余 韻  4












 今となっては、丈瑠の記憶しか拠り所はない。丹波は知っているのだろうが、わざわざ丹波に確かめるほどのことでもないだろう。






 丈瑠が、生まれて初めてモヂカラを使ったのは、丈瑠の記憶によれば、志葉家に入る一年半ほど前。三歳になったばかりの頃だった。
 七五三の節句に神社を訪れた後のことだろうか。普段着ていた服とは異なる着物を着ていた気がする。場所は多分、この志葉屋敷だ。何故、そこに居たのかわからない。傍に、父親の姿も見えなかった。丈瑠はひとりで、かくれんぼをしているような気分で、広い庭に足を踏み入れた。

 子供心に随分歩いたような気がした。やってきた先の庭に、その人はいた。剣道着を身につけて、真剣で形稽古をしていた。その身に発せられるオーラと、子供心にすら見とれるような太刀筋、きらきらと夕陽を受けて輝く真剣に、丈瑠の心が震えた。普段は怖がりの丈瑠が、その時は、見知らぬ場所での見知らぬ人の圧倒的な雰囲気に、魅せられたのだった。
 その人は、丈瑠がそこにいることに気付きながらも、稽古を続けていた。それを物陰から見つめ続ける丈瑠。やがてその人は稽古を終え、刀を納めると、丈瑠を振りかえった。思わず逃げ出そうとする丈瑠の身体を、柔らかい風が、庭に押し戻す。まるで風に連れて来られたように、その人の前に出てしまう丈瑠。怒られるかと思いながら半泣きで見上げたその人は、優しい笑顔で丈瑠を見降ろしていた。

「その人が、あの時、何を言ったかは憶えていない」
 丈瑠は目を瞑る。けれど、忘れることのできない記憶。

 泣きべそをかいている丈瑠をあやそうとしたのだろうか。その人は懐から筆を取り出すと、丈瑠に見せるように、ゆっくりと空中に絵を描いた。今から考えると、それは絵ではなくて文字だったのだろう。しかし、まだ漢字を知らない丈瑠には、それが絵に見えた。いや、本当にその本質を示す絵に見えたのだ。何故なら、自分が発した最初の言葉は憶えているから。
「かぜ?」
 丈瑠は漢字を知らないにも関わらず、空中に書かれた文字がモヂカラとして発現する前に、その正体を知りそう叫んだ。
「さっきの風も………」
 そう言った瞬間に、丈瑠の髪をそよ風が撫でた。
「今のも、おじちゃんが吹かせたの?」
 きらきらと輝く瞳で丈瑠が見上げた先のその人は、驚いたように目を見開いていた。
「北風じゃないね。そよ風だね」
 最近見た絵本で憶えた言葉を丈瑠は続ける。

 彦馬が瞬きもせずに、丈瑠の話を聞いていた。
「その人は『風』を操る侍だった。つまり………茉子の親戚だったのだろうな」

 その後も、どうしてかは知らないが、その人はいくつかのモヂカラを見せてくれた。
 小さなつむじ風で、丈瑠の周りに木の葉を舞わせた。それを丈瑠が面白がっていると、さらにいろいろな風を、丈瑠に披露する。その人の見せる魔法のようなモヂカラに、丈瑠の胸は高鳴った。丈瑠は飽きることなく、その人が繰り出す風を、その繰り出し方を見つめ続けた。
 やがて夕闇が庭に下りてきた頃、その人が見せてくれたのは、小さな花火だった。手のひらの上で広がる程度の、小さな花火。
「!?」
 その年の夏に、丈瑠の家の近所で行われた花火大会。その天空に花開く巨大な花火と同じものが、目の前の手のひらの上にあった。幼い丈瑠は、その花火大会が、実は怖かった。どれだけの人がいても、真っ暗な空や大きな音が怖くて仕方がなかったのだ。けれど、今目の前に光る小さな花火は、怖くなかった。
「小さい花火だね」
 丈瑠は微笑む。そして突然、何を思ったか丈瑠は、指で空中に何かを描いた。丈瑠は漢字をひとつとして知らなかったので、もちろんそれは「花」でも「火」でもなかった。ただ、目の前の人がしていたことを真似したのだ。
 夕闇が濃くなっていた。だからこそ、それは見えたのだろう。丈瑠が出したとても弱い小さなものは、ちいさな「火」だった。花火にはなれない、線香花火のような、小さな「火」だった。
 それが、丈瑠の初めてのモヂカラの発現だった。モヂカラの何たるかも知らずに、出した力だった。けれど丈瑠自身は、自分が出したものに、がっかりする。
「おじさんのと違う………」
 そこまで言ったときに、その人は屈みこんで丈瑠を激しく抱き寄せた。丈瑠を覗き込んでくるその人の顔は、闇の中でどこか怖かった。驚いて思わず泣きだした丈瑠に、その人は、今度は大きく揺らめく「炎」を掌の上に出して見せてくれた。その「炎」は、とてもきれいだった。しかし、目の前にいる人と同じく、丈瑠にはその炎がどこか怖かった。






 丈瑠の話に、彦馬は絶句していた。そんな話は、誰からも聞いたことはなかった。
 丈瑠にモヂカラの才能があるから、志葉家に迎えられたことは承知している。しかし、それがどのような経緯で発現したのか、どれほどのものなのかは、彦馬も丈瑠の父親も知らなかった。丹波に慎重に育てるように言い含められた彦馬は、丈瑠の才能を疑うことはなかったが、既に「火」のモヂカラを使えるなどとは、微塵も思ったことはなかった。何故なら「火」のモヂカラは、志葉家当主が受け継ぐものと信じていたから。志葉家の家臣である侍の家系の者であっても覚えることは難しいのだ。だからこそ、侍の血筋ではない丈瑠に、「火」のモヂカラを覚えさせることがどれほど過酷なことかと、心配していたのだ。

「しかし………」
 そこでふと、彦馬の頭に疑問がよぎった。
「志葉家の秘術であるモヂカラを、先代の殿はどうして見知らぬ子供に見せたりしたのですかな」
「先代じゃなくて、先々代の時代だ………え?」
 彦馬の言葉を訂正しようとした丈瑠が、途中で言葉を途切らせた。それに彦馬が不審を感じて顔を上げた。
「何ですかな?先々代?そんなことは、どうでもよろしいが」
 丈瑠が考え込んでいた。
「殿は何を仰りたいのです?」
「いや………先々代の殿?あの人は、茉子の親戚の人だったのではない………のか?」
「違いますぞ」
 混乱する丈瑠に、彦馬は真実を告げた。
「殿の話を聞く限り、殿にモヂカラを見せたのは茉子の親戚ではなく、先代の殿、つまり十七代目当主その方です」
「え?で、でも?」
「最後に『火』のモヂカラを殿に使って見せたと仰いましたな。それが証拠です。爺が知っている限りにおいて、歴代の志葉家当主つまりはシンケンレッド以外で『火』のモヂカラを使えた者はおりません。十七代目当主の時代にも、まさしくそうでした」

 彦馬の言葉に、丈瑠は強い不信感を覚えた。
「そんな話、爺から聞いたことなかったぞ」
 思わず丈瑠は、布団から起き上がった。
「歴代の志葉家の当主以外で、『火』のモヂカラを使えた者がいなかった………なんて!そんな話は!?」
 丈瑠の抗議に、彦馬が失敗したという顔をした。
「爺!?」
 重ねて問う丈瑠に、彦馬も腰をさすりながら身体を起こした。彦馬の身体が心配でならない丈瑠ではあったが、彦馬の今の話は聞き捨てならなかった。一方、彦馬も丈瑠に布団で休んでいてほしいのは山々だったが、口が滑ってしまった以上、この話を有耶無耶のままにするのは、丈瑠の今後にとってもよくないと思った。
「これを言ってしまっては、殿に『火』のモヂカラの稽古を強いることはできませんでしたからな」

 初代、志葉烈堂から十七代、三百年に及ぶ間、「火」のモヂカラは、志葉家の当主であるシンケンレッド以外で習得した者はいない。こんなことを、その血筋に連なっていない丈瑠に、言えるはずもなかった。それは丈瑠にも、身に沁みて分かる。「火」のモヂカラが使えるようになってからも、ずっと志葉の血を引いていないことに引け目を感じていた丈瑠だったから。封印の文字の話に至っては、聞くのも苦痛だった。
「言えば、俺が自分の限界を知って………役目を投げ出してしまうとでも思ったのか」
 丈瑠が思わず拳を握りしめた。この一年はもちろんだったが、その前から常に限界を感じながら生きてきた。常に自己否定をせずにはいられなかった。それが良くないことは丈瑠自身でも分かっていたし、彦馬に何度も指摘されていた。だから彦馬が丈瑠に言えなかったのは分かる。
「でも限界なんか!!自分の限界なんか、ずっと前から分かっていた!!それは爺だって、知っているじゃないか!!」
 自分の限界を痛感しつつも、投げ出すこともできず、他にどうしていいかもわからず、ただ稽古をし闘ってきた自分。彦馬の気持ちも分かるけれど、そんな基本的なことすら知らされずに自分はやってきたのかと思うと、できないことを分かっていてやらされていたのかと思うと、未だ胸の内に渦巻く闇に飲み込まれそうな気がしてくる。苛立ち、叫ばずにはおられない丈瑠に、しかし彦馬は力強く首を振った。
「殿をお育てした最初の半年はそういう思いもありましたが、殿が『火』のモヂカラを覚えられてからは違いますぞ」
 彦馬が怖れたのは、丈瑠が覚えられる「火」のモヂカラの限界を丈瑠が知ってしまうこと、それにより丈瑠が自ら担うべき役目を放り出してしまうこと、ではなかった。丈瑠自身が、それを言い訳に自らのモヂカラに限界を作ってしまうことを怖れたのだ。
 丈瑠は自己否定が激しい割には、いつも彦馬の想像を超えて育って来た。彦馬が、こう在って欲しいと望んだ志葉家当主の理想。けれど過去の例に当てて考えれば、丈瑠がそう在れるはずはないと諦めてもいた。それは、やはり志葉の血の問題だ。けれど丈瑠は、志葉屋敷の奥で世間から隔絶して育てられたため、志葉家の当主、シンケンレッドになるという以外に、自分の生きる道を知らなかった。だからどんなに悩みが深くても、たったひとつの道を前に進むしかなかったのだ。そして彦馬の予想を裏切って、彦馬の理想にどんどん近付いて行った。
 そんな丈瑠を育てているうちに、彦馬は思うようになっていた。いつかは丈瑠のモヂカラに限界が来るのだとしても、それがどこなのかなど今悩む必要はない。限界が来たときに、考えればいいことだ。十七代目当主ですら、完成させられないモヂカラがあった。歴代当主が切望したが、モヂカラが足りなくて完成できなかったインロウマルというものもある。志葉家の当主であっても、モヂカラに限界はあるのだ。丈瑠のモヂカラに限界があったとしても、それが歴代当主の限界と、どこが違うと言うのだろう。












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2010.03.07