志葉家ver

我が征くは星の大河 17











「丈瑠」
 薫が静かに、丈瑠を見上げた。
「丈瑠の考えを聞きたいのだが………」
 薫の神妙な面持ちに、丈瑠も表情を引き締めた。

「丈瑠は、ラインハルトが姉を取り戻すために闘うのが、信じられないか?有り得ないと思うか?」
 丈瑠は頷く。
 丈瑠にとっては、当たり前すぎる答えだった。
「それでは、丈瑠の大事な人を誰かに奪われたら、丈瑠はその奪った誰かを憎んだりしないか?取り戻すために、闘おうとはしないのか?」
「それをするならば、個人で行います。たった一人で、です。そのような私的な争いに他人を巻き込んではならない。ましてや、己の地位を利用して闘うなど、許されることではない」
 淀みなく答える丈瑠。
 その答えを予想していたかのように、薫は頷くと、さらに質問を重ねる。
「そうか。それでは、丈瑠は、何故、外道衆と闘うのだ?」
「もちろん、この世を守るため。人々を守るため」
 丈瑠の口から、瞬時に出る答え。
 幼い頃から彦馬に叩きこまれて来たフレーズ。
 それを今更聞いてくる薫に、丈瑠は微かな不安を覚えた。丈瑠を見上げる薫の顔は、どこか愁いを帯びているように見えた。
 丈瑠との短い会話には、何か深い意味でもあるのか。

「それって、姫さまはどういう意味で聞いているの?」
 思わず千明が口を挟んでくる。薫と丈瑠の会話に、何かを感じたのは、丈瑠だけではなかったのだ。丈瑠の答えは、千明にとっても当り前に思えるもの。丈瑠の闘いに対する姿勢を見せつけられ続けた一年で、千明の中のその想いはさらに強化された。だから、志葉の本家筋の薫が、今更そんなことを聞いてくることに、千明ですら何かの意味を感じずにはいられない。
「………そうか。それだけか?」
 しかし、千明の疑問は、薫の次の質問にかき消されてしまう。
「丈瑠は、この世を守るため。人々を守るため。そのためだけに、シンケンジャーを率いて闘っているのか」
「もちろんです。それ以外に、どんな理由で闘うと言うのですか?」
 丈瑠が怪訝な表情で、しかし確信を持って答える。
 それ以外に、どんな答えがあるのか。丈瑠には、思いつきもしなかったからだ。






 薫は身じろぎもせず、丈瑠を見上げたままだった。
 けれど、薫の心の中では、様々な想いが蠢いていた。



 今、明確に知ってしまった、自分と丈瑠の違い。
 人々を守るため。この世の平和を守るため。ただそのためだけに、己の命を賭けて外道衆と闘う丈瑠。そのためだけにシンケンレッドになり、シンケンジャーを率いる丈瑠。
 これが、志葉家に仕える者たちが、薫ではなく丈瑠を、真実の主(あるじ)として選んだ理由なのではないだろうか。

 人々を、この世の平和を守るためだけに、全てを捨てて、外道衆と闘う志葉家当主。
 これは、丈瑠にとっては、あまりにも当然のこと。
 丈瑠の考える『志葉家当主』とは、そうあるべきものなのだ。
 この考え方を、丈瑠に刷り込んだのは彦馬だろう。彦馬にとっての『志葉家当主』とは、そういうものだったに違いない。そしてそれは、彦馬だけの偏った考えではないのだ。志葉家を支える者たちにとっては、彦馬の考える当主こそが、真実の、理想の当主の姿なのだろう。

 しかし、薫が丹波に教えられてきた『志葉家当主』は、それだけではなかった。むしろ、それは二の次だった。
 影武者に己の命を守らせることを前提に生まれてきた薫は、運命的に、それだけの志葉家当主でいられるはずがなかったのだ。

 もし、真の志葉家当主のあるべき姿が、彦馬の考えるものなのだとしたら。そうだとしたら、もはや薫が生まれる前から決まっていたことだったのかも知れない。
 志葉の血を温存するために影武者を立てることが決まった時に。志葉家の家臣でもない、まだ自分の意思すらない幼い子供の犠牲を良しとした上に、生を受けることが決まった時に。薫の志葉家当主としての正当性は、失なわれたに等しかったのだ。
 そして一方には、志葉家のために命を投げ打った彦馬が、理想の当主にと育て上げた丈瑠が存在していた。

 薫は思わず苦笑する。
 父は、そして丹波も、判っていたのだろうか。
 まだ生まれてもいない志葉家直系の子供を生かし、志葉の血を後の世に存続させるために、影武者を立てると決めたそのことが、志葉の血を引くその子から、志葉家当主としての資格を取り上げてしまうことになるということを。

 そして、それを薄々とでも感じていたからだろうか。ある時期から、薫が激しく感じ始めた焦燥感。
 影武者の影に隠れて生きるは卑怯。
 だから自分は、志葉家に戻らねばならない。早く!早く!!
 この想いの源は、父と丹波の策に身をゆだねたままであったら、自分が志葉家当主として起つことは有り得ないのだと感じたからだ。志葉家当主にならねばシンケンレッドにもなれず、そうしたら、ドウコクを倒すこともできない。父の、そして何代もに渡って続いた志葉家歴代の仇も晴らすことができない。

 この身の内から湧き上がる、熱い想い。
 何があってもドウコクを倒すという、固い決意。
 そのたぎる想いが目覚めさせた、凄まじいまでの攻撃力を発現するモヂカラ。

 それとも、これこそが………この薫の決意、想いこそが、薫を真の志葉家当主ではなくさせたものだったのだろうか。

 薫がもし、丈瑠のような考え方をしていたとしたら、どうなっていたのだろうか。
「世のため、人のため」
 だけを目的としていたら、果たして薫はここまで強くなれたのか。
 きっと、なれなかったのだろう。そんな雲を掴むような、遠大な目的のために、どんな修行をすればいいのかも、わからない。自分をどこへ持って行っていいのかも、わからない。
 薫は、親の仇=血祭ドウコクという明確な敵がいたからこそ、己を奮い立たせることができた。その仇を討つためには、封印のモヂカラを習得することが絶対必要条件だというはっきりした目標があったからこそ、あれほどのモヂカラも身につけることができた。
 それだけではない。修行を重ねていた時の、自らの心のうちに想いを馳せれば、さらにはっきりする。あの頃の薫の胸の中にあったものと言えば、それは………端的に言ってしまえば、父の、歴代志葉家の私怨を晴らしたいという思い。ドウコクへの憎しみ、恨み。
 この世や人々を守ることも、もちろん考えていた。しかし、ドウコクを倒せば、この世も人々も守れる。だから、私怨を晴らすことも、人々を守ることも同じと、いつの間にか考えをすり替えていた。
「ラインハルトと同じ………か」
 そうだ。今の今まで、薫は自分が私怨を晴らすために、ドウコクを倒そうと思っていたと気付いていなかったのだ。いや、気付かない振りをしていたのだ。

 しかし、丈瑠のあまりに潔い答えを聞いたら、認めない訳にはいかなくなった。自らを騙していた自らが、恥ずかしくなった。
 薫は、自分と丈瑠はどこか似ていると思っていた。でも、似ているけれど、立場は正反対だ。そして実は、志葉の当主としての根本が、全く異なっていたのだ。

 それにしても、と薫は思う。
 自分もいい加減、時代錯誤の世間知らずではあると思うが、丈瑠を見ていると、いったい、どうしたら、こんなに純粋培養な人間が育つものなのか、と思わずにはいられない。己をここまで捨てられるものなのか。自分の望みも人生も二の次で、ここまで生き方を狭められるものなのか。
 薫は、丈瑠を見上げた。自分が成り得なかった理想の存在である丈瑠を。羨望を込めて。






 薫の、まだ幼さを残すふっくらとしたピンクの頬。柔らかな輪郭。あどけない顔立ち。けれど強い意志にきりっと閉じられた口元が、聡明な光を宿した瞳が、薫の顔から幼さを消し去ってしまう。その、何もかもを見透してしまいそうな薫の瞳に、じっと見詰められた丈瑠が、居心地悪そうに薫から視線を外した。
 そんな丈瑠の横顔は、薫から見ると、いにしえの若武者の如く凛々しかった。着ているものが現代の衣服でも、髪型が今風でも、そこに立つは、まさしく侍の佇まいを持つ丈瑠。不器用で口下手で、無愛想。けれど、誰よりも強い丈瑠。それのどれもが、時代劇に出てくる武家の若さまにぴったりの風情ではないか。
「ああ、そうか」
 薫は、なんとはなしに納得できた気がした。
「………えっ?」
 とたんに、視線を薫に戻して聞き返してくる丈瑠に、薫は微笑む。

 まるで江戸時代の若様のように、凛々しいこの丈瑠の全てが、彦馬によって形作られたものなのだ。理想の志葉家当主となるため………だけではなく、彦馬は、自分の理想とする侍、理想の若武者、そんなものを全て、丈瑠に注ぎ込んで育てたのだ。丈瑠は、彦馬が手塩にかけて、一世一代創り上げた作品なのではないか。
 それこそ、先ほど千明が言っていたように、食べる物にも飲み物にも、きっと吸う空気や目に入る風景にすら気を使い、彦馬は明確な意思を持って、丈瑠を志葉家当主としてのあるべき姿に、純粋培養してきたのだろう。
 薫は今、せつないくらいにそれを実感していた。そこが、丈瑠と自分の違いだと判ってしまったのだから。

 丈瑠は、薫と同じように、幼くして両親を外道衆に殺されている。それどころか、丈瑠の実の父は、ドウコクとの決戦の際に、丈瑠の目の前で外道衆に殺されたと聞いた。
 一方、ドウコクが仇であるという話も、十七代目当主が亡くなった悲惨な決戦の話も、全ては伝え聞きでしかない薫。そして、ものごころつくまで、実の母親と共に平和に暮らすことのできた薫。
 この事実だけから考えても、丈瑠は、薫よりよほど過酷な運命を背負わされてきたはずだ。それなのに丈瑠には、薫が持ったような、親の復讐をしたいという気持ちがない。そうでなければ、あれほど真っ直ぐに、澄んだ瞳で言えないだろう。外道衆と闘うのは、ただこの世と人々を守るためだけだとは。心のどこかに、外道衆やドウコクに対する恨みの念があれば、それがどこかには出てしまうはずだ。だから丈瑠には、そのような気持ちはないのだ。
 そして、丈瑠をそのように育てたのが、彦馬なのだ。恨みや憎しみを糧として強くなるのではなく、どこまでも正統な道だけを歩ませて、丈瑠をあそこまで強くしたのだ。
 親を目の前で惨殺された幼い丈瑠の心の傷を、彦馬がどのようにして癒して行ったのかは、薫にも想像がつかない。それでも彦馬が、どれほどの気を使い、慎重に、大切に、丈瑠を育てて行ったものなのか。その苦労は、年若い薫にも、想像には難くなかった。

 どちらにせよ、丈瑠は、外道衆に個人的な恨みの感情を持ったりはしなかった。だから、自分の恨みを晴らすために強くなろうとするような、そんな育ち方もしなかった。丈瑠が外道衆と闘うのは、あくまで、この世と人々を守るため、ただ正義のためなのだ。
 つまり、丈瑠の剣は、まさしく破邪の剣。破邪顕正のためだけにのみ、丈瑠は剣を振い続けるのだろう。彦馬のために。彦馬の教えに従うために。
 なんと志葉家当主に相応しい人間なのだろうか、丈瑠は。こんな人間は、志葉家の歴代の当主の中にもいなかったのではないだろうか。
 そう感心する一方で、薫は気付く。

 だが、それでは………
 丈瑠の全てが、彦馬のおかげなのだとしたら………

 薫は今、丈瑠のおおいなる弱点を見つけてしまった気がした。

 憎しみも、恨みも持たない心。
 その純粋無垢な魂は、何にも染まっていないが故に、何色にでも染まりやすい。丈瑠は闇に取り込まれそうになった時、抗う術を知らないのではないだろうか。
 そんな丈瑠を、周囲の闇から断固として防ぎ守ってきたのが、彦馬なのだろう。しかし今回のブレドランにさらわれた時のように、彦馬さえいなければ、丈瑠を術中に落とすことは、案外と簡単なのかも知れない。

 さらにもっと気になることがある。例え、何の謀略がなくとも。丈瑠自身が自ら、その闇に囚われてしまう可能性がありはしないだろうか。
 丈瑠の、真っ直ぐに正義に向かう心、この世の永遠なる平和を目指して進む心。
 そのような心が、一旦、方向を見失ったらどうなるのだろう。それでもなくても遥か彼方にしかない丈瑠の目的地は、きっと到達できない場所なのだ。
 平和を求めるが故に、人々を守りたいがために、自らは闘いの血にまみれて行くしかない丈瑠。その相反する事象を、丈瑠は自らの内に呑み込み続けて行かなければならない。それを知りながら、それでも、自らの命が尽きる時まで、修羅の道を歩み続けるのだろう丈瑠。その息が詰まりそうな程に、長い、果てしない日々の中に、丈瑠は何を見出そうというのか。いつかきっと、目的地が見えなくなり、進む方向がわからなくなる日が来るに違いない。
 その時、丈瑠はどうするのだろう。
 ただ真っ直ぐに歩むことしか知らない、それしか教えられてこなかった丈瑠は、たちまちにして、進退極まるだろう。
 そうした時に、今までは彦馬が、丈瑠の道しるべになってきた。丈瑠が道に迷わないように。間違っても道を踏み外さないように。闇を照らす灯りになってきた。
 丈瑠はただ、彦馬の指し示す方向だけを見て、彦馬の灯りを頼りに歩いていれば良かった。

 けれど、だからこそ………彦馬がいなかったら、どうなるのか。

 薫には、丈瑠にとっての最悪のパターンが、やすやすと想像できてしまう気がした。

 無敵で最強のシンケンレッド。
 三百年の昔から、誰もが願い続けてきた、理想の志葉家当主。
 この志葉家当主を、闘いにおいて破る者は、もしかしたらいないのかも知れない。それほど丈瑠は強くなり続ける。
 けれど、この当主には、とても大きな弱点がある。
 それを突かれた時、丈瑠はどうなるのだろう。

 もしかしたら………
 自滅………するだろうか。
 自ら、二度と戻れない闇に堕ちて行くのだろうか………

 薫は思わず、身震いをする。

 そうなったら、もうどこにも救いはない。そうならないようにする方策を、事前に講じるしか、道はないのか。
 しかし今、薫が案じたことは、起きて欲しくはないが、いつ起きても不思議ではないことだ。彦馬がどれだけ武芸に優れていたとしても、不死身ではないのだから。そして、それ以上に、年齢というものもある。
 ドウコクを倒す前であれば、こんなことは考える必要がなかったのかも知れない。闘いの中で死ぬ可能性が高かったのは、彦馬ではなく丈瑠だったのだから。
 しかし今は、彦馬を失った後の丈瑠という状況が、在り得るのだ。その時のための覚悟が、用意が、もしかしたら志葉家には必要なのではないのだろうか?

 そこで薫は、改めて気付いてしまうのだった。
 実の父と丹波の策が、どれほどに残酷なものであったのかを。
 その策では、丈瑠が生き延びることは、考えていなかったのだろう。志葉家十八代目当主と名乗る丈瑠は、命尽きるその時まで、彦馬の監視下にある予定だったのだ。彦馬より後まで丈瑠が生き延びることなど、想定されていなかったのだ。
 だから、そのように育ってしまった。彦馬がいなければ、どうなってしまうかわからないような丈瑠に………

 薫の胸に重いものが圧し掛かかった。
 





 微笑んでいたかと思ったら、すぐに険しい表情になり黙りこんでいた薫が、やっと丈瑠に顔を向けた。しかしその顔は、さらに表情が引き締まっていた。
「丈瑠、そう言えば、伝えるのが遅くなったが………」
 薫は唐突に切りだした。
「日下部には、今度、私の下で働いてもらうことになった」
 あまりに突然の話は、丈瑠の頭にすんなりとは入って来なかった。
「えっ?」
 だから、タイミング良く声を上げたのは丈瑠ではなかった。
「………え?え、ええっ!?どういうことだよ!それっ!!」
 目を丸くして叫ぶ千明。けれど薫は丈瑠しか見ていない。
「できれば日下部には、早いうちにこの屋敷を出て、私の屋敷の方に来てもらいたいと思っているのだが」
 丈瑠は表情も変えずに、薫の前に立っていた。
「ここを引き払うのは、いつ頃がいいかな。丈瑠の意見も聞いておきたいと思ってな。日下部にもお前にも、いろいろ準備があるだろうし」
 そこで初めて、丈瑠が微かに動いた。不審そうに眉を寄せた丈瑠。
「………」
 それでも、丈瑠は黙ったままだ。その沈黙は、薫に対する反対意見の表明には見えない。
「丈瑠?聞いているか?」
 痺れを切らした薫が呼びかけて、初めて丈瑠はゆっくりと唇を開いた。しかし、開いた口からは、言葉一つでてこない。
「丈瑠」
 呆れたような薫の声。
 丈瑠は、目を瞬く。けれど、真っ白になってしまった頭では、何を考えることもできなかった。
「丈瑠!?」
「あ、はい………」
 返って来たのは、脊髄反射に近い返事。それだけだった。

 そんな丈瑠を、千明が泣きそうな顔で見つめていた。
 丈瑠の横では、アラタが珍しく思案気な顔をしている。そして後ろの方では、源太が鋭い瞳で、薫と丈瑠のやりとりを見守っていた。
 さらに、もし観察力のある人間がそこにいたならば、薫の後ろに控える裃黒子たちが、戸惑っている姿にも気付いたことだろう。

「それで、いつなら問題ないか?私としては、今週末には来て欲しいと思っている」
 たたみ掛けるように、薫が急かす。
 丈瑠は、それでも何も言うことができない。
「丈瑠!!」
 叫んだのは千明だ。千明が丈瑠の傍に走り寄り、丈瑠の肩を揺さぶった。
「丈瑠!何か言えよ!!爺さんがお姫さまのところに行くって、それ、どういうことだよ!そうしたら、この志葉屋敷や黒子ちゃんたち、それに俺たちや丈瑠は、どうすんだよ!!」
 そこでやっと丈瑠は、正気に戻ったかのように、ゆっくりと視線を千明に移した。
「丈瑠!!」
 叫ぶ千明を、丈瑠はそっと押し戻す。
「………待って下さい」
 丈瑠は薫の前に歩み出た。そして薫を、真っ直ぐに見つめる。
「爺は………それを承知したのですか?」
 薫が邪気のない笑みを、丈瑠に返す。
「もちろん、もう随分前に、承諾してもらっているぞ」
 そして、ダメ押しのように呟く。
「日下部から聞いていないのか?私に仕えることになったことを?それは不思議だな」
 その言葉に、丈瑠は目を細めた。丈瑠の胸に、何かが深く突き刺さる。
「爺が承諾している………」
 まるで自分に確認するかのように、薫の言葉を復唱する丈瑠。そして、それきり、またしても黙りこんでしまう丈瑠だった。

 深夜の剣道場を、重苦しい空気が包む。
 誰もが、丈瑠の次の言葉を待っていた。
 しかし丈瑠は、何も言わなかった。






「丈ちゃん」
 道場の真ん中で、一人状況を見守っていた源太が、意を決したように声を上げた。
 みなが一斉に源太を振り返るが、丈瑠だけは、どこを見ているのかわからない視線を、道場の正面に向けたままだった。
「丈ちゃん、今のお姫さまの話は………」
 源太が手にしていた工具を置いて、丈瑠の背中に向かって歩み出す。しかし、それを遮るかのように、丈瑠は源太に背中を向けたまま、ゆっくりと首を振った。
 道場内の全員の視線が、今度は丈瑠に集中した。
 丈瑠は、静かに顔を上げると、薫をまっすぐに見つめた。
「わかりました」
 丈瑠から出てきた言葉を、薫は眉をひそめて受け止める。源太やアラタも同様だった。ただ千明だけが、呆然とする。丈瑠が何よりも頼りにしている彦馬が、いなくなってしまう。それを止めようともしない丈瑠が、千明には信じられなかったのだ。
 しかし丈瑠の顔は、哀しそうでもなく、苦しそうでもなく、何の表情も浮かんでいなかった。
「いつでも構いません。母上のご都合に従います。爺にはそう言っておきます」
 能面のように動かない表情。でもだからこそ、その裏にある何かが、浸み出してくるような気がした。
「丈瑠!!」
 思わず叫んでしまう千明。しかし丈瑠はそれだけ言うと、薫から目を逸らすと同時に、その身を翻した。そして、薫の返事も聞かずに、剣道場の入口へと歩み出した。
「あ!おいっ!待てよ、丈瑠!!」
 丈瑠の肩に手をかけようとした千明をすっと避けて、千明がまるで居ないかのように振舞う丈瑠。
「丈ちゃん………」
 通り過ぎ様に低い声で呼びかけてきた源太すら、丈瑠は無視した。そして丈瑠は無言のまま、剣道場を後にした。






 丈瑠が剣道場から姿を消した瞬間、薫が唇をきつく引き結んで、俯いた。
「お姫さま!!」
 その頭上に、千明の悲鳴が響いた。
「どういうつもりなんだよ!何で、爺さんを連れて行くなんてこと、言うんだよ!」
 千明は、両手に拳を握りしめ、地団太を踏みそうな勢いで、叫ぶ。
「あんたには、丹波の爺さんがいるだろうが!それで充分だろ!?」
 千明の抗議に、薫が顔を上げた。そこで薫は思わず千明を凝視してしまった。
「彦馬の爺さんは、丈瑠にとっちゃ、実の親と同じなんだよ!」
 千明は大粒の涙をぼろぼろとこぼしていたのだ。千明が涙もろいことを知らないこともあって、千明の丈瑠を想う気持ちに、薫は暫し呆然としてしまう。
「お姫さま、なんとか言えよ」
「やめろ!千明」
 いまにも薫に掴みかかりそうな千明を、源太が背中から羽交い締めにする。裃黒子も膝立ちになって、千明の振舞いを注視していた。
「だって!!爺さんは丈瑠の爺さんなんだぜ!?」
 千明が背中を振り返る。その頃には、千明の顔はもう、涙でくしゃくしゃだった。
「丈瑠には、絶対いなくちゃならない爺さんなんだぜ!?」
 必死に言いつのる千明。それに源太は、大きく頷いた。

 大人しくなった千明から手を離すと、今度は、源太が千明を押しのけて、薫の前に立った。裃黒子たちが緊張するのが、傍からも判る。もし源太が薫に何かしようとしても、裃黒子がそれを許さないだろう。
「………お姫さま」
 一息ついた後に出された源太の声は、有り得ないくらい低く冷たかった。
 源太を見上げる薫の顔が曇る。源太は、流ノ介よりも高い身長から、座っている薫を見下ろす。あきらかに薫を、そしてその後ろの裃黒子を威嚇している、険しい表情だった。
「なんで、わざわざ、そんな嘘を丈ちゃんに言うんだ?」
「………えっ?」
 千明がその言葉に、大きく瞳を開いた。
「う?………」
 そして、素っ頓狂な声を上げる。
「嘘?」
 そこにアラタが、肩を竦めて入ってくる。
「良かった。やっぱり嘘なんだよね?それでいいんだよね?」
 アラタは、緊張感のない顔で微笑む。その雰囲気に、裃黒子の醸し出す空気も、僅かだか柔らかくなった。
「丈瑠はなんだか、真剣に考えちゃってるし、千明があんまり怒ってるから、ちょっと焦っちゃったけど………部外者の俺にだって、今の話は、例え話、冗談にしか聞こえなかったよ?」
 うろたえる千明に、アラタが目を細めて、にいっと笑う。
「ラインハルトの心情を丈瑠が理解できないって言うから、お姫さまは、解るようにしてあげようとしたんだよね?」
 同意を求めるように、薫に向かって首を傾げるアラタ。
「………ラインハルトの心情?」
 それでも千明には、アラタの言っていることが納得できなかったようだった。
「まさしく役どころ通り………ってとこだしネ?」
 それを察したアラタが、さらに説明を加えた。千明ははっとして、考え込む。
「役どころ………って、お姫さまが皇帝で、爺さんが………アンネローゼ!っか!?皇帝がラインハルトからアンネローゼを奪う………って、そういうことか」
 納得したとばかりに両手を打つ千明だったが、それが初めから解っていたはずの源太の顔は、険しいままだった。そんな源太に首を傾げた後、アラタは薫に向かって笑いかけた。
「でも丈瑠は、やっぱりラインハルトの心情を理解できなかったみたいだけど」
 薫は、アラタに一瞬目をやった後、ため息をついた。

 再び、沈黙が訪れた剣道場。
「そんな、試すようなこと、する必要なんかない」
 そこに、源太のきっぱりとした声が響いた。
「丈ちゃんは、爺ちゃんをお姫さまに取られたって、お姫さまを憎んだりはできない。爺ちゃんを取り返すために、何かしようなんて考えもつかない」
 源太の言葉に、薫が急いで首を振った。薫にしては珍しい慌てぶりだった。
「それは………解ってる。丈瑠はラインハルトとは違う。根本が違う。丈瑠はもっと正義心だけで生きている人間だ。しかし………」
 薫は源太に誤解して欲しくなかったのだ。決して、自分は丈瑠を試そうと思った訳ではない。そう説明しようとした薫だったが
「解ってねえよ!!お姫さまは、全然解ってねえ!」
 それを源太が、再びきっぱりと否定した。
 目を見開く薫から顔を逸らして、源太が叫ぶ。
「そういうことじゃねぇんだよ!」

 みんなが見つめる中、源太は俯く。
「丈ちゃんはな!どんな理不尽なことされたって、それが志葉家のためと言われたら、人々を守るためと言われたら、全部呑み込んで我慢しちまうんだよ!昔っから、そうなんだよ!」
 俯きながらも、源太は絞り出すような声で、叫んだ。
「それは………そうだな」
 薫は頷く。
 頷くけれど、自分が思ったことも、伝えたかった。
「いや。だからこそ………なのだ」
 ドウコクとの決戦の時に、志葉家と関係ないにも関わらず、薫を助けてくれた源太に、薫は恩義以上のものを感じていた。だから、源太に自分を誤解して欲しくなかったのだ。
「今の丈瑠が、どれほど志葉家当主として素晴らしいか、私は判っているつもりだ。しかし、それだけでは駄目なのではないかと、私は思うのだ。ラインハルトのような在り方が正しいと思っている訳ではない。しかし、これから先、丈瑠が志葉家当主としてやっていくためには、丈瑠はもっと………精神的にしたたかな部分も持たねば………そう、例えば、ヤン・ウェンリーでもいい。彼のような………」
「駄目だろうが、なんだろうが!!!」
 しかし源太は、薫に言い訳をさせなかった。
「丈ちゃんは、そうやって十八年間、生きて来たんだ!!」
 源太はそこで顔を上げると、薫を鋭い瞳で睨んだ。
「それでドウコクを倒したんだ!!そうするしか、丈ちゃんには生きる術がなかったんだ!」
 源太に睨まれた瞬間、薫は源太の持つ迫力に、座布団の上で後ずさりしそうになった。
「ドウコクに殺してくれと言わんばかりに、このお屋敷に小さかった丈ちゃんを置き去りにしたのは、あんたたちだろ!?お姫さま自身じゃないけど、お姫さまの周りの、あんたたちなんだろ!?」
 そう言って源太が指差したのは、薫の後ろにいる裃黒子たちだった。へびに睨まれたカエルのように、裃黒子たちは身じろぎひとつできなくなる。いや、息すらできなかった。それほど、源太の孕む空気は険しく、言葉は、有無を言わせない力を持っていた。そして、それは薫も同じだった。
「あんたたちは、丈ちゃんの意思なんかないものと考えて、自分たちに都合よく、丈ちゃんを人形のように扱って来たんだろ!?」
 源太は、目を瞑り両拳を握りしめて、叫んだ。心の底から叫んだ。

 薫にとっては、耳の痛い言葉だった。
「………そうだな」
 薫は泣きたい気持ちを抑えながら、そう呟いた。
 今更ながら、自分の父や丹波が、丈瑠にしたことの意味を考える。
「丈瑠は………ドウコクに対する人身御供だったんだ………な」
 今、改めて、そうさせられた人間の哀しさが、薫の中に沁みてくる。それと同時に、目頭が熱くなってくるのは、鼻の奥が痛くなってくるのは、何故なのだろう。
「もし丈瑠がドウコクに殺されていたら………本当に丈瑠を殺したのは、ドウコクではなく、私たちだったんだな」
「そうだよ!その通りだよ!!」
 源太の人となりをしっている薫にしてみれば、源太が薫そのものをなじっているのではないことは判る。判るが、薫にしてみれば辛かった。志葉家の家臣でない人間で、初めて薫に接して来た人間に、こんなことを言われてしまうのは。
「それでも丈ちゃんは、自分を殺そうとしていた志葉家の言われるがままなんだよ!?今でも!!」
 薫は源太を見つめた。
 まさしく源太の言うとおり、今、薫が丈瑠に望んでいることは、志葉家の都合ばかりだ。ことここに至っても、丈瑠に、志葉家のために人生の全てを捧げろと言っているのだ。心のよりどころとしている人から、無理やりに引き離してでも。
「だったら、今更、そんな丈ちゃんの在り方を否定すんなよ!あんたたちが、かつて望んだ通りに、丈ちゃんは育ったんだよ!そう育つしかなかったんだよ!!今更、方向転換なんか、できねぇよ!!」
 その言葉を聞いた瞬間、薫の心に何かが触れる。
「源太………お前」
 源太は怒っている。怒ってはいるが、源太が怒っているのは、何に対してだ?
 薫は、源太を見上げた。千明と同様に、泣きそうな源太の顔を。
「源太………も、解っているんだな?」
 思わず薫は言ってしまう。
「丈瑠の弱………」
「丈ちゃんは、あれでいいんだ!」
 それを源太の言葉が遮る。
 拳を固く握りしめて、その腕に震えすらきている源太。顔を上げて、虚空を見つめる源太。その言葉は、薫に告げていると言うより、むしろ自分に言い聞かせているようにも、聞こえた。
「源ちゃん」
 そんな源太の震える腕に、千明がそっと手のひらを添えた。
 その瞬間、源太が薫の方に視線を向ける。
「丈ちゃんに、あれ以上を望まないでくれ。あんだけ強けりゃ、いいだろ?もう、いいじゃないか」
 先ほどまでとは打って変わり、薫をまっすぐに見つめながら、源太は言った。それはまるで、懇願するような言い方だった。
「どっか、ちっとくらい弱くたって、それも含めて丈ちゃんなんだから」
 それだけ言うと、源太はくるりと後ろを向いてしまう。
 そして、ダイゴヨウとデータスの傍に戻り、ドッカと床に座り込んだ。源太はおもむろに工具を手にすると、データスから出ている配線を手にして、その先を解きはじめる。その背中は、それ以上の会話を拒絶していた。

 アラタと千明は顔を見合わせ、薫は深いため息をついた。
 裃黒子も薫の後ろで、何もなかったことに胸をなでおろす。
 剣道場に、気まずい空気が流れだすと同時に、剣道場の天井からぽつぽつという音が聞こえてきた。
「………雨………かな」
 アラタの言葉に、千明も天井を見上げる。
「雨………か。能楽堂の観客席………って露天だよな。明日………劇できるのかなあ」
 しかし千秋の呟きは、深く考え込む源太にも、薫にも届かなかった。










小説  次話









2011.08.14