志葉家ver

我が征くは星の大河 19











 志葉邸の奥深く。
 丈瑠のプライベートエリアにある湯殿。
 深夜であるにも関わらず、たっぷりの湯が張られた檜の香りがたちこめる風呂に、丈瑠は浸かっていた。

 丈瑠の部屋に続く廊下、そのさらに奥にある湯殿は、幾人もが入れるような大きなものではなかったが、丈瑠専用であることを考えれば、十分な広さだった。四方を優しい木肌に包まれ、天井は網代に編まれているため、屋根裏から屋外に蒸気が抜けるようになっている。最新式の設備があるわけではないが、十分に快適な風呂だ。
 幼い頃からずっと、丈瑠一人だけが使ってきたこの場所。本当に小さい時は、ぐずって彦馬と一緒に入ってもらったこともあった。とは言え、丈瑠が湯を使っている間は、湯殿控えの間に常に黒子が数人待機していたし、脱衣も身体を洗い流すのも、濡れた身体を拭くのも、最後の着替えすら、黒子にしてもらっていたのだから、独りで入っているとは言い難い。しかし、世間の常識を知らない丈瑠は、それがとても特異なことだという認識がなかった。
 やがて少しばかり長じてくると、今度は、彦馬の稽古の厳しさに泣きながら風呂に入るようになる。立ち上る湯気に涙を隠したつもりで、しゃくりあげそうになる度に息を呑み込みながら、黒子に身体を洗ってもらっていた日々は、どれほど長く続いただろうか。
 そんな懐かしい日々。丈瑠と彦馬、そして黒子の十八年に渡る歳月が、ここにも、確かに刻み込まれている。

 そんな場所だからだろうか。
 それとも、昔と同じように湯気で全てが覆い隠せてしまいそうな気がしているせいなのか。
 ぼうっと湯に浸かる丈瑠の頭には、古い記憶が次々と呼び覚まされていた。

 厳しい稽古に耐えきれず、泣きながら風呂に入る。それは、字面だけ見れば、とても辛い記憶に思える。でも実際は、辛いばかりではなかった。今の丈瑠には、そう思える。
 丈瑠が半べそをかいていると、背中を流すために待機していた黒子が、袖からそっとあひるのおもちゃを出して、風呂に浮かべてくれたこともあった。いつの間にか失くしてしまったあひるだったが、あれは随分長い間、丈瑠の風呂の友だった。


by しゅうこ様


 彦馬による厳しい稽古は、丈瑠のモヂカラを着実に大きくして行った。そして、いつしか丈瑠はシンケンレッドにも変身できるようになる。外道衆との本格的な闘いを始めたばかりの、そんな頃だったろうか、あれは。
 数匹のナナシを彦馬や黒子と共に倒しはしたものの、丈瑠はその返り血を全身に浴び、ぐっしょりと濡れそぼってしまったことがあった。ナナシの血は、人のそれとは比較にならないほど、強烈な臭いがした。ベトベトした薄気味悪いその血は、丈瑠の肌に吸いついていたかと思うと、いきなり凝縮して、肌を転がり、別の場所でまた吸いつくように拡がったりした。まるで生き物のように、丈瑠の身体を這い擦りまわる、ナナシの血。
 初めての経験にパニックに陥った丈瑠を、黒子の一人が抱き上げる。自らの身体が生臭いナナシの血で汚れることなど気にもせず、黒子はそのまま志葉家まで、丈瑠を抱き続けた。そして志葉家に戻るやいなや、丈瑠は黒子に抱かれたまま湯殿に運び込まれた。恐怖のために、黒子の身体にしがみ付いたまま離れることも叶わぬ丈瑠を、黒子たちは無理やり引き剥がそうとはしなかった。
 黒子の胸に抱かれたまま、暖かい湯で何度も血を洗い流される。丈瑠の湯殿で使われる水は、志葉家奥深くの湧泉から汲まれた聖水だ。三途の川の成分を持つナナシの血は、聖水にきれいに洗い流されていく。その暖かさと鎮静作用のある檜の香りに、そして黒子の穏やかな鼓動を打つ胸や、丈瑠の身体を擦ってくれる優しい手に。いつしか丈瑠の心は、落ち着きを取り戻して行ったものだ。
 そして風呂から出れば、そこには丈瑠と同じようにナナシの血を浴びていたものの、既にきれいに洗い清め、着替えを済ませた彦馬がいた。誰よりも強くて頼りになる彦馬が、両手を広げて丈瑠を待っていてくれた。屈んだ彦馬が、大きなタオルごと裸の丈瑠をその腕の中に抱き込み、そのまま抱き上げて、布団へと運んでくれた。寝巻を着せてもらい、横に座る彦馬の手を握りしめたまま布団に横になり、彦馬を見上げれば、そこには優しさに満ちた彦馬の瞳があった。

 外道衆への恐怖に怯えた心も、闘いに荒みそうになった心も。どんな時でも、檜の香りと暖かな湯、そして背中を流してくれる黒子や彦馬の優しさが、丈瑠の心を解し、疲れ切った丈瑠を安らかな眠りへと導いてくれた。
 そうやって先の見えない辛い日々を闘い、生きてきた。志葉屋敷の全員で、生き抜いてきた。

 しかし今。
 丈瑠の空っぽな心は、檜の香りも、湯の暖かさも、感じることができなかった。冷えた身体が湯で温まっても、心の中には寒々しい風が吹き荒れたままだった。
 黒子たちの優しさも、彦馬の暖かさも、あの頃と何も変わりはしないのに。そう。変わってしまったのは丈瑠の方。

 何の迷いもなく爺にすがれた頃、自分の何を疑うこともなかった頃とは、違う。
 当り前のように与えられる優しさを、今の俺は受け取ってはいけないのだ。受け取る資格がないのだ。

 しかし、そう思うはしから、それが欲しくてたまらない丈瑠だった。






 ぽたん

 丈瑠の髪から落ちた雫が、湯に落ちる。

 ぽたん

 それを丈瑠は伏し目がちに見つめる。


『爺がいなくなる』

 今、他に考えねばならぬことが、いくらでもあるはずだった。
 自分のこれからのこと、身の振り方。これらを決めることの方がよほど重要であり、なおかつ緊急でもあるはずだ。犯してしまった罪を見て見ぬ振りをしていられるのも、そう長い間であるはずがない。
 それなのに、いくら消しても、丈瑠の頭の中に浮かんで来るのは、この言葉なのだ。古い思い出と共に、丈瑠の頭を埋め尽くすのは、このことばかりなのだ。

『爺が姫の下に行ってしまう』

 そして頭の中で言葉にする度に、心臓を刺すような痛みが、誰かに首を絞められているかのような喉元の違和感が、丈瑠を襲う。

『俺は………どうしたらいいんだ』

 彦馬の優しさを受け取る資格がないと思いつつも、それを失う恐怖におののく丈瑠。
 身勝手で浅ましい願いばかりが、丈瑠の心を占めて行く。そんな自分の弱さに唾棄しつつ、それでも、欲しいと思う気持ちを止めることのできない丈瑠。
 頭で判断したことと、心が望むこと。ベクトルが正反対のそれら。それぞれが、これ以上ないくらいの力で、丈瑠を違う方向に進めようとする。だから丈瑠は、身動きできなくなってしまう。
 どちらかを完全に振り捨てなければ、どちらにも行けない。ここでただ、立ち尽くしているだけ。きっと永遠に………
 振り捨てる方がどちらかなど、考えるまでもない。それなのに、それができない。

 まさしく真綿で首を絞められているかのごとく、ゆっくりと殺されていくような感覚。

 あまりに弱い自分に、情けなくなってしまう。
 彦馬がその人生を賭けてまで、丈瑠に注いでくれた気持ちに、結局応えられなかった丈瑠。
 立派な志葉家の当主になるという意味でも。
 強いシンケンレッドになるという意味でも。
 彦馬や黒子の期待に、何一つ応えられなかっただけではない。このまま自分の犯したことに見て見ぬ振りを続けていたら、確実にそれはやって来てしまうだろう。彦馬や黒子、そして志葉家を、最低最悪の形で裏切り、その名を貶めてしまう、その日が。

 湯気に霞む視界と同じようにぼやけてくる思考の中で、丈瑠はもういっそ、風呂桶にこのまま沈んで、そのままになってしまいたいとまで思うのだった。






 丈瑠は知らなかっただろう。
 しかし、丈瑠が今感じているこの、心が、身体が、引き裂かれるような感覚は、実ははるか昔から続いているものかも知れなかった。十八年前、丈瑠が志葉家に入った時から、丈瑠は真綿で首を絞められ続けていたのかもしれない。


 志葉家 十七代目当主・志葉雅貴。
 志葉家 家令・丹波歳三。
 志葉家 家扶・日下部彦馬。
 そして、志葉丈瑠と、その実父。

 この五人による、志葉家再興を図りドウコクを倒すための、一世一代の策。
 丈瑠の命と人生を引き換えにする、後戻りのできない策。
 それがはっきりと形になったあの日から、全ては始まっていたのだろうか。
 そして、この策における丈瑠の全てを、その最期までをも見届ける役目だったはずの彦馬。

 だからその策を計画した時は、考える必要もなかった。丈瑠に仕掛けられた罠が、意味を為す日は来ないはずだったのだから。少なくとも、丹波はそう考えていた。
 『彦馬を失えば、丈瑠も滅びる』
 比喩ではなく、文字どおりに。

 十八年前、丹波がそう望んだように、彦馬のいない日々など、丈瑠には想像もつかない。十八年間ずっと。朝から晩まで、彦馬の傍でしか生きてきたことがない丈瑠なのだから。
 それでも丈瑠には、彦馬に薫の下へ行かないでくれと懇願するという選択肢は浮かんでこなかった。ましてや、薫に彦馬を連れて行くのを止めてくれと願い出るなど、有り得ない。
 申し出さえすれば、その願いは容易に聞き入れられるだろうことが分かっていても、丈瑠にはそれができないのだ。ただ言われたままに、志葉の家の命令を受け入れる。どれほど理不尽に思えることでも、自分の中でなんとかそれに折り合いをつけて生きて行く。それしか、丈瑠にはできない。正式な当主になった今ですら。
 いや、むしろ、当主だからこそ、なのかも知れない。丈瑠に限らず、志葉家の当主は、誰よりも志葉家の論理に縛られる。志葉家のあるべき姿に沿って生きるしかない。薫のように当主を次代に譲れればいいかも知れない。そうでなければ、志葉の当主は最期の最後まで、志葉の当主として生き抜かねばならないのだ。どんなに辛くても。どんなに哀しく、苦しくても。それが、この世の平和を守る志葉の当主の宿命。
 そう躾けられてきたのだ。正義の体現者であるはずの志葉家に逆らうような方向には決して思考がいかないように、徹底的に刷り込まれたのだ。丈瑠が想って止まない日下部彦馬、その人に。


 どこまで丈瑠自身が、自らのことを解っているのかは、わからない。
 ただ、丈瑠が常に感じていた
『志葉家を出たら、自分は、自分自身ではいられない』
 この想いの一端が、ここにあることは事実だった。そうなるように、育てられてしまったのだ。
 そしてそこには、薫が危惧している不安以上のものが潜んでいた。
 彦馬自身も知らずにしていたこと。
 丹波の思惑を遥かに超えて、起きつつあること。

 もしかしたら、志葉家十七代目当主・志葉雅貴には、予感があったかも知れない。
 志葉丈瑠の名付け親、その人にだけは。
 そして、志葉雅貴よりも、丹波よりも、多くを知っていたはずの丈瑠の父親には、もちろん、いつかこういう日が来ようことが判っていたはずだ。
 『彦馬を失えば、丈瑠も滅びる』
 比喩ではなく、文字どおりに。その滅びがどんなものかも、多少は想像がついていたはずだ。

 だからこそだった。丈瑠の滅びが想像ついたからこそ、なのだ。
 丈瑠の実の父親が、丈瑠の命と人生を引き換えにするような策に、幼い丈瑠を差し出した理由が、まさにそこにあった。






 十八年前をさらに遡った、遥かな昔。
 それは、青空が清々しい冬の日だった。

 丈瑠の父が黒子に連れてこられたのは、志葉邸の奥にひっそりと佇む茶室だった。
 人払いでもされていたのか、途中から案内の黒子以外は人の姿もなくなり、聞こえるのは自分が枯れ草を踏む音と、鳥の鳴き声ばかりになる。その風景は、さながら自身が育った場所を思い出させた。清涼で神聖な、人を寄せ付けない厳格さと、圧倒的な力を秘めた、かの場所。もう二度と見ることのない風景とよく似た風景が、丈瑠の父の目の前にあった。まだ迷いを残していた丈瑠の父は、この風景に、何かの予兆を感じたかも知れない。
 丈瑠の父が茶室に入ると、案内の黒子も消えていなくなった。
 冬の柔らかな陽射しが縁側の外に差しているために薄明るい茶室の、窓から流れて来る冴えた空気の中に、志葉家十七代目当主・志葉雅貴がいた。
 羽織袴を付け正装に近い姿の志葉家十七代目当主の前では、炉の釜がポコポコという音をたてていた。他に音のしないこの場所では、いやにその音が大きく聞こえる。しかし、それは不快な音ではなかった。不思議と、温もりと優しさを感じさせる音だった。
 志葉雅貴と炉を間に挟んだ形で、丈瑠の父が客畳上座に座る。部屋の隅には、丹波歳三も控えていた。丈瑠の父にしてみれば、志葉家を訪れるのは二回目であり、志葉の当主と丹波に会うのは、これが初めてだった。


 事前にさんざん打診を受けていた話だった。だから、改めて訊くことも、丈瑠の父にはない。それでも丹波は言葉巧みに、丈瑠の父を誘った。それを雅貴は静かに聞いていた。
 しかしいくら誘われようとも、それがこの世を平和にし未来に繋げるための唯一の策だとしても、志葉家の依頼は、普通の親であれば、聞き入れることなどできるはずのないものだった。
 この世を荒らす外道衆の大将、血祭ドウコク。そのドウコクから、真の志葉家後継ぎを守るための影武者。血祭ドウコクに狙わせるための、偽の標的。そんなものになるために、我が子を差し出す親がどこにいるだろうか。ましてや、その時はまだ、薫は母親の身体の中に宿ってもいなかったのだ。
 真の後継ぎができなかったら、丈瑠を真実の志葉家十八代目当主にする。いや、真実の後継ぎができても、丈瑠には生涯、十八代目当主で通してもらう。そういう考えもあると聞かされたが、丈瑠の父は、それを言葉通りに受け取ることはなかった。この話には常にある前提があるのだ。丈瑠がドウコクに殺されずに生き残ることができたのなら、という。そして雅貴はどうか知らないが、少なくとも丹波は確信している。丈瑠が早晩、ドウコクに殺されてしまうだろうことを。
 もちろん丈瑠の父も、外道衆の悪逆非道な行いに怒り、世の中を平和にしたいと切に願っている一人だった。そのために、自分にできることがあれば、何でもしようと思っていたし、三百年の長きに渡り、この世の平和を守ることに尽力してきた志葉家への協力も、惜しむつもりはなかった。
 それでも、自分の命を捧げるのと、幼い子供の命を差し出すのは、わけが違う。丈瑠の父だとて、みすみすドウコクに殺されるような立場に、自分の幼い息子を差し出せるわけがなかった。


 それでも丈瑠の父が最終的に、志葉家の依頼を受け入れたのは、丈瑠の父の思惑と志葉家の出してきた条件が、たまたま合致していたからだ。
 丹波も一筋縄ではいなかない人物だ。そんな丹波が口にしない何かが策に仕込まれていることを、丈瑠の父は当初から見抜いていた。だからこそ、丈瑠が影武者に選ばれたのだろうことも、丈瑠の父は理解していた。
 もちろん、志葉家が後生大事に思っているモヂカラに似た力。それを丈瑠が持っていることが、影武者に選ばれた第一要因だったのは確かだ。しかしそのモヂカラに似た力自体、それで外道衆と闘えるかどうか、ドウコクと渡り合えるほどになれるか否か。そこに深い興味を示す雅貴とは違い、丹波は丈瑠のそのモヂカラに似た力の、もっと異なる側面に期待をしているようだった。
 ある意味、丹波は、少ない情報の中から、丈瑠の持つ力の本質、そのある一面を見抜いていたのだ。

『志葉家再興』

 この言葉に、丈瑠ほど相応しい存在はいなかっただろう。
 雅貴の思惑とは異なり、丈瑠が外道衆と闘えようが闘えまいが、数年経たずして亡くなってしまおうが、丹波にはどうでも良かったのかも知れない。もちろん丈瑠が何年も生きて、志葉家十八代目当主としての役割を果たすまでになってくれれば、それはそれで他にも期待するところが出てくる。しかしとにかく丹波の一番の望みは、ただあの時、丈瑠を手に入れたかったのだ。志葉の屋敷の奥深くに、丈瑠を留め置きたかったのだ。

 丈瑠の力の特質を知り、ただ志葉家のためだけに丈瑠を利用しようとする丹波。丹波は、それほど信用ならぬ人物に見えた。
 しかし丈瑠の父にしてみれば、そんなことはどうでも良かった。丈瑠の父も言えぬことを持っているのだから。丹波は口には出さないが、丈瑠側の事情を全てを知っているつもりなのだろう。しかしいくら志葉家の情報収集能力がずば抜けていたとしても、丈瑠の血に隠された、もうひとつの秘密までは、知る由もないだろう。それは禁忌として、血族にさえ隠され続けてきたことなのだから。

 言うなれば、この茶室での顔合わせは、丹波と丈瑠の父=たぬきときつねの化し合い(ばかしあい)とも言えるものだったのだ。互いが互いに事情を抱え、それを言わずに話を進めていた。
 丈瑠の父は、丹波の考えをほぼ全て見抜いていたが、それでも切羽詰まっていた丈瑠の父には、あの時、志葉家に丈瑠を入れるしか、丈瑠の生きる道がないように思えた。
 志葉家の策に丈瑠を差し出せば、この先のいつか、影武者となった丈瑠がドウコクに殺されるかも知れない。そのような心配よりも、目の前に迫っている丈瑠の危機から、丈瑠の父は丈瑠を救わねばならなかった。そのためには、丈瑠の痕跡をこの世界から完全に消し去らねばならなかった。戸籍を抹消しても生きていける、志葉家に入るしか方法がなかった。

 さらには、雅貴の
『ご子息には、志葉家随一の武人であり、教養高き人物を後見役として付け、志葉家十八代目当主として育てさせて頂きます。
 また、ご子息の命が長らえるよう、その者がほんの片時もご子息の傍を離れないように致します。
 もちろん全身全霊を込めて、志葉家一丸となり、ご子息を外道衆からお守りする所存です』
 という真摯な言葉。
『影武者と言う言葉を、意味もなくドウコクの刃の前に晒される生贄とは、捉えないで頂きたい。
 むしろ一時、ご子息に志葉家をお預けするという意味にとって頂けたら………と思います。
 私がドウコクとの闘いに倒れた際には、本当に、ご子息に十八代目を背負って頂きたいのです』
 雅貴にはもう、ドウコクとの決戦で死ぬ覚悟ができているようだった。そのために、自分亡き後の志葉家の手配をしている………雅貴の言葉の端はし、どこか遠くを見る目から、それが窺えた。
 雅貴と丹波の思惑の微妙な食い違いを感じつつも、丈瑠の父は、それに頷いた。

 これが、三百年の長きに渡り、外道衆から世の中を守り通してきた、志葉家当主というものなのか。

 そんな感慨の方が、丈瑠の父にとっては大きかった。例え、雅貴と丹波の思惑が異なり、雅貴亡き後、丹波が志葉家を取り仕切るにしても、雅貴は丈瑠のために、それなりの手立てを打ってくれるだろう。そうも、思えた。
 そしてその随分後に紹介された丈瑠の後見役になる日下部彦馬という人物。これが丈瑠の父に、志葉家の提案を受け入れる最終的な決心をさせた。
 日下部彦馬を見た瞬間、丈瑠の父は、闇の中に一筋の光明を見出した気がしたのだ。彦馬がその身の内に秘めているもの。それは、丈瑠が生きて行くために、丈瑠の父が切望していたものだった。


 それでも丈瑠の父は、全ての事情を話す訳にはいかなかった。話せば、『影武者の策』よりも、よほど大きな賭けを志葉家がしなければならないことに丹波はすぐにも気付き、手を引くと言ってくるに違いなかったからだ。
 丈瑠の父は、別に丹波を好ましくないとは思わなかった。あくまでも志葉家に忠実で、有能な丹波。持てる情報をフルに活用し、冷酷なまでに、志葉家存続を遂行しようとするその姿勢。彼は、味方にすれば、なにより心強い人物だろう。もちろん、友人にしたい人物ではなかったが。

 丹波はともかくとして、全幅の信頼を寄せることになった日下部彦馬にだけは、事情を話すことも丈瑠の父は考えた。
 丈瑠を志葉家に入れると同時に志葉家家臣となった丈瑠の父は、影から丈瑠と彦馬を見つめることができた。それにより彦馬が、最初の印象通りの、丈瑠の後見役として信頼に足る情に篤い人物であることを、確かめることができた。また、彦馬の持つ稀有な力に関しても、予想をはるかに上回るその力の大きさに、目を見張る想いだった。
「日下部殿に、丈瑠の全てを託そう」
 丈瑠の父は、改めてそう思った。その瞬間、肩の力が抜ける想いだった。丈瑠が彦馬のような人物に育ってくれれば、丈瑠にも未来が来るかも知れない。
 しかし結局は、思いのほか早く訪れたドウコクとの決戦で丈瑠の父が亡くなってしまったために、何ひとつ彦馬に伝えられることはなかった。そして今となってはもう、それを志葉家に伝える人は、どこにもいないはずだった。



 丈瑠の父は、治外法権と言っても良いほど世間から隔絶した志葉屋敷の奥底深くに『幼い丈瑠の今』を、そして優しい心とぶれない正義心を貫く日下部彦馬に、『丈瑠の未来』を託したのだ。



 丈瑠は、知らない。
 己の父親がどれほどの想いで、丈瑠を彦馬に託したのかを。
 そして、丈瑠が未来を手にするためには、身も心も引き裂かれるような想いを、真綿で首を絞められているような想いを、常にしていなくてはならないことも。






 湯気が立ち込めて、全てのものが定かでない湯殿。
 そこで湯に浸かり、俯いたままの丈瑠。
 けれどやがて、時間の経過と共に、湯殿の中の湯気はおさまってきた。

 
 ふと丈瑠が顔を上げると、目の前の湯気が消えようとしていた。
『………だが』
 何もない湯面を見つめていた丈瑠の頭は、未だにぼんやりとしていた。それでも視線を上に転じると、そこはすっきりと見通せるようになってきている。
『爺がいなくなってしまうのは事実だ。だが、考えてみれば………俺は………』
 目の前の湯気が消えるように、丈瑠の頭の中に立ちこめていた霧のようなものも、晴れて行くような気がした。
『そうだ』
 丈瑠は深く息を吐き出した。
 剣道場に行く前。彦馬の執務室の前に立ち竦んでいた時に、丈瑠は何を考えていたのか。
 徐々に頭の中で、明確な形を成し始めたもの。
『むしろ、その方がいい』
 深夜の自室で、自分は何を決意したのか。


 ドウコクを倒すために、志葉薫に請われて、再び志葉の当主に就いた丈瑠。あの時から、丈瑠には、もう逃げ道は残されてはいないのだ。
 はるかな昔。志葉家から迎えが来る前の、僅かな時間に、実の父から言われた言葉が脳裏によみがえる。

「強くなれ、丈瑠」

 丈瑠の父は、そう言った。きっと父には見えていたのだ。丈瑠の弱さが。

「志葉家十八代目当主。どんなに重くても、背負い続けろ」

 十八代目が十九代目になろうと、なんら変わることのないこの言葉。丈瑠がいつか、志葉家当主の座に相応しくない状況に陥ることすらも、丈瑠の父は知っていたのだろうか。

 何度も何度も、思い出してきた記憶の中のこの光景。
 しかし今ほど切実に、丈瑠の胸にこの光景が迫ってきたことはなかった。十臓との外道のような闘いに身を投じた時も、ここまで切実に、あの日の父の言葉が胸に突き刺さったことはなかった。なにしろあの時丈瑠は、志葉家当主ではなかったのだ。むしろ、ドウコクに封印の秘密が知れた時の方が、今の状況に近いのかも知れない。
 丈瑠がなるのは偽の当主でしかないことを判っていながら言った、父の言葉。丈瑠の父は、本当は何を言いたかったのだろうか。影武者も、偽の当主も、そんなことは関係ないのだろうか。
 そして、父は最後にこう言った。

「堕ちずに飛び続けろ」

 やはり父は知っていたとしか思えない。いつか丈瑠がこうなることを………
 だからこそ志葉家に入る寸前の、生まれた家での最後の時に、父は丈瑠に言ったのだ。堕ちるな、と。
 これを、この言葉を守り通すために、丈瑠がしなければならないこと。志葉家当主として、最悪の堕ち方だけはしないためには、どうすればいいのか。
 それを、丈瑠は決意したのだ。






 改めて決心してしまえば、丈瑠にも諦めがついた。
 志葉家に入って以来、自分のことについてならば、諦めることには慣れている。
 むしろ、これを実行に移すならば、彦馬が薫の下に行くというのは、好都合というものだ。彦馬はどこに行こうと、自分の配下であった黒子たちのことを忘れたりはしないだろう。そうだとすれば、丈瑠がいなくなった後の彦馬や黒子の心配を、丈瑠はしなくて済むのだ。

 薫は、そういうことまで考えて、この話を持ち出したのだろうか。
 丈瑠がこれから、志葉家当主として為すべきことを為すと信じて、丈瑠のその後の憂いを取り除くために?

 穿った見方をしてしまうのは、相変わらず丈瑠に周りが見えていないからだった。
 それでも幾分かすっきりした丈瑠は、ふうっと息を吐き出すと、顔を天井に向けた。湯気が天井に吸い込まれていく様を見ながら、もう二度とこの風呂に入ることもないかもしれないと思うと、何故か感慨が湧いてくる。
 じっと天井を見つめていると、どこかから声が聞こえてきた。

『おまえは、何のために生まれ、何のために生きてきたのか』

 これは、丈瑠の心の声なのだろうか。
 これから為すべきことを決意したから、普段考えたこともない、こんな哲学的な問いが出てきたのだろうか。
 しかし丈瑠は今なら、この問いに明確に答えることができた。
 それが二十数年の短い命であったにしろ、確かにそう生きてきたのだから。

「俺はきっと………」
 丈瑠は誰に答えるでもなく、呟く。
「志葉家のために生まれ、志葉家の当主として世の中の平和を守るために生きてきた」

 二十歳を少し超えただけの丈瑠が、こうまではっきりと言い切れるのは、まさしく志葉家に入ったためだ。そして彦馬にそう育てられてきたからだ。普通に育ち普通に生活していたら、それがどんな答えであろうとも、ここまで確信を持っては答えられない。短くとも、少しは意味のある人生を歩めたのも、志葉家のお陰と言っていいのだろうか。
 丈瑠が、そう思った瞬間だった。

「嘘をつくな!」

 怒りに満ちた声が、湯殿中にこだました。
 





 突然、丈瑠の頭上に振り下ろされる剣。
 それを咄嗟に振り返って受けたのは、いつの間にか丈瑠の手に握られていたシンケンマルだ。

 裸のまま、湯が大きく揺れる風呂桶の中に立ち、力の限り刀を合わせる丈瑠。
 再び湯殿の中に満ちてきた湯気のためか。風呂桶の外、すぐそこにいるはずの相手の姿が、丈瑠には見えない。ぎりぎりと互いに刃を当てたまま押し合う二人。しかしその顔は見えなくとも、丈瑠は、今自分を襲ってきた相手が誰なのかを知っていた。

「嘘を…つくな」
 見えない相手の顔が迫って来て、丈瑠の耳元でもう一度囁く。今度は低く静かな声だった。
「お前は、闘うために生まれ、闘うために生きて来た」
 どこかに嘲笑が含まれている声音。さらに、言いながらも刀を押してくる力は、尋常ではない。
「くっ………」
 それを必死に受ける丈瑠の手が、やがて痺れてくる。
 いくら鍛えている丈瑠でも、まだ病み上がりと言っても良い状態。その上、風呂の中で裸とあっては、普段の実力の半分も出せなくても、仕方ない。それを知っていて、相手も手加減しているのだろうか。相手がいつもの力を出していたのなら、丈瑠は最初の一撃で、一刀両断にされていたはずだ。

 遊ばれているのか?
 いや、こいつはいつも、そんなだったか………
 斬り合いそのものを楽しむ外道………

「おまえも俺と同じだ」
 丈瑠の心の声を聞いていたかのように、相手が嗤う。
「この世を守るためでなくとも、お前は闘う。闘えるだろう」
 揶揄するような言葉に、丈瑠の眉が寄る。そんな丈瑠の顔も相手には見えているのか。
「志葉家当主なんぞ、どうでもいい。お前の血は、ただ闘いを求めている」
 いっそ嬉しそうに言うのは、逆刃こそが本性と言う、不気味な血の色をした両刃の剣を持つ男。
「斬り合いのための、闘い。ただ闘いのための闘い。それが俺の真実であり、お前の真実でもあったんじゃないのか」
 ずずっと、舌舐めずりしているような音に、丈瑠の背筋に悪寒が走る。
「そんなお前が、俺をここに呼んだんだ」

 その瞬間、相手が後ろに飛び下がった。
 丈瑠も瞬時に、風呂桶から背を低くして、転がるように飛び出る。

 相変わらず湯気が満ちていて、何も見えない湯殿。
 相手はこの狭い湯殿のすぐそこにいるのだろうが、何も見えない。湯気の向こうから突き出ている予感のある刀も、裏正だろうことはわかるが、その切っ先すら見えない。

 丈瑠はじりじりと足を交差させて、少しでもシンケンマルを振るいやすい場所へと移動しようとする。しかし湯気で何も見えない湯殿の中、風呂桶から転がり出た丈瑠は、方向感覚を失っていた。
 広くもない湯殿の中で、丈瑠は相手の気配を掴めない。

 そんな馬鹿な。
 まだ、この湯殿のどこかにいるはず。

 そう思った時、丈瑠の背中でガラリという音がした。
 振り向いたそこ、湯気の隙間から、赤い波刃がちらりと視界を過る。
「そこか!」
 シンケンマルを頭上から、渾身の力を込めて振り下ろす。斬れる!そういう確信があった。
 しかし

 ガッシャーン!

 すさまじい音と火花が、丈瑠の目の前で炸裂した。丈瑠の手元に激しい衝撃が走り、持っていたはずのシンケンマルが、高く跳ねあげられる。
「………殿!!」
 押し殺した声。
「殿!お気を確かに!?」
 呆然とする丈瑠の足元にシンケンマルが落ちてくると同時に、一気に視界がクリアになった。

 丈瑠がシンケンマルを振り降ろそうとしていたのは、湯殿控えの間だった。その隅に、黒子が一人座り込んでいる。湯殿控えの間の入口に近い所に立つ彦馬が、槍を丈瑠の方に突き出していた。彦馬の後ろにも、何人かの黒子が見える。
 湯殿での丈瑠の様子がおかしいと気付いた黒子が、彦馬を呼びに走ったのだろう。彦馬は、まさか外道衆が志葉家の奥にまで入って来るとは思わなかったが、念のために槍を持って駆け付けた。
 そして丁度、丈瑠が控えの間にシンケンマルを持って入ったところ。その丈瑠の様子が正気ではないと判断し、丈瑠がシンケンマルを振り上げた瞬間に、シンケンマルを槍で弾き飛ばしたのだ。

「………俺は………」
 真っ青になる丈瑠。その腕から全身に震えが上がってくるのに、そう時間は掛からなかった。
「俺は………」
 たった今までシンケンマルを握っていた自分の手のひらを見つめる丈瑠。
 その間にも、槍を傍らの黒子に渡すと、丈瑠のそばに駆け寄ってくる彦馬。
「俺は、もしかしたら黒子を………」
「少し湯あたりなさったのでしょう」
 丈瑠に全てを言わさずに、彦馬が丈瑠の肩にバスタオルをかけた。
「何もご心配には及びません」
 部屋の外から入ってきた黒子が、怖がることもなく、そそくさと丈瑠の身体を拭いて行く。
「いや、だが………」
 部屋の隅にいた黒子が、他の黒子に付き添われて出て行くのを見た丈瑠の声も、震えていた。

 あの黒子に一言なにか言わなくては。
 俺は、あの黒子を斬り殺そうとしたのではないのか?

 そう思っても、手も足も動かない。乾いた唇は音を失い、それ以上の言葉も発してくれない。それなのに、彦馬も他の黒子も、本当に何もなかったかのように丈瑠の世話を焼くのだ。相変わらずの優しさで。
「………あああ」
 両手で顔を覆い、そのまま膝が崩れそうになるのを、彦馬が支えた。
「殿!しっかりなさいませ!!」
 耳元で叱咤され、丈瑠は再び顔を上げる。
「そうです。それでよろしい。悪い夢を見られたようですな」
 彦馬の声が、丈瑠の鼓膜を揺らしても、その内容は頭の中には入って来なかった。
「さあ、とにかくお部屋へ。身体も温まったようですし、今晩はもうゆっくりとお休みになって下さい」
 笑顔でそう言うと、彦馬は丈瑠の背に手を回し、丈瑠を控えの間から出そうとする。
 何が何だかわからなくなりそうな丈瑠は、もう、その手に縋るしかなかった。
 自分が今、何をしようとしていたのか。彦馬が槍を突き出して、丈瑠のシンケンマルを弾き飛ばさねば、何が起こっていたのか。
 今の丈瑠には、とてもその真相を追及する気力はなかった。






 丈瑠が控えの間を出ようとした時。
 丈瑠の背中に、嫌な予感が走る。

 彦馬に抱えられたまま、背中を振り返る丈瑠。
 控えの間のさらに向こう。
 白い湯気の立つ湯殿の中に、白い影があった。

「………殿?」
 丈瑠の視線を追って、不思議そうに聞いてくる彦馬。その言葉に、あの白い影が丈瑠にしか見えないことを、丈瑠は悟る。
 それならば、そのような影を相手にする必要はない。丈瑠が白い影に背を向けると、影が嘲笑した。
「逃げるか」
 背を向けているにも関わらず、その顔が嗤いに歪んでいるのが見えた。瞳が不気味に赤く光るのも、見えた。
「そうか。逃げるんだな」
 再確認するような言葉。丈瑠は俯いて、唇を噛みしめる。
「殿?」
 心配そうに顔を覗き込んでくる彦馬に、丈瑠は首を振った。そして、彦馬の肩に凭れたまま、控えの間から足を踏み出す。そんな丈瑠の背中に、白い影が叫ぶ。
「おまえは!」
 嬉しそうな顔までもが見えるような、楽しそうな声。
「今でも、大嘘つきだな!」
 










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2011.09.26

2012.03.20 しゅうこ様のイラスト UP