋敷に残り、薫の身代わりとして外道衆に狙わせるための人間。志葉の存続のために、自らの命を差し出してくれている人間。身も蓋もない言い方をすれば、それは人身御供(ひとみごくう)と言ってもいいのだろう。昔話にしか出てこないような、そんな人の在り方に、薫だとて心が痛まないはずがない。 しかしまさか、その影武者が、志葉家家臣の心を、当主よりも強く掴んで放さないことがあるなどとは、薫は想像をしたこともなかった。あくまで影武者は、脇役でしかないと思っていたからだ。もちろん薫は、影武者に深く感謝している。今の自分が在るのが、影武者のお陰なのは、疑う余地がない。しかし、それは薫の個人的な感情でしかないはずだった。 薫個人がどれほど影武者に感謝をしていようと、影武者を役目から解いたら、十分な報酬と労いをすれば、それで終わる話だと思っていた。 しかし、丈瑠が屋敷を出て行ってしまった後も、丈瑠を慕い続ける侍たちの様子を目の当りにして、薫は考え直さざるを得なくなる。 「何故、侍たちは、本当の当主ではない人間を、『殿』と慕うのだ?」 この疑問は、やがて裏返しになって、自分に突き付けられる。丈瑠の長き苦しみと同じ想いが、薫の胸を去来した。 「本当の当主、真実の当主とは、何だ?それは、私のはずなのに、侍たちは私をそうとみなしていない。それは、私が本当の当主ではないからではないか?彼らにとっては、私は偽りの志葉家当主でしかないのか!?」 本当の当主ならば、家臣に望まれるはず。そうでない自分は、いったい何なのだろう。 ドウコクを倒すこと。 それしか頭になかった少女に、芽生えた根源的な問い。 生まれた時から持っていたはずのものに、初めて疑念を抱いたその時。 薫は、深い闇の淵を見た気がした。 それは、もしかしたら、薫が真実の志葉家当主になるために必要な試練だったのかも知れない。 しかし薫は、家臣たちがどう思っていようとも、志葉家当主でいるしかなかった。長年胸に抱いてきた、父の仇を討って志葉家を再興するという願いを成就するためには、薫はシンケンレッドでなくてはならないのだ。だから、こう考えた。 確かに、今まで丈瑠に命を預けて、共に闘ってきた侍たちなら、丈瑠を慕う感情を引きずってしまうのも仕方ないだろう。ただそのような感情も、自分との戦闘体験が重なれば、薄れて行くに違いない。今はことを荒立てず、侍たちの想いが自然に自分に向くまで待とう。 しかし、その考えが甘過ぎることを、薫はすぐに思い知らされる。薫は決定的に、考え直さなくてはならない場面に、遭遇してしまったのだ。 丈瑠と共に命を賭けて闘ってきた侍たちだけではなく、志葉家に仕える後方支援の黒子たちですら、丈瑠を『主』としたいと思っていることを知ったのだ。 薫は呆然とした。その黒子たちの中には、薫の父の代、志葉家十七代目当主の時代から志葉家に仕えていた者も、幾人もいたというのに。十七代目当主の秘策を知り、最初から丈瑠を影武者と知っていた者ですら、薫ではなく、丈瑠を選ぶのだ。彦馬と同じように。 「私は、本当の志葉家当主ではない。彼らにとって、私は偽りの当主でしかないのだ」 薫はそれを認めるしかなかった。 あの晩のことを思い出すと、さすがの薫でさえ、心臓が針でも突き立てられたように、きりきりと痛む。 生まれてこの方、この手にあるのが当然としていたものが、さらさらと砂となって消えて行った一瞬だった。自分が立っている場所さえ、わからない。自分が信じていた世界が崩壊していく感覚。この無常感を、何と呼べばいいのだろう。 そして薫は気付く。この無常の世界で、ずっと生きてきた人がいることに。自分の立っている場所も、踏んでいる土さえ、本当にあるのかどうかわからない世界で、それでも闘い続けてきた人がいることに。 丈瑠と薫。 正反対のはずなのに、どこかが似ている二人。 ひとりぼっちで生きてくるしかなかった二人。 それでも、侍や黒子たちが選んだのは、丈瑠だ。彼らが、丈瑠をこそ、自らの『主』としたいと思う理由、二人の差はどこにあるのだろう。 偽りの当主と、真実の当主。この違いは、何なのだろうか。 あの晩、薫はまんじりともせずに、布団の中で考え続けた。 まさか丈瑠が長年心の底で苦しんで来たのと同じ内容で、あの時、薫が苦しんでいたなど、丈瑠には考えもつかないことだろう。 志葉家当主、シンケンレッドとしての正当性なら、明らかに薫に分がある。 モヂカラも同じだ。 後の話になるが、丈瑠に当主の座を譲る時、薫はこう言った。 「封印の文字が使えなくても、丈瑠のモヂカラは闘うには十分」 まさしくその通りだった。 しかし、封印の文字を使えないと言うのは、あまりにも大きなマイナスポイントだ。さらに、あの時点での丈瑠の『火』のモヂカラは、薫のものとは質が違いすぎた。 薫の『火』のモヂカラの攻撃力と破壊力。その勢い、その凄まじさは、丈瑠の『火』のモヂカラとは比べるべくもなかった。モヂカラを使えない黒子にさえ、その差は歴然としていただろう。自らモヂカラを操る侍たちには、なおさらだ。 それでも、志葉家の正当な血筋が操る強大なモヂカラを目の当たりにした後でも、侍や黒子たちが自らの『主』として選んだのは、薫ではなく丈瑠だったのだ。 そうだとしたら、志葉家当主の条件とは、志葉の血筋でも、モヂカラの大きさでもないことになる。それはいったい、何なのだろうか。いくら考えても、その時の薫には、わからなかった。 しかし驚いたことに、丈瑠を心の中の『主』とした後でも、侍や黒子たちは、薫を志葉家当主として尊重してくれた。それは、丈瑠の意思なのだろうか。それとも、侍や黒子たちの思いやり、あるいは………憐れみなのだろうか。 そんな侍や黒子たちを見た時、薫は確信した。 このまま自分が志葉家当主としてやっていっても、家臣たちの心から、彼らの真実の『殿さま』『シンケンレッド』としての丈瑠を消すことは無理なのだと。 だから薫は、丈瑠に返すしかないと思ったのだ。志葉家当主の座を。 返す………という、この言葉がまさしく相応しいと思った。十七代目当主が倒れた後の十七年間、志葉屋敷に残り、外道衆との矢面に立ちながら志葉家を守り続けた者たちこそが、本当に志葉家を存続させた者であり、その者たちが望む者こそが、真実の志葉家当主として在るべきなのだ。 志葉家の血筋ではない。モヂカラの大きさでもない。何かもっと大事なもの。それが丈瑠にはあり、薫にはなかった。だから、それに惹かれる志葉家家臣たちは、丈瑠を選んだ。 薫は、そう考えていた。 ただ、今でも薫には、それが何かは、はっきり判っていない。 志葉家の血筋ではない。もっと大事なもの……… なんとなく、判っているような気もするのだが、言葉にするほど明確にはなっていない、それ。 丈瑠と薫の違うところ。 それは、何なのだろうか。 「お姫さま」 考えごとに没頭していた薫は、呼びかけられて初めて、目の前にアラタが来ていたことに気付いた。 「アラタさん?」 「これ、食べない?」 アラタが唐突に差し出してきた袋。そのようなモノを薫は見たことがなかった。食べないかと言われているからには、袋には食べ物が入っているのだろう。薫は、アラタに向かって素直に手を伸ばす。 「………これは?」 手にした袋は、既に口が開いていた。薫は興味しんしんで、中を覗き込む。 「ポテチ」 アラタは、薫の持った袋に手を突っ込み、ひとつ摘まみだす。 「美味しいよ」 アラタは言うが早いか、そのポテトチップスを、自分の口に放り込んだ。 「!!!!!」 二人の後ろには、絶句している丈瑠がいた。 もしこの場に丹波、あるいは流ノ介がいたら、大変な騒動になっているだろう。自分が食べかけのお菓子の袋を薫に渡して、さらにその袋に、手を突っ込んでお菓子を取るなど……… 「お、おい!………アラタ」 丈瑠としても、当然、アラタの無礼をたしなめる必要があると考えた。 「そんな、どこの誰が作ったかもわからないような菓子、ましてやお前の食べかけを………」 しかし 「ありがとうございます、アラタさん」 薫はそう言うが早いか、アラタの真似をして袋に手を突っ込み、つまみあげたポテトチップスを自らの口に放り込んでしまったのだ。 「!!!!!」 今度は、薫の行動に驚愕する丈瑠。 一瞬丈瑠は、薫の口に手を突っ込んででも、吐き出させるべきか、とまで思った。得体の知れない食べ物により、薫に何かあっては一大事と考えたのだ。しかし丈瑠は、すぐに気付く。薫の後ろに控える裃黒子たちが、少しもうろたえていないことに。 「………どうして」 不思議そうな顔をしている丈瑠に気付いた薫が、微笑んだ。 「丈瑠も食すか?」 そう言って、袋を差し出してくる。それに丈瑠は、当然首を振って応えた。薫は意外にも、残念そうな表情をした。 「おいしいぞ。味が濃いから、喉が乾くような気もするがな」 薫のその言葉に、裃黒子がすかさず、新しいお茶を差し出してきた。 「………ってかサ。お姫さまは、コンビニの菓子食ってもいいんだ?それとも丹波の爺さんがいない所だけでは、そうなの?」 丈瑠の後ろから声が掛かる。千明だった。 「姫さまも、結構やるねぇ。うちのお固い丈瑠ちゃんとは、大違いだな」 千明は、丈瑠の肩をつつきながら、笑う。丈瑠が睨んでも、千明は平然としていた。しかし、そんな二人のやり取りが、薫とアラタには理解できなかったらしい。 「どういう意味だ?確かに『コンビニの菓子』とやらは、今まで食べたことはないが、敢えて丹波に止められた記憶もないぞ」 「コンビニのお菓子食べちゃいけない………って、アレルギーか何かあるの、丈瑠は?」 薫とアラタの同時の質問に、千明こそ意外そうな顔をした。 「アレルギーはないだろ。だけど丈瑠は爺さんの厳命があるから、黒子ちゃんが作った食べ物と、源ちゃんの寿司くらいしか食わして貰えないんだぜ」 「何それ!?」 瞬時に叫ぶアラタの横で、薫も奇妙な顔をしていた。 しかし、アラタの横まで来て、アラタの手にしていた別の菓子袋に手を突っ込みながら 「丈瑠、外道衆にずっとピンポイントで狙われていたからな。俺らと一緒にいる時も、丈瑠だけ毒殺されそうになったし。爺さんが神経使うのも、仕方ないんだけど」 と言う千明の説明に、薫の表情が一気に曇った。 「へぇ。殿さまってのは、大変なんだねえ」 薫の横では、アラタが呑気な声を上げている。 「そりゃー大変だよ。どこに行くにも、黒子ちゃん手作りの弁当と水筒持参じゃねえとならないってのは。幼稚園生じゃねぇっての!その上、丈瑠が使う水は、全部、志葉邸内の折紙付きの聖水しか使わないんだってさ。爺さんの徹底ぶりも、ここまでくると病気かもっ、て思えて………」 昔ながらの鈴カステラを頬張りながら、調子に乗って話し続ける千明。 「千明!」 それを遮るのは、もちろん丈瑠だった。 「え………」 振り返った千明は、丈瑠の険しい表情から、すぐに話し過ぎたことを悟る。 アラタは別としても、同じ志葉家の人間である薫になら、何を話してもいい気がするのだが、丈瑠はそうは思っていないらしい。丈瑠の配慮が、薫に余計な気遣いをさせまいとしていることに、千明は気付いていない。 丈瑠が毒殺される心配をしなければならないのも、もとはと言えば、薫の身代わりだったからだ。丈瑠が不自由な想いをした分だけ、薫は自由でいられた。薫なら、きっとそう考えるだろう。 「そうか。私にはそういう心配はなかったからな。しかし日下部は、本当に丈瑠を大切にしているのだな」 丈瑠が危惧した通り、しみじみと言う薫の顔は、ほんの少し曇っていた。 「………はい」 遠慮がちに応える丈瑠の後ろで、またも千明が余計な一言を付け加える。 「そりゃ、そうでしょ。だって爺さん、丈瑠のこと、全身全霊かけて育てたって、俺たちに公言してはばからねぇし」 もちろん次の瞬間、丈瑠に射殺されそうな目で睨まれた千明だった。 肩を竦める千明だったが、彦馬が丈瑠をどれだけ大切にしてくれているかは、千明の誇りでもあったのだ。 この気持ちは、丈瑠には、絶対に理解できないだろうと、千明は思う。それでも千明は、嬉しいのだ。彦馬が、あるいは黒子たちが、丈瑠を大切にしてくれることが。 それが薫に、どのような想いを呼び起こしてしまうのかまでは、千明は考え付いていなかった。 「ところで………」 アラタ、千明と共に、一通りコンビニの菓子を味見した後で、薫が丈瑠を見上げた。 「こんな夜更けに、丈瑠はここに何をしに来たのだ?」 至極、真っ当な疑問だった。 剣道場にいる人々のうち、ここにいる理由が明確でないのは、丈瑠だけだ。その上、コンビニ菓子試食にも加わらず、剣道場の真ん中に一人立ちんぼしている丈瑠は、明らかに奇異に見える。 「そう言えば、そうだな」 「渡り廊下ではヤモリになってたけどね」 口々にからかわれるが 「………っ」 言葉に詰まる丈瑠。 まさか言えまい。 あまりに辛くて。一人では耐え難くて。 彦馬に泣いて縋りたいのに、それもできないから、代わりに源太の所に来てみた、などとは。 「どうした」 応えない丈瑠に、薫が質問を重ねる。 「………あっ、あの………えっと………台本のことを………」 苦し紛れの言い訳。 「台本?何、俺に何か聞きたかった訳?」 返して来たのは千明。 「い、いや………あの………ラインハルトの心情を、だな」 しどろもどろで言ってみる。それに千明が嬉しそうな顔をした。 「えっ?丈瑠ってば、そんなことまで考えてくれてんのかよ」 「い、いや。そりゃ、あの台本を読めば、否が応でも考えざるを得ない………」 これは、真実だ。 あの台本を読んで、ラインハルトの心情にも、行動にも、丈瑠は共感できなかった。 共感はできないが、台本通りに演ることは、できる。丈瑠はそう思っていたのだが。 「そっかー。いや、嬉しいぜ、丈瑠!!」 千明のあまりに喜んだ顔を見ていると、そんないい加減なことで良かったのかという気もしてくる。 「で?何が判らないって!?」 そこで、いきなり千明の顔が、真顔になった。 「………えっ。あっ………いや、あの………」 「何でもいいから、言ってみろよ!遠慮するなって!」 千明が丈瑠の肩をバンバンと叩く。 「あ、ああ」 何かを言うしかなくなってしまう丈瑠。 「………ラインハルトの目的に対する行動が、どうも納得いかない………と思った」 仕方なしに、とりあえず言ってみる。本当はどうでも良いことだったが、丈瑠が違和感を感じた所でもあった。 「ラインハルトの目的?お姉ちゃんを取り戻したいって、あれか?」 しかし、そこで返って来た意外な答えに、丈瑠は驚く。 「………えっ?何だよ、丈瑠。その顔は?」 丈瑠の表情にこそ、驚く千明。 「姉を取り戻す?いや、ラインハルトの目的は………銀河帝国を良い国にすることでは………」 戸惑いながら話す丈瑠。そのあまりにも優等生的な答えに、千明は薄笑いを浮かべた。 「それもあるけど、この舞台のラインハルトは、お姉ちゃんのことしか頭にないでしょ」 千明の言葉に 「その解釈で良いと思うぞ」 薫も賛同する。 一方、何気なく質問した丈瑠は、返ってきた答えに、むしろ混乱していた。 「………いや、確かにそういう言動は台本にあったけど………」 丈瑠は、台本の詳細を思い出そうとする。 「言われてみれば、そうだったかも知れないが………」 台本にあったラインハルトからは、確かに千明が言ったように考えた方がしっくりくる場面が多かった。いや、そうでない場面は、かなり少なかったと言った方がいいだろうか。 しかし……… 「姉を連れ戻すことが目的だなんて………そんな個人的なことのために、ラインハルトは闘うのか?大勢の部下を犠牲にして?敵と言えども、自分たちと同じ人間を殺してまで?それは、ないだろう」 丈瑠の真摯な質問から透けて見える、丈瑠の考え方。それに千明は、微笑む。 丈瑠だったら、ラインハルトの思考は、有り得ないことなのだろう。 「ラインハルトの表向きの目的は、良い国作ろう………だけど、心の底にある本当の目的は、お姉ちゃんを取り戻したい。お姉ちゃんを自分から連れ去った奴が憎い。それだけだよ。それが高じて、銀河帝国を公平な国にしようって考えが生まれたけど、それは後付けの理屈だ。むしろラインハルトの考えに近いのは、自分からお姉ちゃんを引き離すことが許されるようなこんな国、ぶっ壊してやる!じゃないのかな」 千明の身も蓋もない解説に、丈瑠は驚きを隠せなかった。 「俺の書いた台本だと、そこらへん、あんまり露骨じゃなかったんで、丈瑠わかんなかったかな」 「だが!?」 丈瑠が首を振って、千明に喰らい付いてくる。 「そんな個人的な望み………元帥にまでなった人間に許されるのか?無関係な人々を巻き込んだ私闘を、やっていいのか?」 彦馬に、上に立つ者としての倫理観、ノブレス・オブリージュを、徹底的に叩きこまれた丈瑠。 「ラインハルトは、それを判っていなかったのか?」 そんな丈瑠には、どうしてもラインハルトの思考が信じられなかったらしい。 「判っていただろう、最初の頃のラインハルトは………」 千明は答える。 「やがて、自分が何を目的としているのか、見失って行ったかも知れないけどな」 「だから、なのか?」 丈瑠はショックを受けた顔をしていた。 「銀河帝国を良くするためだけなら、闘い以外にも、方法はあるはず。それをしないでラインハルトがしていたことは………全て個人的な望みを叶えるための………直接的ではないにしろ、私闘…」 千明は仕方なく頷いた。 「私利私欲の闘いを私闘というなら、そうかもな」 丈瑠の考える『私闘』の範囲がこれほどに広いとなると、私闘でない闘いをしている人間は、かなり少なくなるのではないか、と千明は思う。 「そう考えると、惑星ヴェスターランド核攻撃の件だけでなく、ラインハルトは昔から同じようなことをし続けていたと言えるんじゃないか?」 「………どういう意味だ?」 聞き返した千明を、丈瑠が忌々しそうに見た。 「ラインハルトの闘いの結末が常に勝ち戦であり、国益にかなっていたのだとしても、それでいいのか?前線の戦艦乗員であれ、戦場になった星に住む人々であれ、ラインハルトは人々に犠牲を強いることを、もともと良しとしていたのではないか?たまたま、それがクローズアップして見えないことが多かっただけで」 丈瑠の顔は、何故、こんな簡単なことが判らないのか、と苛ついているようにも見えた。 「俺には、そうとしか思えない。姉を取り戻すことが目的と言った瞬間に、今までやってきたことも全て、意味が変わってくる!」 「え?う〜ん?どうなんだろ」 言葉を濁す千明。 今、丈瑠が言ったことを肯定してしまうと、丈瑠は、自分のこととして捉えてしまいはしないか。 丈瑠が、今の話をどんな風に丈瑠自身に当てはめるのかはわからなかったが、千明はそれが怖かった。 「ラインハルトの闘いが正当なものであるように………と、ぎりぎりのラインで押し留めていたのが、キルヒアイスとアンネローゼだ。だからキルヒアイスが亡くなり、最愛の姉にも拒絶されたラインハルトは、変わって行ってしまう」 千明の代わりに薫が答えた。 「変わっていくラインハルトを次に支えたのが、オーベルシュタインなんだろうな」 答えながら薫は、自分がずっと明確な答えを持たなかった疑問が解けたような気がした。今まさに、丈瑠が語っていた言葉で。 千明が丈瑠に演って欲しいと望んだラインハルト。 しかし、ラインハルトの目的だけで言えば、ラインハルトに似ているのは、むしろ……… 話しあう丈瑠たちの背中を、源太が心配そうに見つめているのに、誰も気付かなかった。 小説 次話 2011.07.04 |